契約結婚だと聞いたので、喜んで独身時代のシュミを貫くことにした結果
「マリエンヌ、おまえにはもったいない話がきた」
ひさしぶりに呼びつけてきた父の口からこんな言葉が出てきて、まだわたしを片づけることをあきらめていなかったのかと、感心すると同時にちょっとげんなりした。
最近はめっきり小言も聞かなくなったから、とうとう根負けしてくれたかと思っていたのに。
そんなに駄目ですかね、伯爵家の娘が26にもなって婚約者すら決めずにのんべんだらりとしてるのって。
……まあ、駄目なんでしょうけど。
「いまさら、わたしをもらってくれる奇特な殿がたが見つかったんですか? ひょっとして、第三身分のかたとか、国内の貴族ではないとか?」
リュエール伯家のマリエンヌといえば、社交界に地雷令嬢としての評判が広まっているはずなのに。
べつに、大したことはしていない。
アカデミーの博士になることを希望して女であるのを理由に断られ、ならばとアカデミー主催の懸賞論文と懸賞発明コンテストに変名で応募して一等を獲って、副賞であったアカデミー会員任命式に堂々と登壇してやっただけだ。
渋りはじめたアカデミー委員をさんざっぱら論破して、正会員ではなく名誉会員というていではあったが、史上初の女性博士の称号を獲得した。
以降、向こうから縁談の声がかかってくることはなくなったのだが。
「先方とは直接面識があるけど、悪い人じゃないよ」
といったのは、同席していた弟のルシードだった。わたしが安心して好き放題を決め込めたのも、よい意味で不肖の弟がいるおかげだ。
「ルシードがそういうなら、わかった、結婚する」
「……話くらい聞きなさい」
「わたしにはもったいないんですよね? なら、いいじゃないですか。わたしはどっちでもかまいませんけど、断ったらもうつぎはないかもしれませんよ?」
渋面を深める父へ、わたしはぱたぱたと手を振ってみせる。
わたしはべつだん、父も嫌いなわけではない。ちょっと生まれたのが古くて頭が固いだけで、悪人でないことはわかっている。
娘が学術論文を書いたり化学実験をはじめたのを見て、「悪魔が取り憑いた」と悪霊祓師を呼ばなかっただけまだマシだ。
ルシードはわたしが欲しがった実験器具を、自分が使うといって集めてくれた、最初の理解者であり共犯である。
その弟が悪くないというなら、疑わなくていい。
「顔合わせの日取りは決めておくが、どういう話なのかはちゃんと確認しておきなさい」
父はため息をつくと、釣書をおいて席を立った。
いちおう、釣書を開いて先方のプロフィールを確認しつつ、ルシードからも「書面には記されていない」話を中心に、ひととおり聞いてみる。
・・・・・
……ひとことでいえば、わたしに打診されたのは「契約結婚」というやつであった。
お相手はランカーヴァン侯爵家の当主ジェスランさま。
国内有数の名門の上、財力では王家すらしのぐとうわさの大貴族である。
伯爵家としては平均中の平均、しかも地雷と名高い女に本来は舞い込んでくるような縁談じゃない。
まだ20代の若さであった奥方のエレノアさまが急逝なさったのは、ふた月ほど前のこと。
葬儀がすむなり、喪中だというのにおかまいなしで、後添えを娶るようにと各方面からの大攻勢がはじまったという。
そんな中でも、ランカーヴァン侯爵の地位と財産にかねてから狙いを定めていたのが、ジェスランさまからみれば叔父にあたる、クレルジェリー伯爵だ。
クレルジェリー伯の娘でありジェスランさまにとっては従姉妹であるクリスフィナさまは、現王の弟であるグノーシヴ公と結婚していたけれど、公は昨年亡くなっている。
お互い連れ合いに先立たれた、いとこどうしの再婚を猛プッシュするクレルジェリー伯に、王家も肩入れしてきて、このままでは断りきれない。
ここ最近借款の嵩んできた王家の狙いは、ランカーヴァン侯爵家の豊富な資産。クレルジェリー伯の狙いは、嫡流である兄の家の乗っ取り。
やっかいなタッグの誕生である。
ジェスランさまは、亡き愛妻エレノアさまの忘れ形見ロシュさまに侯爵家を継がせたい。
ところが、クリスフィナさまにはグノーシヴ公の血を引く遺児アンリさまがいる。
慣行としてはロシュさまのほうが継承順位が高いとはいえ、クレルジェリー伯と王家の狙いはあからさまだ。年齢は、ロシュさまが7歳なのに対しアンリさまは9歳。王家公認で横車を押されれば危ないだろう。
そこで、てきとうな弾除けの壁が必要になったというわけである。
……もしかして、父が渋い顔してたのって、そんなに乗り気じゃなかったから?
