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嫁が君  幼馴染みは白蛇の妖怪  作者: 日向あおい(妹の方)
2/5

2.ショックだわー。生霊に取り憑かれたし。

修正

先見(さきみ ⇒先詠さきよみ

 

 ひっ、と息を呑んだのも束の間、いち早く我に返った夢月が叫んだ。

早季さきちゃん、それ拾っちゃダメなやつ!」

「普通、拾わなくない? どう見ても汚いじゃん!」

「よく拾ったな。そこまでボロボロでなくとも俺には無理だ。誰のだか分かんないし、拾った後の処理に困るだろ」

 白蛇三兄妹が口々に容赦なく言うと、左足用の片方しかない黒いスニーカーを片手に持ったまま土間に立ち尽くしていた少女の後ろから、ぬっと巨体が現れた。

『早季のやることにダメって言ったヤツ、誰だ! 喰ってやる!!』

 それは黒々とした毛並みの大きな大きなイヌ科の獣だった。先詠もハスキー犬のように大きいが、その先詠よりも一回り大きい。間違いなく、ただの犬ではない。妖狼だ。

『げっ。朝霧あさぎりの兄貴』

 思わず出ちゃったといった感じの声。そして、ハッとしたのだろう。声の主は、サッと友香の後ろに隠れた。が、遅い。声はちゃんと黒狼の耳に届いていた。

『先詠か。久しいな。ちゃんと顔を見せてみろ』

 黒狼の呼び名は朝霧といい、朝霧神社の主だ。

 朝霧神社と言えば、先詠神社から北西に向かって車で五分ほどの距離にある、ここらでは一番大きな神社だ。

 地図上で九つの神社の位置関係を見ると、朝霧神社を中心に他の八つの神社が朝霧神社を囲むように建てられている。つまり、ただ大きいだけではなく、朝霧神社こそ九つの神社のうちで一番格式高い神社なのだ。

 そのため今のこの時期の朝霧神社は、老若男女問わず年越しの瞬間は朝霧神社で迎えたいと望む地元人で境内が溢れかえっている。おそらく早季はその喧騒から逃げてきたのだろう。

『兄貴が付いていながら、なんで早季にそんな変なもん拾わせたんだ?』

『俺は早季のやることを妨げたりしないからな』

 ふんっ、と鼻を鳴らす朝霧に、先詠はしぶしぶといった様子で友香の後ろから出てきた。

 先詠の姿を認めると、次に朝霧の暗く鋭い瞳は友香を写す。

『相変わらず美味しそうな娘っ子だ。喰ったら力が漲りそうだ』

『兄貴、手を出すなよ。その子は夢月のもんだ』

 先詠は赤茶色のふさふさな尾を左右に大きく振りながら朝霧に歩み寄った。

 二匹が挨拶を交わしている間に、美月が慌てたように家の奥へと走っていき、すぐにパタパタと戻ってきた。手には白いビニール袋を持っている。

「早季ちゃん、ここにその靴を入れてくれる? 警察に届けた方が良いと思うの。華月、駅前の交番に電話して、取りに来て貰えるよう頼んでくれる?」

「りょーかい」

 答えると、華月は頭を掻きながら家の奥へとゆっくり歩いていく。おそらく、駅前の交番の電話番号? 何番だ? と思っているに違いない。110ではないことは確かだ。

 え? なんで110しないかって? 緊急性がないことだからという真っ当な理由と、110の電話は絶対に録音されて記録に残ってしまうからだと思う。

 おそらく今から華月のお兄様は、一番近い交番のお巡りさんを電話の受話器越しに、声と言葉でもって都合の良いように操るのだと思う。『操る』という言葉が適切か分からない。場合によっては『暗示を掛ける』と表現した方が理解しやすいかもしれない。

 要するに、夢月が顧問の先生に先生自身の意志に反して年末ギリギリまで部活動をやらせたのと同じ力を使うのだ。

 お巡りさんに靴を渡すのが目的だが、この家に踏切事故の持ち主の靴があるのは不自然。靴を受け取ったお巡りさんはおそらく受け取ったとたんに靴を受け取った経由を忘れるだろう。そして、踏切近くで自分が見付けたのだと思うに違いない。

