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04:フォンテス村

 朝の空気は、肌を刺すように冷たかった。

 けれど、それは不思議と心地よい冷たさだった。

 シルヴィアは、ゆっくりと瞼を開けた。窓の外では、小鳥たちが遠慮がちにさえずっている。

 身体は昨日よりも幾分か軽い。まだ気だるさも残り、頭の奥に鈍い痛みもあったが、それでも確かに、回復の兆しがあった。


(……生きている)


 そんな当たり前のことを、思わず考えてしまう。あまりにも明白な事実なのに、どこか現実味がなかった。

 布団を少しずらし、慎重に身体を起こす。足をベッドの外に投げ出すと、冷たい床の感触が足裏に広がり、思わず息を呑んだ。それでも、指先に力が入ることに気づくと、不思議と安堵が込み上げてきた。

 ふと視線を落とすと、自身の服装が目に入る。

 あの夜に戦場に赴いたときの、略式の礼装だ。胸元に広がる黒い染みは、まさにあの夜の出来事をそのまま留めている。


(……流石に、これは)


 あの男――アルマは、よくまあ、こんな異様な格好をした自分に何も言わずに寝床を与え、介抱してくれたものだ。そのお人好しさに関心してしまう。

 視線を脇机へ移すと、そこには簡素なローブが置かれていた。アルマが用意してくれたのだろう。上から羽織って帯を締めるだけの簡単なものだった。


(……これなら、何とか)


 かつては、衣服の着脱は侍女の仕事であった。自らの手で服を着た経験は数えるほどしかない。シルヴィアは手間取りながらも何とか礼装を脱いでローブに着替えた。

 ようやく着替えが終わり一息ついていると、扉の向こうから控えめなノック音が響いた。


「入ってもいいか?」


 聞き覚えのある、低く無愛想な声。けれど、その響きには不思議な安心感があった。


「はい、どうぞ」


 扉が軋むような音を立てて、ゆっくりと開く。


「起きていたか」


 立っていたのは、アルマ・スペクス。昨日、自分を助けてくれた男だ。


「簡単なものだが、朝食を用意した。まだ身体がしんどいようなら、運んでくるが……どうする?」

「いえ、もう歩けますので」

「そうか。じゃあ、こっちに来てくれ」

「ありがとうございます」


 シルヴィアは軽く頭を下げ、慎重に立ち上がった。足元はまだおぼつかないが、壁に手を添えずとも歩ける程度には回復していた。服の裾をそっと整えながら、アルマの後に続いて歩を進める。


 通された居間は、質素でこじんまりとしていた。隅の棚には読みかけの本と、手製と思しき木彫りの置物が置いてある。

 食卓の上には、湯気を立てるスープとパンが二人分。

 飾り気はない。だが、彼なりの精一杯の手間と心が込められているのが伝わってくる。


「生憎と男所帯でね。適当なものしかないが、まあ食わんよりはマシだろ」


 アルマはそう言いながら椅子に座り、彼の向かいにあるもう片方の椅子を手で示す。


「ありがとうございます」


 シルヴィアは静かに腰を下ろした。

 勧められるまま、一匙、スープを口に運ぶ。

 塩気は控えめで、素材の味がじんわりと広がった。根菜の甘みと、豆のほくほくとした食感が、空腹だった身体に染み渡っていく。


「どうだ、口に合うか?」

「……はい。とても、優しい味です」


 思わず声が柔らかくなる。

 王宮で供されていた豪勢な料理とはまるで違う。だが、この素朴な食事の中には、確かに生活の温もりがあった。


「なら、良かった」


 ナイフが見当たらず、彼を真似てパンを手で千切ってみた。一口には少し小さい欠片を口に運びながら、シルヴィアはふと思う。


(これが……普通の生活というものなのだろうか)


 そのとき、不意に胸の奥に、ひとつの思いが芽生えた。


(……外の景色を、見てみたい)