家格としては上からの「もったいない話」だけど、再婚なのが引っかかっていたのかな。
わたしがホイホイ首を縦に振るとは思ってなかったのかしら。
こっちとしては、初婚の生娘にやもめ男へ嫁げとはどういう了見だ、とかの文句はない。そもそも結婚したいとか思ってもいなかったし。
国内有数の大資産家、そのお飾りの妻なら、つまり、研究費用に困らない毎日が送れるってことでしょ?
いいじゃんいいじゃん。
「……姉さん、すごく悪い顔になってる」
話が進むにつれてわたしの目が爛々としてきているのに気づいて、ルシードはあきれ顔になった。もっとも、わたしが悪だくみを思いついたときの表情は見慣れたものだろう。
伯爵邸の一角に研究室を作ろうとしたときも、アカデミーに正面から入ろうとして拒絶され強行突破策を立案したときも、ルシードはあきれながらも止めはせず、わたしがお願いしたことには協力してくれた。
「だいじょうぶ、私利私欲が半分だから。かならずやロシュ坊やを継承者として確立してランカーヴァン侯爵家を守り、研究三昧の毎日を手に入れてみせるわ」
+++++
顔合わせ当日――
いつものひっつめ髪とメガネにリネンの白衣スタイルから、いちおうは貴族の娘らしく髪を結い、アフタヌーンドレス姿で都に出てきたわたしだったが、介添えのルシードが高貴オーラ出まくりですっかりかすんでいた。
ルーはわが弟ながらいい男なのだ。
サラサラの金髪に緑の眼、小顔で背が高くて肩幅は広いがゴツすぎず脚が長い。
わたしはといえば、弟に比べると髪の色はくすんでいて金髪といえるかどうかギリギリだし、顔はぱっとしないし背も高くなければグラマラスでもない。
あんまメガネ外したくないのよねえ。視力悪いわけじゃなくって、実験するときに溶液が目に飛び散るの防ぐ保護具でかけてるんだけど。メガネかけてれば、なんとなーく「それっぽく」見えるからさ。
指定のお店は都きっての高級カフェ。ルシードはどうやら以前にきたことがあるらしく、慣れた様子だったが、わたしはおっかなびっくりだ。
奥の個室に通されてまもなく、たぶんさきに到着していて、こちらが席につくのを待っていたのだろう、ランカーヴァン侯爵ジェスランさまがご登場なさった。
ルシードよりわずかに低いけどかなりの長身で、引き締まった体格。ほんのわずかに白いものが混じった黒髪で、目鼻は整っていて、温厚そうだけれど意思が固い感じ。おヒゲがおしゃれだ。
フロックコートより、法服や軍装が似合うかもしれない。ランカーヴァン侯爵家は武門の家柄じゃないけど、最高法務官は何度か務めているから、ジェスランさまも実際に法服姿になることはあるだろう。
そして、お父さまのとなりで姿勢をよくしているちいさな紳士。ロシュ坊やですね、かわいい。
「どうも、しばらくぶりですね、ジェスランさん」
「ルシードくん、このたびは骨を折ってくれて本当に礼をいうよ」
ルーの第一声のおかげで、あらたまった堅苦しい席、という空気はだいぶん薄まった。お見合いすら経験値ゼロだから、わたしとしては助かる。如才ない弟がいてくれてよかった。
慣れないカーテシーで、ごあいさつする。
「お初にお目にかかります、ランカーヴァン侯爵閣下。リュエール家のマリエンヌと申します」
「マリエンヌ嬢、あなたのご活躍はかねがね。ジェスランです。……こっちが」
「ロシュです、よろしくおねがいします」
「マリエンヌです、よろしくね、ロシュさま」
かわいさに顔がゆるむのが抑えられないから、開き直って腰をかがめ、にっこにこで握手したら、ロシュ坊やはごきげんななめのお顔になった。
「さまをつけるのは、やめてください」
「ごめんなさい。なんとお呼びしましょう?」
