4.巾着袋の中身は、片方は生米で、片方は鼠です。
修正
先見(さきみ ⇒先詠
「そうか、彼女さんには会えなかったのか」
昼食を終えて、居間で食後のお茶をしながら友香と夢月が午前中の出来事を報告すると、二人を労うように華月がしみじみと言う。
するとすかさず、華月が作った穏やかな空気を切り裂くように、それはさておき、と美月。
「ハムスターに『ハム太』という名前、どうなの?」
「ええっと」
「人間に対して、人太、人子って名付けるようなものじゃない? 犬太、猫太、どう思う?」
「ええっと……ないと思ういます」
「でしょ!」
美月は賛同者を得て嬉しそうに笑顔を浮かべて友香を見る。きらきら輝く大きな瞳に、ばっさばっさの長い睫毛。改めて思うが、美人である。
「まあまあ。壮太が小学生の時に名付けた名前なんだろ? 小学生のネーミングセンスなんてそんなもんだよ」
「そうかしら? 個人差が大きいところじゃない?」
「……それで、だ」
今度は華月が美月の話をぶった切って、サイドテーブルからノートパソコンを取り上げると、ソファに腰掛け、膝の上でノートパソコンを開いた。
「壮太が踏切で誰かに押されたと言っていたから、踏切付近の防犯カメラ映像を手に入れたよ」
「すげぇ、にいちゃん。どうやって?」
「お巡りさんに頼んだんだ。いろいろ動いてくれて助かったよ、彼」
いろいろとお察し致します。駅前の交番のお巡りさんのことを思い浮かべて、友香は心の中で合掌した。
「さっそく見てみよう」
華月の座るソファの周りに集まると、ノートパソコンの画面をみんなで見つめた。
画面には踏切の様子が写る。単線である上に、もともと電車の本数が少ない場所である。踏切はほとんど遮断機が上がったままの状態が続く。
「壮太が跳ねられたのは昼頃だったから、そのくらいの時間まで進めて、っと。……ああ、ここかな」
「壮太だ」
踏切の遮断機が閉まってすぐにバスロータリーの方から壮太が走ってきた。壮太が遮断機の前で立ち止まる。ひどく焦っている様子で落ち着きがない。
そして、次の瞬間、壮太が遮断機の下をくぐり抜けた。
「誰か、いた?」
壮太の他に遮断機が上がるのを待っていたのは、買い物袋を持った年配の女性と自転車に乗った女性だけだ。
それも二人とも壮太とはある程度の距離を取って立っていた。壮太の背を押すなど不可能だ。
「誰も押してないんだけど?」
姿は見えなくとも友香に憑いているため、きっと側にいるであろう壮太に向かって夢月が言うと、壮太の気配が強くなる。
「でも、ちょっと動きがおかしかったよね」
もう一度映像を巻き戻して確認してみると、映像の壮太は体が唐突に前に傾いて踏切内に突っ込んだように見える。
「何かに背中を押されているように見えなくもないよね?」
「確かに」
「見えない何かに背中を押されたんじゃない? 壮太の背中あたりだけアップにできないの?」
「できる。待ってて」
華月がパソコンのタッチパッドを指先で操作すると、壮太の姿が画面上に大きく映った。
遮断機の前で足踏みをし、いつでも走り出せる体勢を保っている。何をそんなに急いでいるのか。ひどく慌てている様子だ。
壮太はどこに行くつもりだったのだろう? 壮太が背後を振り返る。なぜ? もしかして何かに追われているの?
