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紅蓮の館で、愛を編む

作者: ねこラシ

冷たい春の風が、紅蓮の館の織り場を吹き抜ける。

 アイリスは織機の前で手を止め、窓の外に目をやった。石畳の町並みはしっとりと濡れ、赤い瓦屋根に雨の雫がきらきらと弾けている。


 静かな朝だ。けれど、胸の奥はざわついていた。

 理由は明白――今日、この館に“あの人”が来るのだ。


 


「お嬢様、伯爵がお見えです」


 


 館付きの使用人が控えめに声をかける。アイリスは小さく息をのみ、首元を整えた。


 


 応接間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わるのを感じた。

 黒いコートを羽織った青年が、ゆっくりと立ち上がり、丁寧に礼をする。


 


「お会いできて光栄です。紅蓮の織姫、アイリス・リューセル嬢」


 


 レオティス・ファルクル。帝都でも名の知れた若き貴族であり、帝国の新皇帝の即位に伴い、婚礼衣装の製作を取り仕切る立場にあるという。


 


「あなたの織った絹を、都の展覧会で拝見しました。あの光の深さ、手触り、何より、炎のように強く美しい色……どうしても、あなたにお願いしたかった」


 


 あまりにまっすぐな眼差しに、アイリスは返す言葉を見つけられなかった。

 自分の織物が、そんなふうに誰かの心に届いていたなんて。


 


「……精一杯、織らせていただきます。紅蓮の名に恥じぬように」


 


 少しだけ顔を上げた彼女の声に、レオティスはゆっくりと微笑んだ。


 


 それからの日々、アイリスの織り場には、しばしばレオティスの姿があった。

 彼は貴族でありながら、作業の邪魔をしないよう静かに見守る。ときおり小さな相談や言葉を交わしながら、ふたりの距離はゆるやかに近づいていった。


 


「この糸……少し重く感じます」


 


「気づかれましたか。金糸と紅絹の混紡です。あたたかさを残しつつ、光を反射するようにしています」


 


「なるほど。まるで、夜明けのようだ」


 


 そのたびに、アイリスの胸の奥に、ぽつりと光が灯るのだった。


 


 ある日、宮廷からの使者が訪れた。

 衣装の意匠に細かな変更を求める書状を手にし、高圧的な態度で言い放つ。


 


「この“揺らぎ模様”は、派手すぎるとのご指摘です。もっと、格式に沿った模様に」


 


「……これは、皇帝陛下と妃殿下の“炎と風”の組紐をイメージしたものです」


 


「それでも、慣習には従っていただきたい」


 


 使者が去ったあと、アイリスは織機の前で手を握りしめていた。

 織物にこめた思いを否定されたようで、悔しくてたまらなかった。


 


「あなたの想いは、俺に届いています」


 


 いつのまにか傍らに立っていたレオティスが、静かにそう言った。


 


「ですが、私の気持ちだけでは、婚礼衣装にならないのです。私の織物が、誰かの心を動かせなければ――」


 


「動いているさ。俺の心は、とっくにあなたに織られている」


 


 その言葉に、アイリスの指先が震えた。

 彼の瞳は真剣だった。軽い慰めではない。芯からの本心がこもっていた。


 


「……あなたは、どうしてそこまでしてくれるのですか?」


 


「紅蓮の絹には、かつて命を救われたことがあります。あれは、あなたの祖母が織ったものでした。

 あのときの温もりを、今も忘れたことはない。だから今度は、俺があなたを支えたい」


 


 静かに告げられたその想いに、アイリスは言葉を失った。

 織物のように、ゆっくりと、けれど確かに――彼の想いが、自分の中に染み込んでいく。


 


 そして即位式の夜。

 婚礼衣装は完成した。紅と金の糸が、夜空に浮かぶ炎のように輝いていた。


 


 その仕上がりを見たレオティスが、そっと彼女の傍に立つ。


 


「これは、帝国の宝になります。……そして、あなたは、俺にとっての宝だ」


 


 その一言に、アイリスの胸がいっぱいになった。

 長い時間をかけて編まれてきた、ひとつの絆が、いま確かに完成したのだ。


 


「……ありがとうございます。私も、あなたとなら……織っていけると思います」


 


 ふたりはそっと視線を交わし、静かな笑みを分かち合った。


 


 紅蓮の館には、今日も絹を織る音が響いている。

 その音にまぎれて、心と心が結ばれる音も、確かに混ざっていた。


 


 ──これは、一枚の布が紡いだ、静かな恋の物語。


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