「ロシュでおねがいします。お継母さまなんて、失礼なことはいいませんから、マリエンヌお姉さま」
「小母ちゃんでいいわよお、マリエンヌ小母ちゃんで」
7歳にしてお口が上手なんだから、とほっこりして笑ってしまったが、ロシュ坊やは真剣な顔のまま、
「レディにそんな失礼なこと、ランカーヴァン家の男はぜったいに口にしません!」
と強く言い切った。
……うん、やられた。もう落ちたよこのチョロ女。ロシュきゅんと家族になるためなら、相手がオットセイやカバでも結婚するよ。ましてジェスランさまめっちゃいい男だし。
「本当に、あなたのような才女に、やもめ男が声をおかけするなど、わきまえのない話なのだが」
だなんて、ジェスランさまが遠慮深げにするのに、ぶんぶんと首を左右に振る。
「とんでもない。事情は弟から聞いています。ランカーヴァン侯家の家督と財産を守るのに、わたしでお役に立てるなら、よろこんで」
「ルシードくんも、あなたは相手が初婚かどうかにこだわることはないといって話を通してくれたが、しかし……」
「ぶしつけなお話ですけど、わたし、積極的に結婚したいという気は最初からなかったんです。端的に申しあげれば、研究をつづける基盤となる財務的保証がよそで見つからなかったら、ずっと実家にたかるつもりでいたくらいですから」
わたしは予定よりはるかに早く私利私欲をぶっちゃけた。研究環境さえ確保できるなら、わたしにそれ以上の要求はない。
「姉はずっとこんな調子です。わがリュエール伯家の資産では、すべての研究をサポートはできませんから、パトロンを引き継いでいただけるなら、こちらとしてもありがたいというわけでして。……まあ、ゆっくり座って、もうすこしお話をつづけましょうか」
ルシードが横から、苦笑しながらフォローになっているのかいないのかよくわからない口添えをしてくれた。
かたや成人ずみの姉弟、かたやナイスミドルの紳士とその息子さん、という一見みょうな組み合わせで、午後のティータイムがはじまった。
+++++
ジェスランさまとわたしの結婚は正式に決まった。
婚約は公表し、ジェスランさまの前妻エレノアさまの喪が明けるのを待って、盛大な結婚式を開くということで話がまとまった。
……わたしとしては、できれば地味婚がよかったけど。
婚約を周知して、服喪をすませ、多くの名士を招いた式を挙げる。これは偽装結婚ではないという、手の込んだ偽装だ。
国内社交界にとどまらず、周辺国にいたるまでランカーヴァン侯爵の再婚を大々的にアピールし、王家とクレルジェリー伯の動きを封じる必要がある、とルシードに説明され、ひっそりと後妻に収まる、というのはあきらめざるをえなかった。
ルシードが聞きつけてきたうわさによると、クレルジェリー伯たちは、ジェスランさまとクリスフィナさまがじつは初恋の仲であっただとか、先代ランカーヴァン侯が反対したためにそれぞれべつの相手と結婚することになっただとか、なかなかに白々しい嘘を広めようとしていたらしい。
しかし、喪中のうちに外堀を埋めておくというのは、作戦としてはけっこう上手いやりかただ。
愛妻家で知られていたジェスランさまが、エレノアさまが亡くなってすぐに、ほかの女に懸想するということは考えにくかったわけだし。
……ルーのやつ、クレルジェリー伯と王家の計画を一手で潰すとは、かなり策士だな。爽やかな顔して、なかなかの権謀術策を操るじゃないか。
父がもうひとつ浮かぬ顔をしていたのは、王家やクレルジェリー伯の心象を悪くする縁談に気乗りがしなかったから、というわけね。
まあ、わたしがこの結婚話を進めてもいいだろうと思ったのは、ほぼほぼロシュ坊やが動機だけど。かわいい。こんな継子なら何人いてもいいよ。
あと、ジェスランさまがわたしの研究分野に対して理解が深いってことが、お茶会の席でわかったから。