そして、唐突に壮太の体が傾き、遮断機の下をくぐった。
あっ、と夢月が短く声を上げた。
「見た?」
「うん、見えた」
美月が頷いてタッチパッドに手を伸ばす。もう一度映像を戻す。
「壮太の背中に小さな影がぶつかった。それで、壮太が遮断機の中に」
「小さい生き物が体当たりしたように見えたよ」
「火鼠だ」
「えっ」
断定したのは早季だった。ひとりソファに腰掛け、本を読んでいて、パソコンの画面などちらりとも見ていないのに、火鼠だと言い放つ。
「でも、火鼠はこの時すでに仮死状態になってたはずだよ」
「影だけ飛ばしたのだろう」
「なるほど。無くもないね」
華月が頷く。
白蛇三兄妹は納得しているが、比較的普通の人間である友香は――って、今ここ謙遜したところだ。自分では『至って普通の人間である友香』だと主張したい。だけど、首に蛇を巻き付けたり、腰に鼠を下げているため『比較的』という表現を使わざる得ない友香は、影を飛ばすという言葉の意味がよく分からない。
妖怪は自分の影を飛ばせるのだろうか。足元の黒い影を手で掴んで投げている様子をイメージする。
後で夢月に聞くと、どうやら『影』という言葉は比喩で、精神体とか、魂とか、分身とか、強い想いなどの意味をひっくるめて『影』と言っているらしい。
よく分からん。分からんが、白蛇三兄妹に早季を加えた会話は進んでいく。
「火鼠がどうして壮太を踏切内に突き飛ばすのさ」
「壮太のためになると思ったからだろう」
早季は本を閉じて、友香の背後に視線を向ける。
「そろそろ思い出したか? この時どこに向かっていた? 何を急いでいた?」
『……分からない』
友香の後方で、壮太の声が頼りなく響いた。不意な声に驚いて友香が振り向くと、壮太が顔を俯かせて立っていた。
『どこに向かっていたのか思い出せないけど、逃げようとしていたんだと思う』
「逃げる? 何から?」
『分からない。けど、声が聞こえて。そう、そうなんだ。ハム太を埋めた後、部屋で休んでいたら、逃げてって女の声が聞こえて、逃げなきゃって急に思えてきて、慌てて外に出たんだ』
「女の声?」
『どこに逃げなきゃ行けないのか分からなかったけど、とにかく急いで遠くに、って。……で、踏切で足を止められて、急いでいるのにって焦っていたら、背中にドンッて衝撃を受けて、あとは……』
ぱたん、と華月がノートパソコンを閉じた。
「火鼠は壮太にとって悪いものではないと思うんだ」
「うん、私もそう思う」
「とすると、火鼠が壮太を踏切で押したのは、それが壮太のためになると判断したからだ。実際、接触した電車はスピードが出ていなくて、壮太はほぼ無傷だ」
「火鼠が守ったのかもしれないわよね」
「体から魂が抜け出ちゃった今の状態も、もしかしたら火鼠が意図したことなのかもしれない」
『なんで? なんのために?』
「壮太を私たちのところに連れていくためなんじゃない? 実際、壮太は霊体になったから友香ちゃんを見付けることができたわけで、友香ちゃんを追って私たちのところまで来れたわけでしょ?」
「そうだとして、何も壮太を霊体にする必要がある? 普通に先詠神社に連れてくればいいじゃん。てか、来ようとしていたんじゃないの? 電車に跳ねられるまで先詠神社に向かって逃げて来ているように見えるじゃん」
「そうね。でも、壮太が普通に来て、私たちが相手をするとでも? 壮太自身が自分の身に何が起きているのか分かっていなかったのよ。壮太が電車に跳ねられることなく先詠神社にたどり着いたとして、私たちに助けてくれと言えたかどうか……」
「我に返って、なんで俺ここにいるんだろう? と、何もせずに帰宅しただろうな。そして、壮太は霊体になるよりももっとひどい状態になっていたかもしれない。火鼠ではない方の妖怪のせいでな」
「つまり……」
と夢月が唸るように言った。
「火鼠は、壮太を私たちに会わせて、何かを解決して欲しがっているわけだな」
それが事実なら、ここまで火鼠の思惑通りに事が進んでいることになる。
「誰かの意図で動かされちゃってるのは気に入らないけど、乗りかかった船だ。仕方がない。最後まで踊らされてやる!」
