08:遠い現実
お昼休みの時間に差し掛かった時、役場の扉が勢いよく開いた。
「パンの訪問販売でーす! 皆さんいかがですかー」
元気の良い声と共に、背の低いそばかす顔の少年が姿を見せた。いくつかの包みが入った籠を抱えている。
「お、ノエル。良いところに、ちょうど腹が減ってたんだ」
アルマが机から顔を上げると、ノエルと呼ばれた少年は満面の笑みで紙袋を差し出した。銅貨と引き換えにそれを受け取ろうとしたアルマが、一瞬警戒した表情になる。
「これ、誰が焼いた?」
「僕! 今日のは、多分うまく焼けたと思う!」
「多分って……おい」
「あれ? その人、誰?」
シルヴィアの姿に気づいたノエルが、首をかしげる。
「シルヴィアさんよ。新しく役場に入った――」
ミレーネが説明するより早く、ノエルは歩み寄ってきた。
「へえ、昔って感じの名前だね…おばあちゃんみたい」
「お、おばあ、ちゃん…?」
思いもよらぬ感想に、シルヴィアは絶句する。
肉体も自認も18歳だが、生まれた年から単純な計算をすれば、今年で68歳。
――いやまあ、確かに。
それはおばあちゃんと呼ばれる年齢なのかもしれないが。
「うん。その名前は王国時代――」
鈍い音が聞こえて、思わずシルヴィアは目を瞑った。
ミレーネがノエルの頭に拳骨を落としていた。
「こら! なんてこと言うのよ!」
「いってぇ! 別に、古風で綺麗な名前だなって思って…王族時代の貴族とかによくあった名前なんだ」
「へえ、そうなんだ、ってじゃあ最初からそう言いなさい!」
二度目の拳骨。シルヴィアが止める間も無かった。
「ごめんなさい、この子、ちょっと変わってて…こういう失礼なことをよく言うんです。歴史好きで、その知識だけは凄いんですけど…」
「いえ、あの、私は気にしていませんから」
“おばあちゃん”呼ばわりされた衝撃は、ミレーネの鉄拳制裁のインパクトで上書きされていた。ミレーネをなだめるように手を横に振りながら、シルヴィアは改めてノエルを見る。
歳はシルヴィアより――シルヴィアの肉体年齢よりも、いくつか下だろうか。その年齢で王国時代の貴族の命名事情を知っているあたり、ミレーネの言う通り歴史には詳しいようだ。
「ほら、自己紹介」
頭をさすっているノエルが、ミレーネに促されてシルヴィアにぺこりと頭を下げた。
「僕、ノエル・ベッケル。パン屋見習いってところかな。たまに役場の仕事も手伝ってるよ。よろしくね、シルヴィアお姉さん!」
“おばあちゃん”呼びの罪悪感からか、ミレーネの鉄拳が効いたのか。若干、取ってつけたような“お姉さん”だった。
事実は事実なので、シルヴィアも気にせずにノエルに向き直る。
「よろしくお願いいたします、ノエル――」
「様、は無しですよ」
思わずまた出そうになった敬称を、ミレーネが遮る。
たった半日の付き合いなのに、行動が見透かされたような気がして心臓が微かに跳ねた。
「っ……ノエル、さん」
「よろしくね! これ、お姉さんもどう?」
「ええ、是非いただきます」
そう応じたシルヴィアの声は、柔らかく、無意識に微笑みさえ浮かんでいた。
「そういえばお前、金持ってるのか?」
細長いパンを行儀悪く齧っていたアルマが、ふと思い出したように言う。言われてみれば、シルヴィアは1枚の金銭も所持していなかった。
「…」
少しだけ、気まずい沈黙が流れる。ミレーネはどうフォローしたら良いのか分からない様子だが、チラッと彼女の鞄――その中に入っているだろう財布に目が行っていた。
流石に自分で買うと言い出しておいてミレーネに買わせるわけには、とノエルにどう撤回と謝罪をしようかと悩んでいると、溜め息交じりにアルマが言った。
「今日はおごりだ。ミレーネもな。ノエル、まとめて買うから少しまけてくれ」
「…お気遣い、感謝いたします」