わたしが現在主に取り組んでいるのは、純粋物質、すなわち元素の単離だ。
この世のあらゆるものは、どんどん分解していくことができ、最終的には目に見えないちいさな粒になる。
粒の種類は、最低でも50、おそらくは100を超えるだろう。鉄や銅、金とか銀は、同じ種類の粒つぶが多数集まって、ぴかぴか輝くコインやメダルになっている。
とはいえ、たとえばキッチンの包丁の刃は鉄だけでできてはおらず、炭素とか、珪素とか、その他の元素が混ざっている。鉄の純度が高すぎると、柔らかくて刃物としてはあまり役に立たない。錬金術師は金を増殖させるために、鉛やその他の元素で嵩増しした。
ジェスランさまはそういう古典的な話にとどまらず、窒素やリンを投与すると植物の生育が良くなる、つまり農業振興ができるという面にも見識を持っていた。
肥料を施したり、耕地を休ませてウマゴヤシの種を蒔いたりするのは長年の経験則に基づいているが、具体的にどの元素を補えば作物がより育つのかがわかれば、効率を高めることができるのだ。
……と、いうわけで、わたしはまだ婚約期間中にも関わらず、ランカーヴァン侯の本邸にすっかり住み着いていた。
離れのうちのひとつを研究室として自由に使わせてもらっている上、まるまるひと棟新築中だ。わたしの要望を全部取り入れた、複数の実験室を備えた総合研究所として。
ここまでしてもらっちゃって、いいんですかね?
われながら厚かましい性格してるんで、遠慮してないわけですが。
アカデミーの新鋭、女だてらの博士マリエンヌに所領の振興につながる研究をさせようと接触したランカーヴァン侯は、その人柄にも惚れ込んで結婚することにした――というのが、世間体をつくろうためのカバーシナリオになっている。
建築現場で、職人さんたちへ向け、どうして床の水平を厳密にしてほしいのか説明をしていると、とてとてとロシュ坊やが走り寄ってきた。
「マリエンヌ姉さま、これはなに?」
ロシュ坊やが手にしているのは、そのちいさな手のひらからややはみ出すサイズの、尖った石だった。
石で作った槍の穂先のような感じだが、陽の光でちらちらと虹色に輝いている。
「お、ベレムナイトね。しかもオパール化してる」
「べれむないと?」
「大昔のイカの仲間よ。イカと違って殻があるから、死んでしまったあともこうやって残りやすいの。……どこで見つけたの?」
「向こうの崖の、白いところに。これはいつものと違ってきらきらしてたから、気になって」
ロシュ坊やが指差すさきは、なだらかな丘がつづくかなただ。見渡す限りランカーヴァン侯爵の土地であって、しかもここだけではない。あらためて大貴族さますっごいわ。
「へえ、白亜層あるんだ。アンモナイトとか、ほかの化石も出るかも。ちょっと掘ってみようか」
「掘るの?」
「ええ。ロシュは、雨が強めに降ったつぎの日なんかに、その崖の下を散歩すると、こういう石が落ちてることに前から気がついていたんでしょ?」
「……どうしてわかるの?」
「水の力で崖が削られて、中に埋まっていた化石が出てくるのよ」
わたしの説明に、ロシュ坊やの目は興味津々に光っていたけど、すこし考えて首をかしげた。
「……イカが、なんで崖の中に?」
「いいところに気がついたわね。じゃあ実際に掘りながら、考えてみようか」
この坊やには博物学の適性がある。というか、子供はたいてい不思議な石ころが好きなものだ。そこからいろんなことが発見できるとわかれば、がぜん楽しくなってくる。
たぶん、ジェスランさまは、わが子にあたらしい時代の知識を身につけてほしいとも思っているのだろう。わたしは次期侯爵の家庭教師としても期待されているはずだ。