「入って来ちゃったモノは、もう仕方がないわよね」

 黒いスニーカーを受け取った美月はビニール袋の口を縛ると、ため息をひとつ。

「さあ上がって。こんなところで立って話していると、体が冷えちゃう」

 促されて早季が靴を脱いで土間から上がると、続いて朝霧も段差を軽くジャンプして上がった。そして、その後ろに付いてきたモノも続く。友香は夢月の腕にぎゅっとしがみ付いた。

「大丈夫。このメンバーで何かできる霊はいないよ」

 このメンバー。

 白蛇三兄妹、妖狼が二匹、そして、最強の早季様だ。

「たしかに……」

 友香は納得して夢月の腕から手を離した。

 九堂くどう早季。

 朝霧神社の一人娘であり、夢月の従妹である。

 父親同士が双子であるためか、夢月たち兄妹と似た顔立ちをしているが、早季が黒髪直毛であるため、パッと見の印象は大きく異なる。

 早季は黒髪を肩に触れる長さで切り揃えていて、こけしか日本人形のように見える。対して、白蛇三兄妹は色素が薄い髪色で緩やかな癖毛であるため、同じく人形で例えるならば、ビスクドールだ。

 そして早季は、夢月や友香と同じ十四歳。同級生である。

 さて、ここで再び理科実験の話になる。夢月たちの父親が日向に置いた卵がひとつ、日陰に置いた卵がひとつ、そして、冷蔵庫に入れた卵がひとつという話だ。

 実は、日向に置いた卵から誕生したのが華月で、日陰に置いた卵から誕生したのが美月だった。とすると、夢月は冷蔵庫の中でゆっくりと女の子として誕生する準備をしていたのかもしれない。

 ところが、早季の母親が早季を身籠り、お腹の中で早季の性別が分かると、一族の年寄りたちが慌てて冷蔵庫から卵を取り出して暖房器具の前に置くと、必死に温め始めたのだ。

 それだけではない。ジジババ数人がかりで、毎日、毎日、『男になれ、男になれ』と、ブツブツ、ブツブツ、念じ続けたのだという。

 なぜそんなことをしたのか? 年寄りたちの考えは単純である。夢月を早季の婿候補に定めたからである。

 夢月たち一族は大昔から親族婚を繰り返している。その理由はひとつ。力と財を分散させないためである。

 ただし、この一族のいう『力』は、権力などといった俗物的なものではない。――妖力だ。

 夢月たちの一族が普通の人間ではないことは、これまでの話で察してくれていると思う。夢月に関して言えば、蛇になってしまうのだ。普通なわけがない。人間かどうかもあやしいが、そこはギリギリ人間だと信じたい。親友として。

 彼らの始祖は、人間の男と妖狼の間に産まれた半妖の娘なのだそうだ。この娘には九匹の兄妹がいて、その九匹こそ朝霧や先詠たち、今や神社の主となっている妖狼たちなのである。

 半妖の娘の子孫たちは人間社会で暮らし、世代を重ねていくうちに妖怪としての血が薄まっていく。そのスピードを緩やかなものにしようと親族婚を繰り返し、または、薄まってしまった時には妖怪との異種族婚を繰り返してきた。

 そんな一族の中でも取り分け妖怪の血を濃く保っているのが一族の本家筋にあたる朝霧神社の者たちだ。その末裔である早季は見た目こそ人間で、夢月のように蛇に変身したりしないが、一族最強レベルの妖力を持っているのだ。

 早季と夢月の婚姻は、早季より先の子孫たちが妖力を失わないためのものである。

 ところが、年寄りたちの思惑は外れてしまう。夢月が男子の特徴を持たずに生まれてきてしまったからだ。さぞかし、ガッカリしたことだろう。

 だが、まだ年寄りたちは望みを捨ててはいない。誕生したばかりの夢月の体を調べた際に、今後もしかしたら男に成長するかもしれないと分かったからだ。というわけで、一族の中で夢月は早季の許嫁という位置付けにあるらしい。

