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第3話

 都に帰ったのは、夜になってからだった。

 まずは親王を大炊御門烏丸の屋敷まで送り届ける。この日は久々の遠出だっただけに、さすがに業平も疲れていた。

 とにかく早く自邸に帰って寝たい。もう昔のようには、身体がいうことをきかない。四十代の半ばにして思うことは、このまま自分は老いさらばえて枯れていくだけなのかということばかりだ。

 若者を見ると嫉妬を感じ、自分も朝起きたら突然若者に戻っていたらという妄想さえ生じる。

 だが、今の若者に比べて自分の若者時代がまさっていたとも思えない。その分だけ、嫉妬が激化する。だから若者とは住む世界が違うと割り切るしかないが、だからといって業平は同世代とも同化できずにいた。

 同世代人は出世栄華の虫で、これもこれで業平とは別の人種である。したがって今、彼が心を開くことのできる友でもあり、嫉妬の対象ともなる若者が惟喬親王だ。

 その惟喬親王は、屋敷まで送り届けた業平をそのまま帰そうとはしなかった。


「今日の狩りのため、禄なども進ぜよう」


 そういう口実で有常ともども中に引き入られ、親王邸でまたもや酒宴が始まった。

 ところがその禄は、いつまでも出てきそうな気配はなかった。杯はどんどん勧められる。

 この宮になら、付き合っていても苦にはならない。しかし、それは気持ちだけで、体がついていかない。業平は半分眠っていたし、酔いの回りも早かった。

 こんな時にも、いや、こんな時だからこそ、彼の武器は歌であった。


  枕とて 草引き結ぶ こともせじ

    秋の夜とだに 頼まれなくに


 今は秋の夜長ではなく、暁を覚えない春の夜である。それでも親王は帰してくれそうもないので、ついには業平はとことんまで付き合って差し上げようと腹をくくった。

 世の中から孤立した自分の心は、そのまま親王の心なのだと業平は感じたからだ。

 親王にも妻子はあるようだが、この屋敷には住んでいないようだ。どこにいるのかも業平は知らない。考えてみれば不思議なことだが、本当に知らないのだ。

 ただ、その妻子が親王にとって心のよりどころとはなっていないであろうことは十分察せられた。だから今は、自分がともにいるべきだと業平は思う。

 男と女では肉体的に結びついても、魂まで結びつかないことはよくある。だが逆に、男同士では一部の例外をのぞいて当然体の結びつきはないが、それでも魂がしっかり結ばれることがある。しかも、それは世代を超えてもだ。

 業平がそんなことをぼんやり考えているうちに、杯の数はかなりのものになった。こんなに酔ったのも久しぶりだ。業平は目が回りはじめ、親王が何を言っているのかさえ分からなくなってきた。

 そのうち、親王は立ち上がった。尿ゆばりかと思っていたら、ほかのものが引き止めている声が耳に入る。


「宮様。ご自分でお引き止めなさって、もう先に休まれるのですか」


 その咎め立てる声から、親王はどうも席を立って寝室に行こうとしているらしい。その足元もおぼつかない。業平はそんなやり取りに、全く自覚してではなく立ち上がり、


「宮様ーっ」


と、大声で叫んだ。そしてろれつが回らない口で、それでも歌だけはどこから出てくるのか、大きな声で吟じた。


  飽かなくに まだきも月の 隠くるるか

    山の端逃げて 入れずもあらなむ


 親王は業平の方を見て、にこっと笑ったような気もする。だが、業平の意識は、それを見届けるにははっきりしてはいなかった。


「宮様! お返し歌は!」


 親王はそれでも寝室に入ろうとするので業平は食ってかかり、紀有常がしきりにそれを止めようとしているようであった。そして、有常が親王に代わって歌を詠んだ。

 

  おしなべて 峰も平らに なりななむ

    山の端なくは 月も入らじを


 この歌がうけて、皆がどっと歓声を上げたまでが業平の記憶だった。

 あとはどうなったか分からない。目を覚ました時はすっかり朝で、業平は親王邸の酒宴の席で横になっていたのだった。


 翌日はさすがに頭痛もして、また親王にからんだことなども朧気ながら思い出されて心は暗かったが、その後数日は業平の心は充実していた。


 しかし、元に戻るのも早かった。いくら宮仕えはいい加減にしているとはいえ、全く出仕しないわけにもいかない。それが業平にとっては最大の苦痛だった。

 勤務中は、いても立っても入られないほどいらいらしてしまうこともある。暴れだしたくなるほど気持ちが焦るのである。

 苦痛といえば、朝早く起きなければならないこともその一つだった。起きられたとしても、だいたい午の刻前までは頭がボーっとして、時には胸が苦しくなったりもする。いよいよ自分も年かなと業平は思う。


 そしてまた夏がきた。宮中はただ先例の繰り返しの日々が続き、同じような毎日の連続だった。時間はゆっくりと流れていく。そこには何ら味付けとなるような変化はない。

 ただ、秋になったばかりのまだ残暑が残る頃に、大きな地震があった。都でもかなりの揺れを感じ、建造物の破損もいくつか報告されたが、被害が大きかったのは震源と思われる播磨地方であった。

 家屋が多く倒壊し、土砂崩れがあったなどということが半月ほどしてから都へ伝えられた。人命もかなり奪われたようである。

 都でも地震は昨年から、小さいのは頻繁に起こっていたし、この大地震の後も毎日のように余震が続いた。


 その秋の終わりに、帝の生母の染殿の后――皇太后明子(あきらけいこ)の四十賀の宴が執り行われた。だが今やそれは、業平にとって別世界の出来事だった。

 別世界といえばもうひとつ別世界で、頭でそう割り切ろうとしても業平にとってどうしても感情が混ざってしまう出来事があった。

 女御高子がついに男皇子を出産したのである。故右大臣良相の娘の多美子には、とうとう巡ってこなかった瞬間であった。この皇子の東宮立坊は時間の問題であろう。

 これで摂政太政大臣の世は揺るぎないものとなる。さらにその養子――特に女御高子の同母兄である基経の将来も約束された。

 かわいそうなのは常行だが、業平は今接すれば火をつつくようで火傷しかねないと思い、普段は親しい常行をあえて避けていた。


 そのような政治的なことよりも、業平の心情は複雑だった。五節の舞姫……芥川のほとりでのこと……何もかもが昔である。そしてまた、ため息……。

 今は別世界の人になった高子だが、かつて愛した女がほかの男と結ばれたというよりも、ほかの男の子供を産んだということの方が複雑な感情になることを業平ははじめて知った。


 そうして、貞観十年も暮れる。だが、例年のようには十二月では終わらず、閏十二月が入って一ヶ月だけその年が延びた。その閏十二月には、源左大臣(まこと)が他界した。五十九歳だった。

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