「アルマさん、ご馳走様です!」
――その日昼食に食べたパンは、少し焦げていた。
◇◆◇
役場での初日を無事に終えたシルヴィアは、アルマに連れられて村の外れへと足を運んだ。役場がある村の中央から遠ざかるにつれて、人の気配もまばらになっていく。
「この辺りは空き家が多くてな。まあ、過疎が進んでる証拠だ」
アルマの語り口には、微かな寂寥が滲んでいた。
たどり着いたのは、小さな一軒家だった。壁には蔦が這い、屋根瓦はところどころ歪んでいる。だが、玄関扉は新しい錠前で補強されており、管理の手が入っていることが分かった。
「今役場で管理している物件の中では一番マシな状態だ。最低限の補修はしているから、安心してくれ」
アルマが扉を開けて中へ入り、シルヴィアも後に続く。
玄関に踏み込むと、やや古びた木の床が軽く軋んだ。部屋は二間続きの構造で、手前が居間、奥が寝室と思しき空間になっている。簡素な机と椅子、古い本棚、釜土に小さな暖炉と薪、そして壁際には水瓶が備えられていた。
「使い方は……まあ、なんとなく見れば分かると思うが」
「ええ、大丈夫です」
そう答えたものの、シルヴィアの心は不安に包まれていた。
ここにあるものは、どれも“見たことは”ある。王宮にも、似たような設備があった。だが、それはあくまで使用人が扱うものだった。
自分の手で火を起こしたことも、湯を沸かしたこともない。ましてや、薪の組み方すら知らないのだ。
もっとも、魔術さえ使えばどうにでもなるが――
(今の私は、魔導士では無い)
ただの、村人として生きてみようと思ったのだ。その生活に魔術を用いることはあり得ない。魔術を使うということは、即ち過去の自分を認める行為だ。
それに、万が一魔術の使用が露見すればただでは済まないだろう。魔力を有しているというだけで、国の管理下におかれるのがヴェールディアという国だ。通報されでもしたら、すぐさま自分の素性など明らかになってしまうに違いない。ここでの暮らしを送るためには、魔術は封印しなければならない。
「当座の生活費は、初回の給金から多少引いて先払いにしておく。もし足りないようなら相談してくれ。他にも、何か困ったことがあれば、遠慮なく言え」
何かの欲求が強かったり、こだわりがあったりする訳でもない性質だ。与えられた環境に適応し、その範囲内で生活することは苦ではない。
食うに困らず、雨風が凌げて眠れる場所があるというのであれば、当分は生きていけるだろう。
「ありがとうございます」
頭を下げたシルヴィアに、アルマは何かを言おうと迷う素振りを見せたが、結局はそれを飲み込んだようだった。
「……初日、ご苦労だったな。ゆっくり休め」
アルマはそれだけ言い残して、静かに去っていった。扉が閉まる音が、やけに遠く聞こえる。
一人残されたシルヴィアは、奥の寝室へ向かう。簡素なベッドに文机、化粧台とクローゼットが並んでいた。
シルヴィアは化粧台の前に立ち、鏡に映った自分を見る。
(……ミレーネさんに、結んでもらった)
思い出すと、自然と微笑が漏れた。だがその笑みはすぐに霧散し、現実の重みがのしかかってくる。
(ここで私は、生きていく――)
瞳を閉じれば、今日の出来事が思い浮かぶ。
――ささやかながらも初めての仕事をこなしたこと。
ミレーネが笑ってくれたこと。アルマが不器用に気遣ってくれたこと。ノエルが焼いたパンを食べたこと。
それらは確かに、ここにいた自分の時間だったはずだ。それでもどこか、未だ現実には遠いような錯覚を覚える。
あまりにもかつての生活とはかけ離れていて。
未だに生を受け入れられない自分もいて。
それでも、この村で生きてみたいと思ったのは事実だった。
「……私は、今日を“生きた”のだろうか」
誰にともなく呟いたその声は、静かに溶けていった。