「そうだね。友香ちゃんのこともあるし、壮太にも自分の体に戻って欲しいし」
「そうなると、是が非でも壮太の彼女さんに会わなきゃならないね」
「そうだね」
「壮太はさ、まだ彼女の顔を思い出せないの? 名前はなんて言うの?」
『……分からない、どんな顔だったか。名前も」
「そっか」
誰も言わないが、誰もがうっすら分かっていた。
壮太の彼女は怪しい。もしかしたら、人間ではないのかも、と。
「夜、壮太のアパートに行くしかないね」
華月と美月が顔を見合わせる。そして、すまなそうに眉を潜めた。
「華月も私もこれから本家の正月準備を手伝わなきゃ行けないの」
「うちのムッちゃんをどうこうできる悪霊や妖怪なんていないとは思うけど」
「ちょっと心配ね」
「大丈夫だよ。へーき、へーき。心配いらないよ。私、強いし」
「うん、強いのは知ってるけど」
「……まあ、どうにかなるか」
華月が視線を漂わせながら言う。きっと少し先の未来が曖昧に分かったのかもしれない。
「そうそう、追加情報。これもお巡りさんに聞いたことなんだけど、壮太のアパートの一〇一号室と一〇二号室の住人は夜勤の仕事をしている。二〇一号室は壮太のように地方から出てきた学生で、友人宅に入り浸っていて自分の部屋にはめったに帰って来ない。二〇二号室の住人も学生だが、毎晩コンビニでバイトをしている。そして、二〇三号室――壮太の部屋の上のは、空き部屋だ。つまり、夜は壮太以外あのアパートにいないということだ」
「どうりで昨日行った時、アパート全体が真っ暗だと思った」
昨日、日が暮れてからアパートに行った時のことを思い出して友香も頷く。人の気配がまったくなかった。
とにかく、と美月が言った。
「日暮れまでまだ時間があるから、もう少しゆっくりしたら?」
「うん、そうする」
早季ちゃん、と声を掛けて夢月は早季に振り返る。早季は読書の続きに戻ろうと、本のページを捲っていた。
「早季ちゃんも来る?」
「行かない。読み終わるまで動けない」
「そっか」
よほど面白い本なんだね。仕方がない。
友香と夢月は太陽が傾くのを待って出掛けることにした。
この時期、太陽は傾き始めたら沈むまでが早い。うっかりソファで寛ぎ、うとうとしていたら、早季に居間の電気を付けられた。もう明かりが必要な時刻になっていたのかと驚く。
「そろそろ行かなきゃ」
玄関に向かうと、華月に呼び止められた。数時間前、美月が出掛けた時に華月も一緒に出掛けたものだと思っていたのだが、まだだったようだ。
「にいちゃん、まだいたんだ?」
「これを友香ちゃんに渡そうと思ってさ」
はい、と手渡された物は、麻布の巾着袋だ。また巾着袋? しかも、何やらずっしり入っている。友香はそれを両手で受け取って、中を開いて覗いた。
「お米?」
生米だ。左右に揺らすと、サラサラと流れるような音がする。
「たぶん必要になるよ。使い方は分かるかな? 自分の周りに撒いて、途切れないように円を描くんだよ。そうすると、結界をつくることができるからね」
「結界ですか……」
「うちの一族の中でも結界をつくるのが得意な人に頼んで力を込めて貰ったお米だよ。きっと役に立つからね」
華月が言うならそうなのだろう。友香は巾着袋をスカートのポケットに押し込んだ。……うん、なんとか入った。ポケットの大きいスカート良かったと思う。
まあ、不自然に膨らんでいて、見た目が悪いけれど。見た目の面で言えば、スカートの左右に巾着袋を一つずつ下げるよりはマシかもだ。しかも、片方には生米、もう片方は鼠が入っている。
「歩き難そうだね」
「少しね」
かく言う夢月は寒さからの完全防備だ。もこもこの上着にマフラーをして毛糸の帽子を被り、手袋と耳当てをしている。さらに、友香は知っている。丈の短いスカートを穿いているが、分厚い靴下の下にはタイツを二枚重ねて履いていることを。
夢月も友香に負けず動きが鈍りそうな格好である。
午前中に通った道をたどるように再び歩く。その間にどんどん、どんどん、辺りが暗くなっていく。商店街では街灯が点き、住宅街でも家々に明かりが灯り始める。
