07:初勤務
役場の中は、先日見た時と変わらない風景だった。ただ違うのは、壁際のランタンに灯りが灯り、中で忙しなく動いている人間がいる点だろう。
ゆうに10人は並べそうなカウンター――今は端の1箇所にのみ受付の立札が置いてあるその横の通路から、シルヴィアはアルマの後に付いて事務所に入った。
「おはよう」
「おはようございまーす! アルマさん、ちょっと遅刻ですよ! 朝礼なんてとっくに終わって皆外に出ちゃいました…って、あれ?」
事務机のひとつに座っていた少女が、こちらを見て目を瞬かせる。
栗色の髪を肩まで下ろした、愛らしいたれ目が印象的な少女だった。シルヴィアとそう歳は違わないだろう。彼女の声と表情には、自然と場を和ませるような陽気さがあった。
「あ、もしかして、この子が?」
「ああ、新人のシルヴィアだ」
アルマが説明すると、少女は椅子から立ち上がり、勢いよく歩み寄ってきた。
「初めまして! 私、ミレーネ・アミクス。よろしくです!」
右手で敬礼するようなポーズで自己紹介をされ、シルヴィアは一瞬、どう応じるべきか迷った。
魔導士としてならば敬礼。
王女としてならばカーテシー。
それがシルヴィアにとっての、初対面の挨拶だった。
少し悩んだ末に、身体の前に手を重ね、侍女風のお辞儀をする。
「シルヴィア・ソムニスと申します。何卒よろしくお願い申し上げます、ミレーネ様」
「様っ!?」
ミレーネは目を丸くし、両手を目の前でぶんぶんと振る。
「いやいや、私そんなに偉くないですから、むしろこの村の役場じゃ私がいちばん新米ですから! あ、でもシルヴィアさんが来たから私は先輩ですね、先輩!」
「え、ええ…と…」
次々と放たれる言葉に戸惑うシルヴィアの手を、ミレーネが握る。
勢いのままかと思いきや、思いのほか優しい力だった。少しでも引けば簡単に引き抜ける。距離感をこちらの好きに調整できるようにという、彼女なりの気遣いなのだろう。
「“さん”、で良いですよ。そっちのほうが断然しっくりくるので。あ、“ちゃん”でもウェルカムですよー」
その調子の良さに、思わず肩の力が抜ける。
かつての王宮では決して交わされなかった、くだけたやり取り。
しかし、不快ではなかった。
「では……ミレーネさん、改めてよろしくお願いいたします」
「うん、よろしい!…でも、まだちょっとお堅いですね」
ミレーネが弾けるように笑うと、そのままシルヴィアの手を引いて、奥の机へと案内した。
「ここがシルヴィアさんの席です。紙とペン、それに書式の見本とか資料の写しとかは一通り揃えてあります。分からないことがあったら、何でも聞いてくださいね!」
整然と並べられた机の上に、筆記具と羊皮紙、木製の印章が置かれている。質の違いはあれども、それらはどれも、昔の王宮で見たものと大差なかった。
シルヴィアは年季の入った机の表面をそっと撫でながら、心の中でひとつ、問いを浮かべた。
(私は、ここで……何を“築いて”いけるのだろう)
誰でもない少女としての仮初めの名で、こうして机に向かっている。
――あの夜。
すべてを壊し、自らの命さえ手放したつもりだったのに。
なのに、今、ここに在る。
「じゃあ、記念すべき初仕事だな」
書類の束が、机の上に置かれた音で、シルヴィアは我に返る。
アルマが無造作に積み上げたそれは、予想よりも分厚く、そして年代もまちまちだった。用紙の色も端の擦り切れ具合も異なり、いかにも“積もり積もった残務”といった様相を呈していた。
「内容は雑多だ。備品の管理記録、畑の使用許可、助成金の申請、後は、色々混ざっている……と思う。取り敢えず、良い感じに整えて欲しい。量も多いから、今日中でなくても良い――というか無理だな。まあ、ゆっくりやってくれ」
あまり頼りにならない指示をシルヴィアに出したアルマは、自分の机へ戻っていった。
そちらにも山のように書類が積まれている。その一角をミレーネが切り崩していた。
「ちょっと! なんで去年の書類がこんなところにあるんですか!」
「さ、さあ? 俺は知らんぞ」
「ここはアルマさんの席でしょう!」
「ふふっ…」
(――私は今、笑った?)
自分の口角を指で撫でる。自然に笑みがこぼれるなど、いつぶりの話だろうか。
(…いけない、気を引き締めないと)
シルヴィアはその書類の束に目を通し始める。
王国時代と書式の基本構造は大きく変わっていない。文面の調子や表現に時代の変化はあれど、根底のルールは同じだった。
(“整える”、つまりは――項目別の分類、目録作成、不備・落丁の確認と修正、未処理の書類は遡及処理。昨日までに地方行政に必要な共和国法は粗方頭に入れた。この量なら……午前中には終わる)
「……大丈夫そう?」
頭の中で仕事の筋道を立てていると、ミレーネが心配そうに覗き込んできた。
「ええ、おおよそ把握しました」
ペンを持つシルヴィアの手は、迷いなく進んだ。
かつては国政の一部を担っていた王女であり、王国魔術師団を統括していた身だ。書類仕事は、得意な部類に入る。リズムを掴めば、あとは身体が勝手に動いていた。
山と積まれた書類は、みるみるうちに無くなっていった。
「マジか…」
書類の山の遠くでアルマがそう呟く声が聞こる。
――お昼の前には、書類の山は片付いていた。ミレーネが確認のためにと、シルヴィアが処理した書類を両手に持って目を回している。
「うっそぉ……完璧なんですけど…完璧すぎて怖いです…」
「お役に立てたでしょうか?」
「いや、それはもうバッチリで、す…?」
ミレーネはどこか腑に落ちない表情で、もう一度その書類を眺めた。
「文章がちょっと古めかしいような。うーん、別に間違いって訳じゃないんですけど、気になるっていうか……“当該物資の使用を此に許可するものと致した次第”…? 普通に、『備品の使用を認めた』で良いんじゃないですか?」
「簡易な表現にしたつもりだったのですが…」
「全然難解でお堅いです!……これ、天然でやってるんですか…」
シルヴィアが首を傾げると、ミレーネが苦笑している。
――この頃には、すっかりタイの存在を忘れていた。
「…あれ。そういえばタイ、して無いですね。もしかして、付け方分からなかったです?」
ミレーネからの指摘で、シルヴィアはようやく思い出す。少しだけばつが悪くて、小さな沈黙ののち、そっと目を伏せて頷いた。
ポケットから丸まったタイを取り出して、目の前で広げる。
「はい……どう結べば良いのか分からなくて」
「それならそうと早く言ってくれれば良いのに!」
ミレーネはどこか嬉しそうに言って、シルヴィアの正面に回り込む。
「ちょっと失礼しますよ」
ミレーネはシルヴィアが渡したタイの両端を丁寧に整える。シルヴィアは結び方を覚えようと、ミレーネの手の動きを真剣に見つめた。
細い指が襟元に触れ、柔らかく布を折り込んでいく。
「こうやってね、輪っかを作って、片方を通して……はい、できた」
ミレーネは最後に軽く形を整えると、一歩下がって親指を立てた。
「うん、似合ってますよ」
「……ありがとうございます」
侍女に服を着つけてもらうのとは違う雰囲気で、少し気恥ずかしさを感じるも、どこか嬉しさもあった。
シルヴィアは無意識に結んで貰ったタイをそっと撫でた。