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第1話

 行けども行けども、背の高さほどの草が繁っている。

 広い草原だ。業平は走るのに疲れた。一人ならまだいい。手をひいて走る高子の方が、もう息を切らしている。思えばはじめて見る海や富士の山も、高子と一緒の旅であったから感動もひとしおだった。そしてようやく武蔵の国にたどり着き、二人で過ごす安住の地を求めた。

 ところが、武蔵守忠雄が太政大臣の従弟であったのは誤算だった。都からの知らせが届き、たちまち業平は国府の兵に追われる身となった。今、武蔵野の草むらに高子とともに逃げ込んだが、国府の兵がもう周りを取り囲んでいる。

 彼らは草に火をつけた。いぶしだそうという作戦のようだ。火に囲まれたらひとたまりもない。

 その時、身をかがめていた高子が、草むらの中ですくっと立ち上がった。そして国府の兵たちに向かって、大声で朗々と歌を吟じた。


  武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の

    つまもこもれり 我もこもれり


 追われる身でありながら、業平は嬉しかった。高子が自分を「つま」と称してくれたのだ。感動に、熱いものが胸にこみ上げてきた。


 業平ははっと目覚めた。夢だった。表に目をやると、のどかな田園風景が広がっている。

 複雑な思いだった。夢の中で高子が一緒にいたということが、快感として残る。まだ、握った手の感触が残っているようだ。そしてあの胸を熱くした感動も、まだ心の中にある。

 ところが状況は、国府の兵に火をつけられてて危うく命をも落とすところだったのだ。だから、いい夢だったのか悪い夢だったのか、何とも言えなかった。


 業平はもうすっかり、近隣の民たちとも顔見知りとなっていた。今では隣人となった船頭の身の上話も聞くようになった。

 彼は若い頃に自らの本田を捨てて、この地に逃亡してきたという。たび重なる租税に耐えられなかったのだ。妻はともに連れてきたが、一人息子は国府の私領である国衙領で耕作に従事しているということだった。

 船頭の家には時折妻の縁者という中年女がやってきては、船頭の妻と無駄話をしていく。近所の人たちも皆、自らの田を持っておらず、土着の豪族の私田の耕作人であるようだ。昔はすべての良民に国から班田が支給されていたことを考えると、状況は一変しているといえる。

 業平にも国司からの米の支給があり、近所の民からの差し入れもあるが、時には自ら狩りに出たり、隅田川に釣り糸をたらしたりすることもあった。継則と貞行が、その釣果をうまく調理する。塩は近くの海まで海水を汲みに行き、天日で干して使用した。


「今日もあちいなあ」


 業平が草庵の庭で魚を焼いていたとき、船頭が戻ってきた。顔が真っ黒だ。この老人の舟は、このあたりの住民が川向こうの観音堂に参詣に行く時の重要な足になっている。


「あの女が来ておるぞ」


 と、業平は船頭に声をかけた。船頭の妻の縁者という例の中年女のことだ。言われなくても船頭の家の中からは、女と船頭の妻が話す大笑いの声が聞こえてきている。


「中かい?」


「私の顔を見ると、そさくさと中へ入りおった」


「そりゃあ、殿様を見て色気づいたんじゃねえべな、いい年こいて」


 笑いながら船頭も家に入っていったが、業平も苦笑だった。

 まさかと本気にしてはいないが、自分よりはるかに年上の中年田舎女に色気なんか使われたら困ると思っているうちに、魚が焼けた。


 川向こうに夕日が沈もうとしている。富士山は朝と夕刻に、一番はっきりと見える。海の方角以外は地平線の遠くに低い山脈がずっと張り付き、富士はその向こうから頭を出している。さすがにもう、峰に雪はなかった。

 そのほかに、北の方にもぽつんと小さな山が見える。小さく見えるのは遠いからで、そばに寄れば結構高い山であると思われる。地元の人は、あれが筑波山だと教えてくれた。歌枕として有名なその名は都でもよく耳にしていたが、実物を見るのは初めてだ。


 夏も終わろうとしている。しかし、暦の上ではとっくに秋となっていた。だがここでは、暦など全く関係なく、涼しくなったら秋だ。人間の行動を人知で縛る年中行事やしきたりからも、全く自由である。時刻とてない。朝日とともに起き、暗くなると眠る。何しろ灯火を灯す油がない。