職人さんの道具箱に便利なものがあるのに目をつけて、持ち前の図々しさでお訊ねする。
「ノミとハンマー、借りてもいいかしら?」
「いいっすよ、ひとつふたつなら」
「ありがとう」
2個ずつ発掘道具を借りて、ロシュ坊やの案内で白亜層が露出している崖へ。
陽がかたむくまで掘りまくって、大漁大漁と喜んでいたら、貸したものが返ってこないと、職人さんがお屋敷の庭師の案内で崖までやってきてしまった。……すみません。
ついでに戦利品を庭師さんと一緒に運んでもらいました。図々しくてホントすみません。
+++++
ロシュ(そろそろ「坊や」も他人行儀かな)は毎日いろんなことを質問してくれて、わたしのほうから課題や問題を考え出す必要はなかった。
ルシードとは歳が近かったので、姉弟というよりも、いたずら、悪だくみ仲間だったから、あたらしい弟ができたみたい。
……いやま、貴族の娘としてまっとうな結婚をしてたら、このくらいの齢ごろの子供がいても、ぜんぜんおかしくないんですけどね、ええ。
プリズムを太陽光に当てて何色に分かれるか虹の縞を数えたり(ブライトノーツのミューロン卿によると7色なんだけど、5か6しか見えない)、鉄を燃やすと重量が増えること(そしてガラスで密封すると閉鎖チャンバー全体では重量変化が起きない)を確認したり、鉄に希硫酸をかけると出てくる煙を集めて火を着け爆発させ(爆発のあとには水が残り、つまり煙は水素を含むということがわかる)たり、わたしとロシュでいろいろ実験をやって遊んだ。
半分くらいは、むかし、ルシードとふたりでやったことだけど、いまやっても楽しいわね。
こういう実験が単なる道楽ではないということを伝えるために、ミルクと果汁、はちみつでジェラートを作っておやつにしていたら、めずらしく実験室にジェスランさまがやってきた。
「失礼するよ」
「ちょうどいいタイミングですね。どうぞ、ジェスランさまもジェラート食べませんか」
「……これは、なんの実験かね?」
わたしから磁器のお皿と銀のスプーンを受け取ってひと口味見し、ほんとうにただのジェラートだったので、ジェスランさまは怪訝げな顔になった。
「氷に塩を混ぜると凝固点降下が生じて、より低温になるという実演です」
「なるほど」
バケツに入った氷と塩の混合物の上にホーローのボウルがおいてあるのを横目にそういったお父さまへ、ロシュが熱心にわたしのあとを引き取った。
「氷と塩があれば氷点以下の低温が作れると知っていても、そもそも氷がなければなにもできないでしょ? 知識を活用するには材料がないとはじまらない。マリエンヌ姉さまは、知識と実際の現象を結びつけて教えてくれます」
えへへ、そういわれると照れるな。そこまで大したこと考えてるわけでもないんですけどね。
ところが、意外なことにジェスランさまはこうおっしゃる。
「知っているとも。氷を作ったのは、マリエンヌ嬢の発明した機械だろう?」
「……ご存知だったのですか」
アカデミーの発明懸賞にわたしが提出したのが〈凍結機〉だ。減圧を利用して温度を下げ、金属管の上の水を氷にする装置で、原理としての評価はもらえたけど、実用化はされなかった。
山の氷を冬場のうちに切り出して氷室に積んでおけば、夏にシャーベットやらジェラートを欲しがるのは王侯貴族だけだし、需要は充分間に合うというのと、減圧するための溶媒が濃硫酸で、取り扱いに注意が必要なのがネックになった。
そんな出オチ発明のことを、ジェスランさまが知っていたとは。
「エレノアのことがなくても、あなたを科学者として招こうとはずっと考えていた。ルーシェン・マリオンが変名で、女性だということはずいぶん長いあいだ知らないでいたし、リュエール姓であると聞いたあとも、ルシードくんに訊ねるまでは、彼の実の姉上だとは思わなかったが」