壮太のアパートにたどり着く頃には、太陽は沈み、西の空の下の方にほんのわずかに橙色の光が残っているだけだった。
「壮太、お邪魔するよ」
今は姿が見えないが、近くにいるはずの壮太に声を掛けてから玄関の扉に手を伸ばした。
ガチャリと、ドアノブが何の抵抗もなく回る。扉が開くと、すぅーっと冷気が部屋から流れ出てきた。
「ほんと冷凍庫だよ。冷蔵庫じゃなくて、冷凍庫。しかも業務用冷凍庫ね。寒い!」
「昼間に来た時より寒いね」
まだ彼女は来ていないようだ。部屋の中はがらんとしていて、そして、暗い。
夢月が電気のスイッチを探して壁に手を這わせる。カチリと音が小さく鳴り、部屋が明るくなった。
部屋の中は全体的に白い。昼間に来た時同様、霜が積もっているからだ。
「靴、脱がなきゃダメ?」
靴下越しに感じた床の冷たさを思い出す。氷の上に立っているかのような冷たさで、靴下が床に貼り付く感覚もあった。今は昼間よりも寒さが強くなっている。とても靴を脱ぐ気になれなかった。
「壮太には悪いけど、足が冷えるのはよくない。靴のまま上がらせて貰おう」
壮太の部屋は、男の独り暮らしにしては物が少なくスッキリとしている。毎晩、彼女が来るから意識して片付けているのかもしれない。
コンロも流し台も比較的綺麗だ。流し台の隣に腰くらいの高さの小さな冷蔵庫がある。きっと今の部屋の温度より冷蔵庫の中の方が暖かそうだ。
壁際にベッド。反対の壁際に長方形のローテーブルがある。ローテーブルの上は、窓だ。窓にカーテンはついていない。
ローテーブルは、一人で使う分にはちょうど良い大きさのテーブルだ。きっと壮太はこのテーブルで食事をしたり、大学の課題をこなしたりしていたのだろう。
テーブルの上にはパソコンや筆記具が置かれている。そして、家の鍵もある。
「鍵! ほら、施錠しないで出掛けてるじゃん! 不用心だなぁ」
「それだけ慌てて逃げたってことなんじゃないの?」
テーブルの下には、大学の課題図書であろう本が積み重ねられていた。本棚がないからだ。そう言えば、テレビもない。友香ならそこにテレビを置くのにと思う場所にハム太のゲージが置かれている。部屋の角っこだ。
「彼女さんが来るのを待つんだよね?」
「そう。いつ来るのかなぁ。早いとこ来てくると良いけど。この部屋で長時間待つとか無理だ。はい、クッションがあったよ。友香、座って」
テーブルの下に押し込められていた平ぺったいクッションを見付けて、夢月が友香の前に置いた。
友香がそこで座ると、夢月はベッドに腰掛けた。
「……寒い。ほんと寒い」
「うん、寒いね」
寒い。こう寒いと、不安になってくることがある。夢月の声がなんとなく気だるそうに聞こえるから、尚更である。
「夢月、大丈夫?」
「う………ん? だいじょ……」
「本当に? 本当に大丈夫?」
「……ん…」
――ゴトン。
「わぁあああ、夢月っ‼」
えっ、ええっ! えええっ⁉ 今? 今なの⁉ 嘘でしょ⁉
ベッドに駆け寄ると、服の抜け殻がゆっくりと崩れ落ちた。
夢月の姿がない。夢月が消えた! いや、落ち着け。
友香は夢月が着ていた服を掻き分け、夢月の姿を探した。その時だ。
ぴーん、ぽーん。
え?
空耳だろうか。そうであって欲しい。友香は体を硬直させて、首だけ動かして玄関の方を振り返った。
ぴーん、ぽーん。
空耳なんかじゃない。確かに聞こえる。玄関のチャイムの音だ。
誰かが来たのだ。玄関の外に誰かいる。
「夢月」
友香は再び夢月の服を掻き分けた。
「夢月、誰か来た。夢月」
そうしようと思ったわけではないが、自然と口から出てくる声は小声だ。
ようやく服の中から白いビニールホースを見つけ出し、鷲掴みにして引っ張り出す。
(ああ、やっぱり蛇になっているし。どうしてこんな時に!)
ぴーん、ぽーん。
三度目のチャイムだ。そして、こんこんこん、と扉を叩く音。
友香は掴んだ白蛇を胸に抱え込んで玄関を振り返った。白蛇はぐったりとしていて意識がない。寒すぎて冬眠状態なのだ。
(ひどい! こんな時に‼)
どんどんどん!