 さて、一同が揃って居間に移動すると、各々思い思いの場所に腰を下ろす。夢月と友香は並んでソファに座り、友香の足元で先詠が伏せ、顎を友香の膝に乗せている。

 向かい合うように早季がソファに腰掛け、朝霧はその横に飛び乗った。

『朝霧神社が騒がしくなってきた。早季の親もしばらく留守をする。その間、早季はここで世話になるぞ』

「うん、毎年のことだから大丈夫よ。――さあ、あなたもどうぞ」 

 朝霧の言葉に頷いてから、美月は最後に居間に入って来たモノに対して、一人掛けのソファを指し示した。

 いるものとして扱ったからか、しだいに気配がはっきりとしてくる。その気配は美月に勧められたソファに座った。

「あなた、名前はなんていうの?」

 男だ。若い男がソファに座っている。

 だぼだぼした黒いズボンに、ファーのついた黒いダウン。右足にだけ黒いスニーカーをまるでサンダルを履くかのように踵を潰して履いている。室内で靴を履いているのかと思うが、そこは霊。

 薄ぼんやりと見え始めた姿は、ひとつひとつ認識するたびにはっきりと目に見えてくる。

『……からない』

 掠れた声だったが、確かに聞こえた。男が答えたのだ。

「名前、分からない? 忘れちゃったのかしら? でも、大丈夫よ。よくあることだから」

 そうなの? と夢月を振り返ると、夢月が頷いた。

「思いがけず死んだ霊にはよくあるんだ。時間が立つと、思い出してくる」

『…俺……、しん…だ……?』

「ええ、残念ながらね。覚えていない? 踏切で」

 突然、男が目をカッと見開く。

『覚えていない。嘘だ! 俺が死ぬなんて! 死ぬ理由がない‼』

「でもね……」

『俺、大学に受かって、東京に出てきて、彼女ができて、これからって時で。それでなんで死ぬんだ? あり得ないだろう!』

「でもね、実際……。あなた、今の自分の姿を見てみて」

 美月に言われて男はゆっくりと目線を動かした。その時、初めて友香は男の目を見た気がした。そして、その男の目が絶望に暗く沈んでいく。

「美月」

 廊下から声がする。電話を終えた華月が居間に戻って来たのだ。

「俺、考えたんだけど、お巡りさんに靴を取りに来て貰うより、俺が交番に行った方が早いと思うんだ。俺、ささっと瞬間移動で行ってくるよ」

「あら、気付いたの? それじゃあ、この靴お願いね」

 美月は手にしていたビニール袋をスッと華月に差し出す。それを受け取って華月は廊下から居間を覗き込むようにして言った。

「けど、瞬間移動って集中力がいるんだよなぁ。先詠が背中に乗せて走ってくれたら良いのに」

『お前をか? い、や、だ』

「だよなぁ。朝霧は早季ちゃんを背中に乗せて来たんだろ? いいなぁ、先詠は乗せてくれたことがないんだ」

 いいなぁ、いいなぁ、と言いながら華月は玄関の方へとゆっくり歩いていく。その足音が土間を降りたあたりで消える。引き戸を開ける音は響かなかった。

 おそらく土間で靴を履いた後、瞬間移動したのだろう。え? そんなことできるのか、って? できるのだ、彼らは。ただし、いくつかの条件があるらしい。詳しくは知らない。

 ところで、朝霧が背中に早季を乗せて来たと聞いて、だからかと納得する。だから、先ほど夢月たちが、石段下に佇んでいた男がすごいスピードでこちらに移動していると言っていたのだ。妖狼の駆けるスピードだったに違いない。

 美月は男が腰掛けるソファの傍らに立ち、再び男に声を掛けた。

「大学生なのね。どこの大学なの? この近くかしら?」

『……』

「家はどこなの? 踏切の近くかしら?」

『……覚えていない。俺が覚えているのは、辺りが暗くて、そこがどこなのか、俺が何者なのか分からなくて、どうすれば良いんだろうって思っていたら、急に光がやってきて、その光に付いて行ったということだけだ』