「そうだったんですか」
ルシードに確認するまでは姉弟だと思われてなかったって、どういう意味かなあ。ジェスランさま、ルーとはけっこうつき合い長いみたいだけど。
きらっきらで貴族感満点のルシードから、姓が同じだけじゃ地味な化学マニア女は連想されませんでしたか。やっぱ似てないってことですかねえ……。
じゃっかん忸怩たるものを感じてジェラートを食べているうちに、大事なことを思い出した。そもそもこの磁器はジェスランさまから預かったものだが、食器として使うために受け取ったわけではないのだ。
「あ、そうだ。わかりましたよ、釉薬の成分と、焼成温度」
といいながら、自分のお皿をおいて、もうひとつとなりに並べる。
ジェラートが入っていたほうには、あざやかな赤と緑で鳥と亀が描かれている。こっちはホンモノの東洋伝来品で、鳥と亀はたぶんご当地の霊獣だろう。
もう1個にはへたっぴなバラが描いてある。まあ、作ったのわたしだからね、絵心には期待できないわけです。ただし色合いは同じだ。
ジェスランさまは、ふたつのお皿を見比べ、おどろいているようだった。
もちろん、わたしの絵の拙さに驚愕しているわけではなく、発色を見ているのだ。
「これまで50年も再現に成功していなかったものを、どうやってこんな短期間に……」
「彩度の高い顔料が褪色しない温度の限界が800℃くらいっていうのはわかってたので、その温度でちゃんとガラス質になりそうな成分を思いついた端から試しただけです。地合いのこの白さを出せる粘土を産出する場所を探した人のほうが、苦労したと思います」
土というのはところによって成分が色々異なる。たいていの粘土から食器に使える焼き物は作れるけど、見た目がきれいで硬くて頑丈に仕上がるもの、となると限られてくる。
最適な粘土探しに穴掘りからやれといわれたら、それはそれで嫌いじゃないんだけど、たぶんわたしだと途中で変なもの掘り出すたびにそっちに寄り道して、調査がはかどらなかっただろうな。
素焼きのあとに釉薬をかけて2度目は高温で焼き、それから絵付けをして最初とは別成分の釉薬をかけ、今度はやや低温で焼く。手順と各釉薬、顔料の成分のメモを渡すと、ジェスランさまは歎息をついた。
「これで、輸入に頼っていた高級磁器を国内で生産できる。西方圏で先行しているのはプロジャのメルゼンだが、この赤は本場のものとまったく同じに見える、メルゼン磁器以上だ。あなたは、本当に……天才だな」
「いえいえ、大したことはしてないです。科学の世界も最強の武器はお金ですから」
いやホント、研究費の暴力でねじ伏せただけなんで。預かった貴重な磁器を1個だけ叩き割って断面を顕微鏡で観察して、ガラス質の層で色彩層がはさまれてるのを確認してから、あとは成分総当りで色落ちしない完成品が出るまで実際に焼きまくっただけですから。
窯元が領内にあるからやれる力業である。たぶん300個くらい失敗作ができた。
これは実家にいたころじゃやれない。釉薬候補の試薬だってけっこういい値段するし。まして下焼きだけしてある高級磁器を大量調達して、実験のためだけに焼き窯占領するとか無理無理。
……なぜかジェスランさまが、色彩だけはすばらしいけどへっぽこなバラの描かれたお皿を両手で取りあげた。
「ところで、この皿、いただいてもいいかね?」
「見本としてですか? そんな情けないやつじゃなくて、お渡ししたメモで窯元の職人さんに作ってもらったほうが」
「いや、私が使う」
「え……」
やめてくださいよ、侯爵さまがそんな間抜けな絵皿使うなんて!
「そのお皿、ぼくがほしいと思ってたのに」
「ロシュまで……なに言い出すの」
ちょっとー、父子そろってわたしのヘタ絵を広めようとしないで!?