さきほどのノックよりも強く扉を叩かれた。
(留守! 今、留守だから帰って‼)
友香は胸の内でノックに対する返事をし、白蛇を抱えながら玄関を凝視して立ち尽くした。
その時だ。ぱっと部屋の電気が消えて真っ暗になった。
そして――。
『壮太さん、開けて』
女の声だった。細く高い声が玄関の扉の外から聞こえた。
『壮太さん』
もう一度。
友香の背後で気配が動く。壮太が友香の横をすり抜け、玄関の方へふらふらと近付いていく。その様子は、引き寄せられているというか、まるで糸で手繰り寄せられているかのようだ。
「待って! 壮太さん、待って!」
友香は慌てて壮太の前に回り込んだ。壮太の顔を見ると、視線が定まっておらず、意識がはっきりとしていないことは明らかだ。
『壮太さん、開けて』
玄関の外から再び壮太を呼ぶ声が聞こえる。
玄関へと引き寄せられていく壮太を止めたくても、壮太が霊体のため友香には触れられない。触れようとしても友香の手は壮太の体を擦り抜けてしまうのだ。
(どうしよう!)
もはやヤケクソだった。友香は白蛇を両手に持ち直すと、えいっと一声上げながら壮太の胴に巻き付けた。まるでロープのように。
『……っ』
壮太の動きが止まる。どういう原理なのか分からないが、白蛇は壮太を擦り抜けることないようだ。壮太の動きを封じつつ、友香は白蛇ロープを引っ張りながら、壮太を部屋の奥まで引き戻した。
『壮太さん、開けて。私よ。開けて』
夢月から聞いたことがある。霊や妖怪は、認知力が高いほど玄関や扉、窓を通り抜けることができないのだそうだ。
霊の場合は特に、生前そこは通れないものだという認識があるため、扉なら扉が開かないと中に入って来られないのだ。
ところが、認知力が低い霊や妖怪は、障害物を障害物として認識できないため、壁や天井ですら通り抜けてしまう。
では、認知力が低い方が強いではないかと思ってしまう。違うのだ。本来、霊や妖怪には障害物などない。つまり、認知力が高く、壁は通り抜けられない、扉は開かなければ入れないと思い込んでいる霊や妖怪も、そもそも思い込んでいるだけなので、通れるのだと気付く瞬間があるということだ。
気付いてしまったら、彼らはどこにでも入っている。
『壮太さん、開けて』
友香は玄関を見やった。扉の鍵は開いたままだ。意味がないと分かっていても、鍵を閉めておくべきだったと後悔する。
今のところ、おそらく彼女は壮太の許可がなければ部屋に入れないと思い込んでいる。部屋に入るためには壮太に扉を開けて貰う必要があるのだ。きっとこれまでも壮太にそうやって迎え入れて貰っていたのだろう。
だけど、気付くはずだ。自分自身で扉を開けることができることに。
その時に鍵が掛かっていたら、また少し時間稼ぎができたはずだ。次に彼女が鍵のかかった扉など開けなくても中に入ることができると気が付くまでの時間を。
鍵を閉めに扉まで近付くべきか? いや、ダメだ。壮太を抑え込んでいる今、友香が移動すれば、壮太も移動することになる。壮太を扉に近付けるのは危険だ。
「夢月、起きて。夢月」
ダメもとで声を掛けてみる。
……ああ、やっぱりダメだ。夢月は完全に意識を失い、壮太を縛るロープと化している。
『壮太さん、私よ。どうして開けてくれないの?』
その時だ。
ガチャリ。
ドアノブが音を立てる。友香は玄関のドアノブを凝視した。息を殺して、ドアノブの動きを見守る。
ギギギギギギ。
ドアノブが軋む。
歯ぎしりのような音を立てて、ゆっくり、ゆっくり、少しずつ、少しずつ、ドアノブが回りだす。
目が離せない。ドアノブから。
開いちゃう! 開いちゃう! 開いちゃう! 玄関が開いちゃう!!
ぎぃぃぃぃぃぃぃぃ。
ついに玄関が開いた。
薄く開いた玄関の隙間から、すうっと冷気が差し込んでくる。
部屋の中だって十分に寒いのに、外から更に冷たい空気が流れ込んでくる。何この状況、ほんとあり得ない!
