02:繋がっていた未来
――薪がはぜる音がした。
かすかに焦げた木の匂いが鼻をくすぐる。温かな毛布と、やわらかな寝台の沈みに包まれている感触が心地良い。このままいつまでも微睡んでいたい気分だった。
「……ん…」
その誘惑に抗い、シルヴィアはゆっくりと目を開けた。
痛みはない。ただ、体が妙に重たい。全身の疲労が、目覚めきっていない身体を地面に縫いつけているようだった。
(ここは……)
壁は白く塗られ、簡素な木製の家具がいくつか置かれている。
知らない部屋だった。
しかし、それはあまりにも“平和”で、“日常的”だった。
(…あのまま、倒れて……)
その後の記憶は曖昧だ。何か声を聞いた気もするし、誰かに抱きかかえられた感覚もあった。だが、それ以上は判然としない。
そっと身を起こそうとした瞬間、軋むような鈍い痛みが全身を貫く。思わず息を呑み、毛布の上で身じろぐだけに留めると――
「無理に動くな」
低く落ち着いた声が部屋の入口からかけられた。
視線を向けると、黒髪の男が一人、扉の脇に寄りかかるようにして立っていた。背は高く、ぼんやりとした光の中でもその整った輪郭が分かる。瑠璃色の瞳を湛える目元にはどこか影があり、それでいてどこか懐かしさを誘うような、柔らかな佇まいだった。
「極度の疲労と緊張のようだな。休めば良くなるだろう。大人しく寝ていろ」
ぶっきらぼうな物言いだったが、そこに険は含まれていない。ただ、必要なことを伝えているだけ。そんな様子だった。
シルヴィアは小さく息を整え、少し遅れて声を返した。
「……あなたが助けてくださったのですか?」
「ああ。教会の裏で倒れていた。もう少し見つけるのが遅かったら、今頃あっちの世界だったかもな」
男はそう言って皮肉気に笑う。
しかし、すぐにその表情を真剣なものに切り替えると、男はシルヴィアに問いかけた。
「なんであんな所にいた?」
答えようにも、答えられない。自分は既に死んでいるはずだったのだ。こんな所にいる理由など、こちらから聞きたいくらいである。誤魔化そうにも、現実に未だに置いていていない頭では、上手い言い訳など思いつかなかった。
結果としてシルヴィアの口からは、事実だけが零れた。
「……私自身にもよく分かりません」
「分からない、って、なあ……どこからどう見ても、何かありましたってな感じだが」
眉をひそめた様子の男に、シルヴィアは少しだけ目を伏せた。
その様子からして、まさか自分が逆賊の王女だとは夢にも思っていないだろう。何かあったかと言われれば、特大の出来事を経てきたばかりである。とは言え、真実を答えられるはずも無かった。
「……ここは、どこなのでしょうか」
代わりに返した問いに、男は少し驚いた顔をした。
「フォンテス村だ。北方地域の、まあ地図にも小さく載っているかどうかってな具合の辺境だよ」
「フォンテス……」
どこか懐かしい響きだった。思い返せば、地図の端の方にそのような名の村があった気がする。確か、3つの貴族領の境界にある、緩衝地帯だったか。王国の北方に位置していたはずであり、王都からは馬を使っても3日はかかる距離だ。一体全体、なぜそんなところで封印されていたのだろうか。
場所を聞いたところで、謎は深まるばかりだった。
「――ではここは、ヴェールディア王国なのですね」
相槌変わりに発した言葉に、男はきょとんしている。
その反応を不思議に思ったシルヴィアは首を傾げた。
「……違うのですか?」
「いや、何というかまあ…ここはヴェールディア“共和国”だが」
「共和、国……?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと収縮し、何かがこぼれ落ちそうになるのを感じた。
男は怪訝そうな顔で頷いた。
「ああ。王国だったのは過去の話だ。俺が生まれるより前の、な。今年で建国何年だったか……」
男の声が、シルヴィアの頭の中を滑っていく。
それは、かつて自身の姉が語っていた、王国に代わる新たな国家の形。シルヴィアが後に託した、未来への扉だった。
(成し遂げたのですね、お姉様……)
堰を切ったように、涙が頬を伝って流れ落ちた。
(…良かった……)
あの夜は、無駄では無かった。
ヴェールディアという国は変わった。王国は終わりを告げ、共和国となり未来を繋いだ。
流した血は無駄ではなかった。失われた――いや、自分が奪った命は確かに未来の礎となっていたのだ。
シルヴィアは袖で目元をそっと拭う。
「…失礼、いたしました」
男はシルヴィアの様子を、黙って見守っていた。敢えて問いかけるようなことはしない その沈黙に、救われるような思いがした。
気を取り直して、シルヴィアは再び尋ねる。
「今は何年でしょうか。その、西方暦で」
「西方暦なら……1483年だな」
――あれから、50年が経っていた。
半世紀もの間、未来は紡がれていた。
指先がわずかに震え、それを抑えるようにシルヴィアはそっとシーツを握りしめる。
少しだけ上体を起こして、不格好ながらも、頭を下げた。
「……お教えいただき、ありがとうございます」
男としては、ただ事実を伝えただけに過ぎないだろう。しかしシルヴィアは、この短い問いかけで確かに救われていた。
男は黙って頷いたようだった。少しの間沈黙が流れる。やがて、男は思い出したように口を開いた。
「そういえば、自己紹介がまだだったな。俺はアルマ・スペクス。この村の役場で事務長をしている者だ」
「申し遅れました。私は、シルヴィア――」
一瞬の逡巡。
「――と、申します」
姓は名乗らなかった。
嘘はついていない。だが、全てを語ったわけでもない。
“シルヴィア”という名は、王国の貴族の中では割と良くある名前だった。それだけで自分の真の正体と結びつける根拠にはなり得ない。
アルマは何も言わなかった。ただ、一つだけ、優しい声で続けた。
「回復するまで、ここにいればいい。大したもてなしは出来ないがね」
その言葉に、シルヴィアは小さく微笑んだ。