05:誘い
アルマに連れられて、シルヴィアは村を巡っていた。
彼の歩みはゆっくりとしていて、病み上がりのシルヴィアを気遣うものだ。まだ体力の回復していないシルヴィアでも、体力的にはまだ余裕が残っていた。
村の中心に差しかかったところで、アルマがふと足を止めた。釣られてシルヴィアも立ち止まる。
「――ここが、村役場だ」
目を向けた先には、他の家屋とは一線を画す建物が佇んでいた。
石造りの外壁は風雨にさらされ、ところどころ苔が生えている。だが、威圧感を帯びた構えは失われておらず、屋根の赤茶の瓦が整然と並び、正面の木製扉には、かすかに紋章のような意匠が残っていた。
「ガワは立派だが、これは昔の名残だ。王国時代はこの村もそれなりに栄えていたらしい……今じゃ、こんなんだけどな。中も見ていくか?」
断る理由も無い、とシルヴィアは頷く。
扉をくぐれば、そこには質素ながら整えられた空間が広がっていた。無骨な石床の上には薄い絨毯が敷かれ、壁際には木製の書棚と古びた帳簿の山。奥にはいくつかの机と椅子が並び、窓から差し込む淡い陽光が静かに降り注いでいる。
(……王宮の執務室とは、まるで違う)
だが、どこか懐かしさを覚えた。
書類仕事は好きだった。誰の命を奪うこともなく、何かを破壊することもない。剣の代わりにペンを、血の匂いの代わりにインクの匂いに包まれる瞬間は、心の安らぐひと時ですらあった。
「ここで俺と、あと数人が仕事をしている。事務員が1人、技術員が3人いる」
アルマは肩をすくめて、苦笑まじりに続けた。
「ほとんど何でも屋みたいなもんだ。書類の整理から畑の手伝い、祭りの段取りまで。村で誰かが困っていれば、まず役場に声がかかる。仕事に際限はないが、人手には限りがある。まったく頭の痛い話だよ。正直、ギリギリで回ってるような状態だ」
シルヴィアは、ふと自分の指先に視線を落とす。
この手は、何かを築いてこなかった。自分はただ壊すことしかできなかった。それに比べて、彼らは村人たちの暮らしを、確かに作り上げている。
王女であった自分よりも、魔導士であった自分よりも。
彼らのほうが、ずっと立派で、価値のある仕事をしていると思えた。
「……良い場所ですね」
ぽつりとこぼれたその声に、アルマが少し意外そうな顔を向けたが、何も言わなかった。
「もう少し、見て回っても良いですか?」
「ああ、好きにして構わない。大したものはないがね」
シルヴィアは小さく頭を下げ、建物の奥へと歩を進める。
内部は、外から見た印象よりもずっと広く感じられた。天井は思いのほか高く、壁には古い掲示物や手書きの案内図が貼られている。
書棚の一角に目をやれば、劣化した布張りの帳簿や、簡素な紐で綴じられた報告書が整然と並べられている。
(これは……村の記録簿?)
シルヴィアは思わず手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。
もうこの身は王女ではない。役職もなく、何の権限も持たない、ただの“通りすがりの娘”にすぎない。これを閲覧する権利は今の自分には無いだろう。
壁際には、年季の入った木製の椅子が並んでいた。窓際には、一輪挿しに飾られた野の花。色は褪せかけていたが、その心遣いが、この場所にささやかな温もりを添えていた。
歩を進めると、奥の棚に破れかけた地図や、誰かが補筆した手描きの地形図が無造作に立てかけられているのが目に入った。中には、王国時代のものも混じっているかもしれない。
視線を走らせていたシルヴィアは、不意に一枚の紙に目を留めた。丁寧な文字で、こう記されている。
『村人の皆様へ――何か困ったことがあれば、いつでも役場へどうぞ』
たったそれだけの一文だった。
しかしそこには、かつての王族や貴族が掲げていた“民を守る”という一方的な理想ではなく、ただ“共に生きる”という意志があった。
「……優しい場所ですね、ここは」
誰にともなく、シルヴィアは静かに呟いた。
「――なあ、シルヴィア」
名前を呼ばれて、シルヴィアは我に返る。声の方を振り向くと、アルマは何かを決意したような表情だった。
「文字の読み書きはできるか?」
「ええ」
「算術は得意か?」
「まあ、それなりには」
「人の話を聞くのは好きか?」
「好きかと言われると……苦手ではありませんが」
アルマは小さく頷き、真っ直ぐな視線でシルヴィアを見る。
「文が読めて、計算ができて、人の話を聞くのが苦じゃあない。それだけでも、ここでは立派な戦力になる」
シルヴィアは一瞬、息を呑んだ。
それは、重くも優しい言葉だった。
アルマは照れ隠しのように髪をかき上げると、続けた。
「……うちで、働かないか?」
それは提案という形をとった、さりげない問いかけだった。