ぴしっ。
鋭い音を立てて、窓ガラスにヒビが入る。窓ガラスも割れるほどの寒さってことか。ひどい。
友香は動けなかった。そして、わずかに開いた玄関の扉の隙間から目が離せなかった。
隙間は徐々に、徐々に広がっていく。
『壮太さん……』
細く高い声が響く。
隙間から外の暗闇が見えていた。その暗闇から何かが浮かび上がってくる。扉が開いていくほど、浮かび上がってくる何かもはっきりと見えてくる。
――女だ。
腰まである長い髪の女が玄関の外に立っていた。女は白いワンピースを着ている。その白が暗闇に浮き出て見えた。
――入ってくる!
扉はすでに女が中に入れるほど大きく開いていた。そこから吹雪いてくる冷気に友香は体が凍り付いてしまったかのように動けなかった。
(どうしよう! 入ってくる! どうしよう!)
友香は女がゆっくりゆっくり部屋の中に入ってくる様子を凝視しながら、夢月の端っこを握りしめた。
その時。友香の腰の辺りで、ぼっと炎が灯ったように熱くなる。ハッとして友香は腰から下げた赤い巾着袋を見下ろした。そして、金縛りが解けたように体が動くことに気が付く。
火鼠が入っている巾着袋に触れてみると、まるで懐炉のように熱を放っていた。
その温かさに気持ちが落ち着いたのか。ポケットの膨らみを思い出して、大慌てで、もうひとつの巾着袋をポケットから引っ張り出した。こちらの巾着袋には華月に渡された生米がずっしりと入っている。
ちらりと玄関を見やる。長い髪の女は髪を左右に大きく揺らしながら玄関の中に入ってきていた。
『壮太さん、いるんでしょう?』
前髪が長いせいで顔が見えない。ゆっくり、ゆっくり、部屋の中へ移動してくる。
友香は麻布の巾着袋を開いた。クッションの位置まで戻ると、そこに座り込み、生米を少しずつフローリングの床に零していく。自分の周りに円を描くように。
生米で描いた円が出来上がると、その円の中に壮太も引き込む。壮太は白蛇が絡まった状態で放心状態にあるらしく大人しかった。
この様子ならずっと掴んでいなくても大丈夫かもしれない。加えて霊体なので、友香の上にかぶさっていてもまったく重さを感じなかった。
寒い。肌が切れるような寒さだ。吐く息も白く。また、その息が吐いた瞬間に凍っていきそうだった。
『壮太さん、どこにいるの? 壮太さん……』
白いワンピースの女が壮太を探して部屋の中を彷徨い始めた。女の動きがわずかに早くなってきた気がする。
『壮太さん……。壮太さん……』
女が近付くと、近付いただけ、さらに部屋の温度が下がっていくようだ。友香の髪がぱりぱりに凍り付く。
夢月が着ていたもこもこの上着をコートの上から羽織っているが、ダメだ、寒すぎる。足先の感覚がない。
友香はクッションの上で膝を抱えて座り、できる限り体を縮め、赤い巾着袋を胸に抱き締めた。唯一、これだけが温かかった。
『壮太さん』
不意に女の声音が変わった。
これまでは甘えるような、媚びるような声だったのに、それは怒りを感じさせる声だった。
『どこにいるの? どうして隠れているの?』
女には壮太の姿が見えていないようだ。
女が友香がいる場所を見ても何の反応を示さないところを見ると、友香は生米の結界をうまく作れたようだ。女には友香の姿も見えていない。
女はベッドの上を見、髪を振り乱して、ベッドの下を覗き込む。
『いない』
女はローテーブルを見やり、髪を振り乱して、ローテーブルの下を覗き込んだ。
『ここにもいない』
壮太の部屋は狭い。他に探す場所はなかった。
『どうしていないのよ! どうして‼』
女は叫んだ。ビリビリと大気が震え、再び窓ガラスにヒビが入る。それはまるで蜘蛛の巣のように広がった。
友香は赤い巾着袋をぎゅっと抱き締める。
どうか、どうか、見つかりませんように。結界が守ってくれますように。
女は怒りを込めた低い声で言った。
『絶対に見つけてやる。逃がすものですか!』