「光ね……」

 美月の視線が友香に向けられる。

「霊として正常だね。霊にとって友香はそんな風に見える」

 うんうん、と夢月が頷きながら言ったけど、霊としてとか言われても男が嬉しくないだろう。

「彼女がいるって、さっき言っていたけれど、彼女の名前は覚えているの?」

 自分の名前は覚えていなくとも親しい人の名前は覚えていることがある。自分の名前を口にする回数より、親しい人の名前を呼ぶ回数の方が多いからだ。

 だが、男は頭を左右に振る。

『思い出せない。……顔も思い出せない。……けど』

 突然、男は飛び上がるように立ち上がった。その顔を見上げると、先ほどよりも更にはっきりと見える。生きている人間がそこにいるかのようだ。

 大学に受かって東京に出てきたと言っていたが、なるほど、垢抜けない顔をしている。つまり、髪型とか服装とかはダサいが、好感の持てる青年だということだ。

 その青年が、思い出した! と声を上げて言った。

『彼女が来るんだ! 彼女はそのう……隣の部屋に住んでいて、……そう、それで、毎晩、俺の部屋にやってくるんだ』

「隣の部屋?」

『俺、アパートに住んでて。彼女が隣の部屋に引っ越してきて、何度も顔を合わせるうちに仲良くなって、付き合うことになって』

「へぇ、上京ラブストーリーだね」

 人様の色恋に興味がない夢月が、さも興味のない声を漏らす。だが、姉の方は逆だ。男を褒めるように手を叩いた。

「いろいろと思い出してきたわね。良い兆候だわ」

『実は、俺さ、東京にあまり馴染めなくて。大学でも浮いてて。四月の頃はサークルに入って、仲間作って、いっぱい遊ぶぞって思っていたんだけど、なんかさ、人が多くって。渋谷とか原宿とか。すごく憧れてて行ったんだけど、本当に人が多くて。もう無理だなぁと思って一回誘いを断ったら、次から誘われなくなって……。気付いたら、ぼっちになってた』

 ああ。うん。合う合わないってあるし、仕方がないよね。

『そんな時に彼女と出会って、彼女すごく美人なのに、俺なんかと気さくに話してくれて。料理作り過ぎたからって、わざわざ持って来てくれたりしてさ』

 それは何やらあざとい。

『俺、帰らないと。彼女が来てしまう』

「でも、帰るって言っても家が分からないんでしょう?」

『それでも帰らないと。彼女に嫌われたくないんだ』

 上京して孤独を味わった青年がようやく得た心の拠り所なのだろう。命綱のように必死になる気持ちは分からないでもない。だけど、情報が少なすぎてどうしてやることもできない。

 どうしたものかと一同がそろって眉を寄せていると、不意に足音が廊下から聞こえてきて、それはゆっくりと近付いてくる。

「ただいまー。ついでにいろいろ聞いてきたけど、聞くー?」

 華月だ。早い。さすが瞬間移動。

 華月は居間に入ってくると、美月と並ぶように立つ。それから、一人掛けのソファの前に立ち尽くしている青年を見やった。

「君の名前は、川島壮太かわしまそうた。十九歳で、学生。鹿児島県出身で、大学進学のため今年の四月に上京してきている」

『かわしま……そうた…。ああ、そうだ。それ、俺の名前だ!』

 青年が顔を輝かせた。また少し彼の姿がはっきりと見えるようになった気がする。

 華月は壮太に、にっこりと笑みを返した。

「朗報だ。君は死んでいない」

『えっ』

「そうなの⁉」

「どういうこと?」

 美月も夢月も驚いて兄を見ると、華月は説明する。

「確かに壮太くんは電車と接触したが、電車のスピードがそれほど出ていなかったこともあって、軽く飛ばされただけで済んだようだ。大きな外傷はない。ただし、頭を打っているから、現在、病院で意識不明だ」

