第1話
困った、困った――
自邸に戻ってからも、業平はそれを連発していた。彼は本当に困っていた。何か大きく、流れが変わろうとしている。それが面倒くさくもあった。昨日までの平穏な日々に戻りたい。しかし、そう思っても、流れは激流となりつつあるようだ。
その証拠に、あれから常行は業平の自邸にと三日をあけずに足を運んでくる。右近衛府ではそ知らぬ顔をしておきながら、帰宅後の午後になってからは必ずといっていいくらい常行はやってきた。
そしてこの日は、いつになく常行の表情は明るかった。
「父君には、ついにうんと言わせ申した。ただ、母が……」
そのあと、常行は言葉を濁した。おそらく彼の母は反対だったのだろう。だが、そのことははっきりとは言わなかった。
「とにかく、ご心配なく」
別に業平は心配などしていない。むしろうまく事が運んでしまうほうが心配だった。だから渋い顔をした。
「妹御は、お歳は?」
場をつなぐためにそう訪ねてみたが、聞いてしまってから業平はしまったと思った。脈があると思ってか、常行は嬉々として答える。
「二十一でござる。少々行き遅れた感がござれば、私も焦っておって……あ、いや、そういうわけでは……。その歳まで待っておったお蔭で、将監殿のようないい話が」
常行の取ってつけたような言いわけはいいにして、業平は……二十一か……と心の中でつぶやいた。確かに若くはない。明らかに婚期を逸している。
しかし、三十半ばの今の妻に比べたら十分若いといえる。だが、年齢だけで決められる話ではない。
「とりあえず垣間見をさせて頂けませんか?」
もちろん常行は二つ返事で、嬉々として帰っていった。だが業平は、まだ決心したわけではないと自分に言い聞かせていた。それでも少し不安はあった。
もし垣間見して恋心が湧いてしまったら、そして自分の心がその恋心に縛られてしまったら、自分の人生は台なしである。
いや、まずそんなことはないだろう、若者ではあるまいし……と思う反面、いや、待てよと心の中で別の声がする。そこに落とし穴があるのだ、と。
女に恋をすることは年齢とは関係なく、男の宿命だ。だが、その「恋」の意味が、年齢によって異なってくる。幼い恋心は、相手の「心」をもとめての純粋な恋もできよう。だがある程度成長すると、結局は究極のところを求めて欲望のみで動いてしまう。
そのようなことはないと表面的には否定しても、心底には必ずそのような動機がある。
女を知らなかった純粋な頃には、もう戻れない。
もっとも、相手がこのような中年男を相手にするはずがない……しかし、それを言ったら常行は、これくらいの年齢差の夫婦など世間にざらにあると言っていた。
さらに恐いのは、もしこの話が成就してしまったら自分は右大臣家の婿になってしまうわけで、紀家の婿でもある自分がどのような立場になるのか……そのようなことは考えるのも面倒臭い。
とにかく何かしら政治的なことが付随してくるはずで、そのしがらみに縛られるのは必定だ。右大臣家の婿になるということは、他人が聞いたらこれほど羨ましいことはないであろうが、それを望むなどということは業平にとって反吐が出るほど嫌いな考え方であった。
ああ、やだやだと、業平は背筋が寒くなる思いだった。
ただ、唯一の望みは、相手の女の母親が反対しているらしいことだった。それによってこの話が流れてくれれば、それがいちばんいいと業平は思っていた。
そのうち更衣も過ぎて、年号は天安から貞観に変わった。
その頃、手はずが調ったと常行が言ってきた。
もう引き返せないようだ。大きな流れの中に身を委ねるしかない。そう感じていた業平だったが、やはり煩わしくて仕方なかった。そっとしておいてほしいと切実に思う。
しかしその反面、心のどこかでおもしろそうなことになるかもしれないという期待感があって、それが激流に呑み込まれることに強く抗えなくさせている。
とにかく常行にせかされる形で、ついに業平は腰をあげた。
供もつれず、一人馬で西三条邸に向かう間、とにかく今日は見に行くだけだと業平は自分に言い聞かせていた。それだけで戻ってくれば、明日からもこれまでと変わらない日常が続く。
もし、そのようにただ戻ってきてこの話を反故にし、それが兄の行平の耳にでも入ったら怒号が飛んでくるか、あるいは徹底的に嘲笑されるであろう。
しかし、そのようなことはどうでもいい。それはあくまで兄の価値観であって、自分とは違うと業平は思う。
