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7/22

06:始まりの朝

 窓から差し込む朝の光が寝台を優しく照らしていた。

 シルヴィアは静かに身を起こす。この村に来て――正確には封印から目覚めてから、早いもので1週間ほどが経っていた。


(朝……)


 深く息を吸い込む。澄んだ空気が肺を満たし、乾いた喉に微かな冷たさを運んだ。

 これが、日常の朝というものなのだろうか。かつて王城で迎えた朝とは、まるで異なる静けさに満ちていた。


(私は――まだ、生きている)


 そう思うたびに、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 目覚めてから幾日。過去に戻ることも、すべてを忘れることもできない。それでも、ここに在るという事実は変わらない。


 それなら。

 この村の風景の一部として、少しだけ生きてみよう――


 その最初の一歩として、今日から、フォンテス村の役場で働くことにした。

 寝台から身体を起こすと、部屋の片隅に置かれた包みが目に入った。昨日、アルマが「支給品だ」と言って渡してくれたものだ。中身は事務員の制服らしい。

 丁寧に包まれた布を開くと、濃紺の上着と、同色のスカート、そして白いシャツと細身のタイが姿を現した。


(これは……)


 思わず、手に取ったスカートの生地を撫でる。王国時代には見かけなかった意匠だった。機能性を重視した、どこか近代的な雰囲気が漂っている。刺繍や装飾の一切を廃した簡素さが、どこか新鮮だった。

 スカートの丈やシャツの襟元の形も、自分の記憶にあるものとは微妙に違っていた。

 時代は変わった。

 自分が眠っていた50年という歳月は、確かにこの国の文化や常識を変えていた。


(50年。あっという間のようで、思ったよりも長かったのかもしれない)


 着替えを始めると、すぐに困難に直面した。

 シャツのボタンを掛けるのにも手間取る。元から不慣れだというのに、昔の服とは勝手がまるで違っていた。どうにかこうにかシャツを着て、ようやく上着を羽織るが、最後の難関に直面する。

 タイの結び方が分からないのだ。

 結び方を考えながら、何度か試してみたものの、形は歪み、きつくなりすぎたり、ゆるみすぎたりして、どうにもならない。

 試行の回数が両の手では数え切れなくなった頃。扉の外から控えめな声が聞こえた。


「……支度、済んだか?」


 アルマの声だ。

 咄嗟にシルヴィアはタイを丸め、上着のポケットへと押し込んだ。


「はい。ただ今、参ります」


 慌ただしくも、シルヴィアは最後にもう一度身なりを確認して、部屋を後にする。

 

 ――“王女”としてではなく、“終焉の詠い手”としてでもなく。

 “シルヴィア・ソムニス”として始まる、新しい朝だった。






◇◆◇


「まあ、今日は初日だ。あまり気負うことはない」


 少しだけ前を歩くアルマが、シルヴィアの方を振り向きながら言う。

 その足運びに、シルヴィアの目が行く。巧妙に隠してはいるが、微かに右足を引きずるような歩き方だった。以前までは気が付かなかったが、恐らくは大きな怪我の後遺症だ。


 ――過去に何かを抱えているのは自分だけではない。


 それでもアルマは、不器用な親切心を持って接してくれる。シルヴィアはそれに、心から感謝していた。


「はい。ありがとうございます、アルマ様」

「だから、“様”は止してくれって…むず痒い」


 本気でそう言っている様子のアルマを見て、シルヴィアは思案する。

 かつてのシルヴィアは、意図的に口調を使い分けていた。

 魔導士として戦場に立つときは厳格に。

 王女として王宮にいるときは丁寧に。

 その場その場に合わせて役割を演じる必要があったシルヴィアにとっては、当たり前にこなしていたことだった。だが、そのどちらの役割も無くなった今、どのような話し方をすれば良いのか分からなくなっていた。

 取り敢えずは役場の事務員ということで、王宮の事務官を模した口調にしている。王女のものとあまり大差はないため、シルヴィアとしてはやり易い。

 しかし、どうも最適解では無いようだ。


「では、アルマ“殿”…?」

「いやいや、いつの時代だ」

「スぺクス卿では些か――」


 何気なく発した一言。

 ――ふと、頭の中で何かが繋がった感覚があった。


(近衛師団長、スぺクス伯爵……!)


 軍議で度々顔を合わせていた男を思い出す。王族への忠誠心が強く、常に周囲に手本を示しているような騎士だった。

 アルマ自身の立ち振る舞いも、騎士を彷彿とさせることが度々あった。身体の動かし方も、剣術に長けていることが伺える。こんな長閑な村で粗末な剣を一本腰に佩いているのも、それが無いと落ち着かないからなのだろう。元貴族、それも騎士の家系の出身ということなら、それも頷ける。


「シルヴィア? どうした?」

「――いえ」

 

 あのクーデターの日に、伯爵がどうなったのかは知らない。近衛師団は、危篤の国王に代わって指揮権を持っていた第一王女――ルシラ・イナ・ヴェルダナの命により、王都防衛に回されていた。


(貴方の子孫は、逆賊の王女を助けた――だなんて言ったら、伯爵は驚くだろうか)

 

 そんな想像に、僅かに笑みをこぼす。


「何でもありません、アルマ様」

「だからな…」


 そんなやり取りをしている内に、先日訪れた役場の前に来た。

 辺鄙な村には不釣り合いなほど立派な、石造りの建物。王国様式のエントランスに、2人の靴の音がコツコツと響き渡る。

 シルヴィアは緊張から、一つ息を吐いた。


(――緊張?)


 初めての舞踏会でも、初陣の時でも、緊張とは無縁だった自分がそんな感情を抱いていることに、少しばかり驚いた。


「じゃ、行くぞ」


 そっとシルヴィアの肩に手を置いたアルマは、そのまま扉を開ける。石造りの建物の中へと差し込む朝の光が、二人の影を長く引いた。


(ここで、私は――)


 深呼吸するように大きく息を吸って、シルヴィアは一歩、役場の中へと足を踏み入れた。

 それは、かつての自分には決して存在しなかった、名もなき日々への扉。

 シルヴィアは、この村での小さな一歩を踏み出した。

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