『俺、生きているんだ?』

「生きている」

 がくんと壮太の体が崩れ落ちる。そのままソファに座り込み、顔を両手で覆っている。

『良かった。俺、生きてる』

「魂、出ちゃってるけどね」

「そうね。霊体になっちゃってるから早く体に戻らないと、これから死ぬわよ」

 喜ばせておいて落とす白蛇兄妹である。

 壮太が、ぱっと顔をあげた。

『あ、あのう! 俺、今思い出したんだけど、誰かに背中を押された』

「押された?」

『うん、踏切で。そうだよ、押されたんだ。じゃなきゃ、俺が遮断機が下りている踏切に入るわけがない!』

「誰かに押されたとなると……」

「事故ではなくて事件になってしまうわね。誰かに恨まれているの?」

『えっ』

「だって、そういうことでしょう? 心当たりあるの?」

『俺、誰かに恨まれるようなことは……』

 心当たりは無さそうである。見るからに良い人そうだ。騙されることはあっても、騙すことはなさそうな顔をしている。

「とりあえず、入院している病院に行ってみる? 生きているのなら体に戻らなきゃだし?」

 夢月が提案すると、華月と美月もそれが良いと頷く。ところが、壮太は首を横に振った。

『家に帰らないと。彼女が来るんだ』

「体に戻ってから電話すれば良くない?」

『彼女、ケータイを持っていないんだ』

「えっ、今時⁉ いつもどうやって連絡を取ってるの?」

『隣の部屋だから』

「あ、そうか」

 じゃあ、と夢月が言う。

「仕方がないから壮太のアパートに行くか。にいちゃん、アパートの住所もお巡りさんから聞いてきたんだろ?」

「ああ、聞いてあるぞ。にいちゃんも一緒に行こう。どんだけ美人な彼女か見てあげよう」

 夢月はすくりと立ち上がり、友香を振り返った。え。もしかして私も? という顔で見つめ返すと、夢月は当たり前じゃんと言った。

「壮太は友香に憑いているんだよ。友香が行かなきゃ壮太が動けないじゃん」

「ええっ、私に憑いているの⁉」

「え、他に何に憑いていると思ってた?」

「スニーカー?」

 早季が拾ってきて、華月が交番に届けた黒いスニーカーのことだ。

「確かにあれは依り代だったけど……。でも、それは友香に追い付くためのもので、もう追い付いたから今は友香に憑いているんだよ」

「ええーっ」

 なんかショックだわ。

 憑いている、憑いている、って夢月は簡単に言うけれど、生霊に取り憑かれているわけで、絶対に良い状況なわけがない。今のところ体に不調は出てはいないが、気持ち的には、嬉しいわけがない。というか、嬉しくない。

「強制的に友香から壮太を引き離すこともできるけど、それって除霊するってことだから、下手したら壮太は本当に死んじゃうかも。壮太が自分の体に戻って意識を回復させるのが、めでたしめでたしじゃん?」

「うん、そうだね」

「そのためには、壮太の気が済むように動いた方が良いんだよ」

「……分かった。行く」

 友香の膝の上に顎を乗せて伏せていた先詠が、スッと立ち上がった。

『霊の気が済むようにと言うが、無理のない範囲でな。できんものはできん。拒絶しても構わないんだぞ。人は欲深いからな。死んでもそれは変わらない。ひとつ我が通れば、もっと、もっとと欲張りだすかもしれない』

『先詠の言う通りだ』

 早季の傍らで寛いでいる朝霧が口を開く。

『そいつがそうだと言っているわけではないが、親切で接してやっても仇で返してくる輩もいる。気を付けることだ』

「早季ちゃんも行く?」

 それこそ日本人形のように、じっと黙って座っている早季に尋ねれば、本人が答えるより早く黒狼が大きく裂けた口を大きく開いて唸るように答えた。

『早季は行かぬ! 早季を面倒に巻き込むな!』

 いやいやいや! 早季ちゃんが黒いスニーカーを拾って来たよね? 巻き込むなも何もなくない? ――などと、牙剥き出しの妖狼相手に言えるわけがないので、黙っていることにする。

「さてと。私は夕食の支度をしよっかな。鶏肉、皮パリパリに焼くから、ちゃんと夕食の時間までには帰って来なさいね。わかった?」

「はいはーい」

 華月が応え、夢月と友香は揃ってソファから立ち上がった。


 ▽▲  ▽▲


 壮太のアパートは友香や夢月たちの通学範囲内にあった。

 華月の案内で例の踏切まで行くと、そこ渡り、商店街を突っ切って住宅街を進む。公園の横を通り、消防署の手前あたりで細い道に入った。

 すっかり辺りは暗く、商店街はともかく住宅街では、家々から漏れた明かりや外灯の明かりだけが頼りだ。そして、寒い。コートで覆えるところは良いが、剥き出しの顔は肌が切れるような冷たさだ。

「それにしても、瞬間移動って、ずるいですよね」

「どうしたの、友香ちゃん?」

「だって、玄関の引き戸を開けたら、階段の下だったじゃないですか。私、毎回、毎回、夢月の家にお邪魔するたびに、あの階段上って、あの長い参道を通っているんですよ」

「大変そうだね」

「ええ、すっごい大変なんですよ」

「俺、あの階段しばらく使ってないなぁ」

 かく言う華月は家を出る際に友香と夢月に手を繋ぐように言い、夢月の肩に手を置くと引き戸を開いたのだ。たったそれだけ。それだけで三人とも階段の下、一の鳥居の前に立っていたのだ。もう、びっくりである。

