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第1話

 前に同じ道を歩いた時と違い、今度の旅は一足ごとに都が近づいてくる。そして日を重ねるたびに、確実に都は近くなる。

 春たけなわであっても、富士はまだすっぽりと白い雪をかぶっていた。その姿も、次第に後ろへと遠ざかる。


 そして夏になってしまう前に、業平たちはようやく瀬多の橋を渡ることができた。夕日は湖水を染めて、山の向こうに姿を隠そうとしている頃だった。このままでは都に入る前に暗くなる。


「殿、いかがなさいますか」


 馬上で忠親が訪ねてきた。


「大津で宿を求め、明日あらためて入京なさいますか?」


「いにしえの志賀の都を偲ぶのも一興、だが……」


 業平は首を横に振った。


「都に入ろう。今夜中に」


 果たして逢坂山の山道は夜になった。月はあっても細い。それさえだいぶ傾いていて、急がないと沈んでしまう。

 松明たいまつを頼りに進み、ようやく峠道は下り坂になった。それが大きく旋回し、左右の山が途切れて視界が一気に開けるところにまで来た。

 闇の底に、淡い月の光に照らされて微かに都が横たわっていた。これほどの広さの人間の居住地はこの国では都以外にはあり得ないということを、業平たちは東国へ行ってはじめて知った。その中に今、彼らは戻ろうとしている。

 粟田口の峠の上で業平は馬を止め、二人の供もそれに従った。そしてしばらく無言で、三人とも都を眺めていた。


 自邸に戻るまでの道は、業平が知っているとおりの道だった。

 それでも今、自分が都にいるということがまだ信じられない。何度もこの日が夢の中に出てきた。今でもまだ、夢ではないかと思う。何か実感がわかないのだ。

 屋敷に着いた。今日自分が戻ることはすでに知らせてあるので、細殿ほそどのまで侍女たちや家司たちが出迎えた。


「お帰りなさいませ」


 その言葉で、業平はやっと自分が帰ってきたということを実感した。侍女や家司の数は、やはり減っているようだ。ここを留守にしてまだ一年たっていないのに、何十年ぶりかで戻ってきたような気もする。

 家司の中には、先に帰した安倍貞行もいた。


「いやあ、殿が東国の風を持ってこられた」


 と、とても嬉しそうだ。


「東国にいた時はあんなに都が恋しかったのに、いざ帰ると今度は東国が恋しくてたまりませんよ」


 貞行はそう言って笑っていた。

 その日は、とにかく休むことにした。


 翌朝、目が覚めると、都の自邸で迎えるはじめての朝であった。そのような当たり前のことが、妙に新鮮に感じられる。

 家司が格子を上げていく。業平は起きだして庭を見てみた。

 ひどい庭だった。昨夜は暗くてよく分からなかったが、塀は毀れ、草も伸び放題になっている。たとえ一年でも、命じる主がいなかったら庭はこの有り様だ。

 主従関係ではない家司だから、仕方がないといえば仕方がない。

 業平は早速忠親に、庭や建物の修復を命じた。また留守の間に忠親の代わりの臨時の政所別当として家政を預けていた興友おきともを呼び、留守の間のことを聞いた。

 これといって変わったことはなかったようだ。

 本来ならすぐにでも左兵衛佐として宮中に出仕し、また任官に尽力してくれた右大臣家にも挨拶に行かなければならない業平だったが、この日一日は休みたかった。

 そして髪を結い直し、髭も剃って、参内の身づくろいに時間をかけた。


 翌日、業平は参内した。まずは左兵衛府だ。ここで新しい勤務が待っている。その前に宮中の殿上の間に呼ばれ、蔵人からあらためて任官の申し渡しがあった。

 彼は再び殿上人に選任された。あとは同僚や上司への挨拶回りで、瞬く間に半日が過ぎた。

 上司の左兵衛督さひょうえのかみは源(まさる)であるが、彼は参議との兼任なので職務ではすけである業平が実質上の長となる。

 源多は今上帝の祖父君の仁明天皇の皇親源氏で、業平とは又従兄弟またいとこに当たる三十代前半の男だ。

 業平にとってかつてはあんなにもいやだった宮中が、今は新鮮にすら感じられる。武蔵野では土や草木の中に埋もれて生活し、日々の糧もある程度は自らの腕で自然の中から手に入れていた業平だ。それを思うと今は何でもできるような気がする。


 その日は昼過ぎに宮中を退出して、業平は自邸に戻った。その途中の車の中では、都大路にあふれんばかりに出ている人ごみに閉口した。なんと人間の多いことか。しかも、いろいろな人がいる。

 田舎では正月の観音堂に詰め掛けた群衆さえ、こんなには多くなかった。都は一年中正月だと言ってもいいくらいだ。

 一年前までは当たり前に見ていた光景が、今では当たり前ではなく感じられる。まるで初めて田舎から出てきた人のような気持ちに業平はなっていた。


 一度屋敷に戻ってひと眠りしたあと、業平はまた夕刻に車を出した。今度は右大臣の西三条邸へである。

 西の対では、ここでも女房たちが「お帰りなさいませ」と言って業平を迎えてくれるはずだ。

 ところが、西ノ対に上がる前にこの屋敷の家司がそばで畏まった。


「寝殿にお越しあれと、大臣おとどの仰せでございます」


 右大臣良相が、業平と会ってくれるらしい。

 彼はまず、寝殿の前の庭先にひかえた。すると家司が昇殿を促した。恐縮した姿を見せつつも、業平はきざはしを昇った。さらには、身舎の中にまで招き入れられた。

 業平の目の前の上座に、業平にとって舅である右大臣良相がいた。

 まだ老人というには早い四十代後半だ。その右大臣と業平の間には遮蔽する几帳も御簾も何もなく、業平が床にひれ伏すと侍女の手で円座が与えられた。


「お顔を上げなさい、婿殿。直答も構いませぬぞ」


 右大臣から直接そう言われても、業平は畏まったまま任官の礼を述べていた。それから顔を上げた。妻直子(なおいこ)の父と兄の常行は、黒い歯を見せてにこやかに笑っていた。


「苦労をしたようだね。これからはまろのもとで励むとよい」


「は」


 もう一度頭を下げると、禄が与えられた。


殿上人てんじょうびとのそなたが、庭先にひかえる必要はない」


 右大臣は大声で笑った。それだけの会見だった。右大臣が席をはずすと、常行が口を開いた。


「お痩せになったかな」


「いささか」


 真っ黒に日焼けした顔は、今は白粉で隠している。


「中将殿、このたびは……」


「まあ、堅い話は抜きにして。それより、これからは近衛府と兵衛府と役所は違っても、ともに次官。もはや将監殿ではなくて佐殿すけどのということになったから、これからは同等でござるな」


 そう言って常行は笑った。現実の位階相当では中将の方が佐より上だが、それは常行は言わない。


「ま、早く妹のもとへ行ってあげてくだされ」


「では、またいずれ、ゆるりと」


 業平も早く西ノ対へ行きたいと思っていたので、すぐに常行の言葉に従った。西ノ対に渡ると、直子は涙を浮かべていた。業平が座るとそばにより、


「お帰りなさいまし」


 と、小声で言った。


「世話をかけたな」


「必ずお戻りくださると思っていました」


 涙こそ浮かべているが、感情を露骨にあらわすようなことは決してしない女だ。それだけに業平は、あらためてこの妻がいとしいとしみじみ思った。

 しばらくは旅の話などしていたが、やがて侍女たちは二人を残して部屋の外へと出て行った。

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