そこには、人手不足を埋めたいというだけでなく、自分に“居場所”を与えたいという思いが、確かにあった。
シルヴィアは、視線を落とす。
王女として命じるのでもなく、魔導士として命を奪うのでもなく。
ただ、誰かのために、何かをする。
(それは、贖罪だろうか。それとも――願いだろうか)
短い沈黙のあと、シルヴィアはゆっくりと顔を上げた。
「……書類仕事くらいしか、お役に立てそうなことはございません」
自嘲気味に口にした言葉に、アルマはすぐ返した。
「できることから始めればいいさ。役に立ちたいって気持ちがあるなら、それだけで充分だ」
その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。
自分は本当に、誰かの役に立てるのだろうか――それは、まだ分からない。しかし少なくとも、“役に立ちたい”という思いだけは、確かにあった。
「……私にできることがあれば、お手伝いさせてください」
かつての王女が発するには、あまりにもささやかな言葉だったが、今のシルヴィアにとって、それ以上の誓いはなかった。
役場を出ると、太陽はすでに西へ傾き始めていた。村の空は、どこまでも広く、どこまでも穏やかだった。ゆるやかな起伏の先に見える森の稜線は茜色に染まり、風が木々の葉を揺らしている。
シルヴィアは、歩みをゆっくりと進めていた。アルマが案内してくれた、小高い丘の上――教会の裏手とは反対側に位置する、村を一望できる場所だった。
「疲れていないか?」
「ええ、大丈夫です」
そう返したものの、実際には足に少し疲労がたまっていた。それでも、ここに来たいと思ったのは自分だった。
丘の上から見える村の風景は、まるで箱庭のようだった。赤茶けた瓦屋根、立ち並ぶ木造家屋。白く細い煙が空に昇り、通りを行き交う人影は夕陽に長く伸びていた。
その光景を見つめながら、アルマがふと思い出したように口を開く。
「そういえば……君の苗字をまだ聞いてなかったな」
不意の問いだった。
シルヴィアは反射的に表情を止めた。
「……苗字、ですか」
「ああ。書類に記載が必要でね。確か、まだ聞いていなかったと思ったのだが……いや、俺が忘れてるだけかもしれん。最近、歳を感じることが多くてね」
冗談めいた口調。しかし、その目は真剣だった。
アルマが冗談を言う時は、決して軽く扱っているわけではない。そのくらい、短い付き合いの中でも分かってきた。
苗字――姓を名乗るということは、すなわち身元を明かすということ。
(私は……誰として、生きるのか)
シルヴィア・ヴィア・ヴェルダナ。
ヴェールディア王国第二王女。
魔導士、“終焉の詠い手”。
戦争の英雄。クーデターの首謀者――
その名を告げれば、過去のすべてを差し出すことになる。
かつての功績、背負った罪、そして“死んだはずの存在”としての矛盾。それを晒すことは出来ない。
目を閉じ、深く息を吸い込む。夕暮れの風が、銀の髪をやさしく撫でていった。
(ならば、今の私は――どこかの誰かが見ている、夢の名残)
ふと、魔術書に書かれていた古代の言葉が、頭に思い浮かんだ。
そう、確かあれは夢を意味する言葉――
「……“ソムニス”、と申します」
そう、告げた。
「ソムニス、か……あまり聞かない名だな。てっきりこの国の出身かと思っていたが」
「遠く――どこかも思い出せないほど、遠いところから来たのです」
言葉を選ぶように、静かに答える。
それ以上は語らない。それでも、アルマはそれ以上を問いはしなかった。彼のそうした距離の取り方に、シルヴィアは密かに感謝する。
胸の奥には、まだ名前のない感情が渦を巻いていた。
――あの日、すべてを終わらせるはずだった。
王族として、魔導士として、未来の礎となるはずだった。
しかし、目を覚ました自分は、まるで知らない世界に立っていた。
知らない時代、知らない場所、知らない人々。
それでも、自分を拒絶することなく、ただ“ここに居てもいい”と受け入れてくれるようで。
その優しさは、剣よりも鋭く、盾よりも重たかった。
(私は――本当に、生きていても、良いのだろうか)
この問いは、いくら繰り返しても答えが出ない。それでも今は、胸の内に小さな光が灯っている。
アルマの言葉も、村の風景も。
どこまでも穏やかで、優しくて。
返ってそれが、自分の背負った罪を際立たせる。
――それでも。
ほんの少しだけ。
このまま、背負った過去と共に歩める道があるのなら。そんな願いが、静かに生まれていた。
「“シルヴィア・ソムニス”……ええ、それが、私の名です」
過去の栄光も、罪も、そのすべてを抱えたまま――それでもなお、この村の風景の一部として、生きてみるために。
「……少しだけ、前を向いてみよう」
空を見上げながら、シルヴィアは小さく呟いた。