 けど、どうせ瞬間移動するのなら華月がさっきひとりで交番に行った時みたいに交番の近くに瞬間移動するとか、壮太のアパートに瞬間移動するとかできないものなのか。できたら、こうして歩く距離が減るではないか。

 そう聞くと、

「できないなぁ。まず行ったことのない場所にはいけない。だいたいあの辺だろうなぁとは分かっているんだけど、ちゃんと行ったことはないから壮太のアパートに瞬間移動することはできない。そして、重量オーバーだ。夢月はともかく、霊が取り憑いている状態の友香ちゃんも連れながらの瞬間移動は何が起こるか分からない」

 両手に米袋を持ちながら自転車を漕ぐようなものだそうだ。ぐらぐら運転をイメージして友香は納得する。

「うちの敷地内の移動なら慣れてるし、うちの結界の中だから大丈夫だけどね」

 塀に囲まれた細い道を行くと、今度は急に視界が開け、畑が広がる。

 季節がら畑には何も植えられておらず、だだ広い空き地のように見える。畑の脇にぽつりぽつりと外灯が立つ外、この辺りには他に明かりがない。ひとりではけして夜には歩きたくない場所だ。

 畑に沿うように細い道があって、その道を進んだ先に壮太のアパートがあるのだという。

 外灯の明かりに照らされて、そのアパートが目視できる距離まで近付いた時だった。華月が歩みを止めた。つられて友香と夢月も足を止め、そのアパートを見やった。

 ずいぶんと古い木造アパートだ。築六十年以上経っていそうだ。二階建てで、部屋数は多くない。各階に三部屋だ。

『そうそう。あそこが俺の家だ。一階の一番右の部屋』

 壮太の声が友香の肩の後ろの方から聞こえた。辺りが暗いせいか、先詠神社の結界の外だからなのか、壮太の姿は見え辛く、まるで電波の悪い画像みたいに、血色の悪い顔だけがぼんやりと掠れて見える。いかにも幽霊っぽい見え方だ。

「やめよう」

 華月が言った。

「今日は帰ろう。行くべきじゃない」

「にいちゃん?」

「寒い。帰るよ」

 言って、華月は踵を返した。来た道を引き返そうとしている。慌てた声が響いた。壮太だ。

『ここまで来て引き返すだって?』

 声に焦りと苛立ちが混じる。

『あそこなんだ。俺の家はあそこ。すぐそこなのに!』

「駄目だ。行けば、夕食に間に合わなくなる」

『は⁉ 夕食⁉ あそこまで行って、彼女に会うだけだ。そんなに時間はかからない』

 華月は首を横に振って、夢月と友香の肩を抱き、帰ろうと促す。

「俺はお前より美月との約束の方が大事だ。行けば夕食に間に合わなくなる。夕食の時間までに帰れと言われた。だから行かない。ここまでだ」

 きっぱりと言い放って華月は歩き出した。

 あと少しなのに、と友香でさえ思う。さぞ壮太はやるせないだろう。

 彼女に会いたい。彼女に自分の現状を伝えたい。自分が留守で彼女は戸惑うかもしれない。心配するかもしれない。不安がるかもしれない。そんな思いを彼女にさせたくない。

 壮太の思いが伝わってくるようで、友香は心苦しかった。

 けれど、華月が行かないと決め、夢月は何も言わずにそれに従っている。友香ひとりだけで、あのアパートに行くという選択肢があるだろうか?

(ない!)

 うん、まったくない。無理だもん。

 寒いし、暗いし、お腹が減ってきたし、早く帰りたい。

 生霊に取り憑かれている状態を早くなんとかしたい気持ちはやまやまだけど、先詠神社に戻れば先詠神社の結界の中で、しかも夢月たちがいる。生霊が何かしようとしてもできるわけがない。

(うん、ここは『帰る』の一択だわ)

 もう一度だけアパートの方を振り返ってから友香は帰路を歩き出した。

 街灯の明かりに照らされた古い木造アパート。それは人が暮らしているとは思えないほど静かに佇んでいる。

 後から気が付いたことだが、アパートの窓はひとつも明かりがついていなかった。




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