そう思っているうちに、西三条邸に着いた。東側は朱雀大路に面し、出入りする門は西側の西坊城小路に面している。邸の南側は朱雀院の巨大な森が、暗闇の中で息を潜めていた。
業平が門の前で一つ席払いをすると、門は開かれた。常行との打ち合わせ通りだ。暗闇にまぎれてこっそりと女のいる部屋をのぞく――これが垣間見だ。常行との打ち合わせもそうすることになっていたし、業平もそのつもりで来た。ところが一歩門に入るや、話が違ってきた。
火のついた紙燭を持った年増の女房が業平を邸内へと招き、そして案内していく。夜なので庭の様子などは見えないが、寝殿と左右の対の屋は渡廊で結ばれてはおらず、それぞれが独立して建っているようだ。敷地は方一町ときいていたからかなりの広さになるはずで、庭の南東の片隅に池があるのだけが、月の光の中で認められた。
やがて西ノ対らしき建物に着いた。女房は業平を簀子に上がらせ、そこに置かれた円座へと誘った。その前だけ、格子は降ろされていなかった。御簾は下がってはいるが中に灯火がともっているので、ぼんやりと室内の様子が分かる。
業平は息を呑んだ。胸が高鳴る。苦しいくらいだ。中には女がいて、長い髪をこちらに向けている。さっきの女房が杉の開き戸を開けて室内に入った。ひれ伏して女に何か言っている。
常行の妹の姫と思われるその女が、うなずいているのが分かった。だが、顔は見えない。浅黄の上衣に裙を着けている。近頃の貴族の若い女の間では宝髻を結わず、垂れ髪にするのが流行り始めている。目の前の姫も、そのような流行の垂れ髪だった。
そのうち、女房が出てきた。どうぞ室内へという。
これでは垣間見とはいえない。引き返すなら今だと、業平は思った。しかし、何か大きな圧力を感じ、それに抗え得ないような気がして恐る恐る業平は室内へと入った。
廂の間も過ぎ、女房はいきなり姫のいる身舎へと業平を招き入れた。さすがにそれまでの間に、姫は几帳の向こうへと入っていた。
本来なら垣間見で見染め、歌のやり取りをして互いの気持ちを確かめたあと、簀子から室内の女にまずは人づてに会話をし、やがてそれが直談となる。その間に男は女の親の承諾を得るために談判するなど、恋や結婚にはいろいろな手続きがあるものだ。
ところが、そのすべてが省略されている。しかも、自分が意識してそうしたわけではない。
女房は出て行った。几帳を間にはさんで、業平と姫は二人きりとなった。業平は、何をどうしたらいいのか分からなかった。歌を詠むにしても、ここまで来て今さらとも思う。だから、沈黙の時間が流れた。
仕方なく業平は立ち上がり、几帳のそばに寄った。薄い布の向こうでは、かすかに衣擦れの音がした。
「直子姫」
いきなり業平は、女の実名を呼んだ。
「はい」
という返事があった。か細い声だったが、これだけで十分だ。自分の実名を男に告げ知らせることが結婚の承諾になるという、そんな太古の風習の名残がわずかに残っている。
業平はすでに姫の実名を、その同母兄の常行から聞いて知っていた。それを呼んだ。それに対して、姫は返事をした。あとはもう、引き返すことは許されない。業平は几帳をめくった。
淡い灯火に、姫の顔が映しだされた。久々に見る若い女の顔だ。飛びぬけて美人というほどでもないが、気品が漂っている。
業平の男に火がついた。二畳だけ敷かれた畳の上に上がり、姫を抱き寄せた。すると姫は、その顔を業平の狩衣の胸にうずめてきた。甘い香の香りがする。業平はゆっくりと、腕の中にある長い垂髪をなでた。
――いとしい……
確かに業平は、そう思った。姫の手を握り、今度は業平のほうが姫の胸に顔をうずめた。その体は、かなり熱く感じられた。
「灯火を……」
返事以外には、初めて聞く姫の肉声だった。だが業平は、わざと灯火を消さなかった。そのまま上衣の上から、胸のふくらみに手を当てた。姫は全くなすがままだった。おそらくすべて成りゆきに任せるよう、兄に指示されているのであろう。
業平は姫の体を横にして、裙をめくる。そして上衣の衿を開いてはだけさせ、あらわになった乳房にもう一度顔をうずめた。熱くて、柔らかかった。短い声を女は発した。
「恥ずかしい。灯火を……」
と、小声でささやいたりもする。業平の男は十分に変化していたが、どこかぎこちなくもあった。妻と床離れをしてからここ数年、女と交わっていないのだ。
乳房をゆっくりと揉みながら、業平の男は大きく開かせた姫の足と足の間に侵入していった。もうどうすることもできない事実が今、まさに生じつつあった。