 夏は暑かった。それでも都のような蒸し暑さはない。業平も供のものも土人のように真っ黒に焼け、おまけに白粉も塗っていない。眉もひげも伸び放題だ。また、業平の髪もようやく伸びて、草で編んだ紐でくくってもとどりを結った。それでも暑いので烏帽子えぼしなどというものは、とっくに脱ぎ捨てている。それでも誰も咎めはしない。


「殿様よオ!」


 その時船頭に、家の中から呼ばれた。


「何かね」


 業平が船頭の家に入ると、土間のこもの上に座っていた中年女と船頭の妻が、同時に業平を見た。そして何かもじもじしていたが、一斉にひれ伏した。船頭に進められて業平も菰の上に座ったが、どうもいやな予感がした。最初に中年女が口を開いた。


「実は、我が娘のことでごぜえます」


「娘とな?」


「うちの夫はただの農夫でごぜえますが、私はれっきとした豪族の娘で、藤原朝臣のかばねを持っております」


 藤原とはいっても、ピンからキリまである。大織冠鎌足公の子孫であることは変わりないにせよ、太政大臣の家系のように権力の頂点にいるのは直系のみで、もはや大織冠から二世紀以上たっている今は傍系は数限りなくある。その多くが受領階級となっていた。その中でも国司はともかく、介やじょうなどの身分で下ってきたものは任期が切れても都に戻らず、土着の豪族になるものも少なくない。だからこの田舎に藤原姓を名乗るものがいても不思議ではないのだ。


「夫は自分がただびとだから、娘はただびとに嫁がせると言っておりますだ。しかし私は、あてなる血を引く娘はあてなるお方にと思っておりましたところ、殿様が来られて……」


「それなら、国府の役人でもよいではないか。それとて都から来たあてなるもの」


「あのお方たちは、任期が終われば都に戻ってしまいますだ」


「都へ……」


 業平の心は動揺した。心の表面上は、この地に骨を埋めようとも思っている。だが、まだ都を捨てきれていない。都にも二人、妻がいる。今この地でさらに妻をもらったら、この地に骨を埋めるという自分の運命を決定付けてしまうことになる。それには正直、まだ躊躇があった。


「しかし、その貴なる血筋のそなたが何ゆえただ人の妻に……?」


 あまりにも突然の話題なので、業平は途惑ったまま話題を変えた。


「祭りの夜でごぜえました。その祭りには灯火が消され、居合わせた男女が睦びまする。それが縁で、後に略奪されまして」


 何と野蛮なと、業平は顔をしかめた。その風習に顔をしかめるなど、業平の中にまだ都人としての自分を捨てきれずにいる部分があった。

 しかし、自分が都でしたことは、しっかりと棚に上げている。それだけ、あの出来事が彼の中ではすでに風化していたのだ。


「で、娘御は、年は?」


「二十歳を過ぎまして」


「何?」


 それなら、都の姫だととうに売れ残りの部類に入る。


「本人はどう申しておる」


「こちらを」


 女は文を差し出した。開いてみると、吹き出しそうな金釘流の文字で書かれた歌があった。

 

  みよしのの たのもの雁も ひたぶるに

    君が方にぞ 寄ると鳴くなる


 田舎人にしては御吉野みよしのなどという歌枕を使っているが、その後の「たのも」が意味不明だ。「田の面」なのか「頼む」の訛りなのか……。


「御吉野とな」


「はあ、住んでおりますのが、入間のこおり三芳野みよしのでごぜえますから」


 またもや業平は、吹き出しそうになった。歌枕の御吉野ではなく、自分の住む田舎の地名だったのだ。


「で、父親は」


「それは何とでも」


「私に略奪せよとか」


 女は口の周りに薄ら笑いを浮かべると、またもや恐縮してひれ伏した。

 業平は、手を叩いて忠親を呼んだ。その忠親から紙をもらうと、業平はわざと唐様の書跡をまねて返歌を書き付けた。


  我が方に 寄ると鳴くなる 三芳野の

    田面の雁を いつか忘れん


 田の面の雁をいつか忘れるだろうか、いや忘れはしない……いつかは忘れよう――その両方に解せるように、わざと作っておいた。歌全体の意味が分かるかどうか、それを試みたのである。

 そして業平は、本格的な秋になるまでには本当に忘れていた。

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