 今の世界を、この目で見てみたいと思った。


「ごちそうさまでした」


 食後、身体の奥に残っていた重さが少しずつ和らいでいくのを感じながら、シルヴィアは静かに息を吐いた。


「……少し、村を歩いてみようかと思いまして。よろしいでしょうか?」


 問いかけた声は、自分でも驚くほど遠慮がちだった。

 アルマは腕を組み、しばらく思案するように目を細めた。


「良いんじゃないか。軽く歩くくらいなら、寧ろ身体に良いだろうしな」

「ありがとうございます」

「そうだ、良い機会だから、村を案内しよう」


 気負う様子もなく、当たり前のように続けたアルマに、シルヴィアはすぐに首を振った。


「いえ、お付き合いいただくわけには……」


 会ったばかりの自分に、これ以上手間をかけさせるわけにはいかない。倒れたところを助けてもらっただけでも、充分すぎる恩だ。

 そう思って遠慮の言葉を返すと、アルマは肩をすくめた。


「気にするな。これも、役場の人間としての仕事のうちだよ」


 その言葉に、シルヴィアの胸の内がじんわりと温かくなる。

 押しつけがましくもなく、過剰に親切ぶるでもなく。自然に、ただ当たり前のように自分を受け入れてくれる。

 そんな距離感が、心地良かった。


「……お手数、おかけいたします」

「ほら、行くぞ」


 アルマが軽く顎で外を示す。シルヴィアもまた、少し遅れて椅子から立ち上がった。


 扉の外へ出ると、日差しはやわらかく、朝露の残る風が頬を撫でる。空はどこまでも澄み渡り、遠くの山並みが青くぼやけていた。

 鳥のさえずり、木々のざわめき、人の声と鍬の音。

 それらすべてが、心を静かに揺らしてくる。


「まだ本調子じゃないだろう。無理はするなよ」


 隣に立つアルマの声に、シルヴィアは小さく頷いた。身体はまだ不安定だったが、それでもしっかりと歩けていた。

 最初に通ったのは、教会の正面玄関だった。

 裏手の丘とは違って開けた場所で、小さな十字架の墓標がいくつも並んでいる。古びた石畳の敷かれた敷地には、花が供えられた一角もあり、そこには静かな祈りの気配が宿っていた。


「神父は村を離れていて、代わりに管理を頼まれている。それで昨日、君を見つけたというわけだ」

「……そうでしたか」


 教会を出て、朝露に濡れた草の中庭を抜ける。

 小さな花壇には季節の花が揺れ、その合間には、子どもたちが作ったと思しき石像や木彫りの動物が、いびつながらも楽しげに並んでいた。


「この辺は、村の手習い所にもなってる。文字と算術を教える場所だ。子どもは少ないがな」

「教養を受けられる場所があるのですね」

「ふ、面白い言い回しだな。あんた、やっぱどこかの出だろう」


 アルマの口調は冗談めいていたが、シルヴィアの表情は崩れなかった。


「……いえ、そのようなことは」


 返したその言葉に、アルマはそれ以上詮索しなかった。


 村の通りに出ると、にわかに人の気配が増してくる。土の道を行き交う人々。洗濯物を干す女たち。馬車に荷を積む男たち。農具を担いだ老人が、日なたで一息ついていた。

 井戸端に差しかかると、数人の女性が水を汲んでいた。そのうちの一人がシルヴィアに気づき、首を傾げる。


「あら……見かけない顔だね?」


 思わず足を止めかけたが、アルマが前に出て、さりげなく間に入った。


「教会で倒れていた。しばらく俺の家で休ませることになってる」

「へえ、そうなの……あ、気をつけてね、お嬢ちゃん。ここの井戸、水はいいけど足元すべるから」

「……はい。ありがとうございます」


 女性はにこりと笑っただけで、それ以上は何も問わなかった。

 この村の人々は、必要以上に干渉しない。けれど、それは冷たさではなく、“距離の取り方を知っている”ということなのだと、シルヴィアは感じた。

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