「……そうか、ではこれはロシュに譲ろう。マリエンヌ嬢、私のぶんも作ってもらえるかな?」
「見本にするのは、ちゃんと本職の人が作ったものにしてくださいよ?」
「あなたが発見したこの技法で作ったディナーウェアのセットを、結婚式の引出物にしよう。良い宣伝にもなる」
「……光栄です」
そういえば、このひとと結婚するんだっけ。
ロシュのお父さま、って感じで、なんか自分の旦那さまとしてはまったく実感ないなあ……。
+++++
エレノアさまの服喪明け、すなわちジェスランさまとわたしが結婚する日がだんだん近づいてきた。
ロシュとは完全に家族同然(母子じゃなくて歳の離れた姉弟としてだけど)になれたけど、ジェスランさまはわたしにとって完全にパトロン、スポンサーって感覚だ。
窒素とカリ、リン肥料を撒く畑と、比較用に従来通りの耕作をする畑を隣接する土地に用意してもらって、つぎの春小麦シーズンから実験するために、差が出ないよう、とりあえず両方よく鋤き返しておくように指示をしておいた。
ほかには新大陸の開拓団から送られてきた試金石と、川原で集めてもらった石っころを分析して、アタリの鉱山と、どの川の上流に眠った鉱脈がありそうかの予測を立てた。
うまくいけば、ランカーヴァン侯爵家のみならず、わがメロヴィグ王国全体の利益となる事業につながる。
アカデミー会員の椅子を利用してやるつもりだったことだけど、ジェスランさまのおかげで、ふたまわりばかり大きな話になったなあ。
……ま、わたしはロシュと半分遊びながらやってるだけなんだけどね。
新研究棟も建屋は完成し、実験施設の内部配管やらの工事がはじまっている。
順風満帆、と思っていたところへ、なぜか弟のルシードが訪ねてきた。しかも、いままで見たことのない険しい顔をして。
「ルー、なにかあったの?」
「姉さん、婚約を発表してから、社交界のパーティに出席してもいなければ、主催もしてないんだって?」
「侯爵邸での集まりは、各方面に何回か招待状出してるわよ? ……めっちゃ出席率悪かったけど」
喪中ですからね。華やかにパーティというわけにはいかない。実質わたしの研究成果の発表会だったわけで、アカデミーの関係者がいくらか出席してくれたけど、社交界の花形のお歴々はいらっしゃらなかった。
ルシードはため息をついて、都の最新ニュースを教えてくれた。
「マリエンヌ・デ・リュエールに関する、非常に悪いうわさが社交界に飛び交ってる」
「クレルジェリー伯が逆転をあきらめてないってこと? ……ジェスランさまから、そんな話聞いたことないんだけど」
ロシュといっしょに実験やら分析やら、領内ほっつき歩いて観察したり発掘したり採集したりしてるだけのわたしと違って、ジェスランさまはちゃんと王都へ出向いてお仕事してるのだ。夜会には出席していなくても、社交界のうわさくらいは耳に入ってきているはずなのだが。
やれやれ、とルシードは肩をすくめる。予想はできてた、という感じだ。
「あのひとは、ある意味姉さんと性格同じだから。小細工無用、結果と実績のみで語れっていうタイプ」
「そういえば、わたしのことも、お抱え科学者として見てるっぽいわ。ぜんぜんかまわないけど。……で、わたしの悪いうわさって、なに?」
ルシードはあきれた顔になったけど、質問には答えてくれた。
「マリエンヌ・デ・リュエールは、東洋人に自らの身を差し出して、磁器の発色の秘訣を聞き出したんだとさ」
「すごいわねわたし、語学まで堪能になっちゃった。社交界の地雷マリエンヌに不可能はない! ……いやー、自分のことなのに知らなかったわ」
東洋人とか見たこともないんですけど。まして東洋の言葉とかぜったいわかんない。
そもそも、わたしの色じかけで落ちる男性って、いないんじゃないでしょうか?
「笑ってる場合じゃないよ。モントールダムの貿易港近くの私娼窟で、マリエンヌによく似た後ろ姿を見た、だなんて、もっともらしい話をする人まで出てきてる」
「東洋人の船員が直接こっちの大陸の港までくることなんて、まずないってことくらい、わたしでも知ってるんだけど? しかも磁器の釉薬の配合知ってる職人が船乗りになる確率って、明日月が墜落してくるほうがまだありえるわよ?」
「うわさにとって、事実やら実現確率なんてものはどうでもいいんだよ」
あー、そういうことか。
あんまりにもバカバカしいから、ジェスランさまはわたしにうわさの話なんてしなかったわけね。ジェスランさまとわたしが同じ性格って意味がようやくわかったわ。
「その感じだと、なんかまだわたしの黒いうわさがありそうね」
「マリエンヌ・デ・リュエールは、媚薬を使ってランカーヴァン侯爵ジェスランを籠絡している」
「そんな便利な薬があったら、まずアカデミーの審査委員を落とすのに使ったわよ」
「ランカーヴァン侯爵の前妻エレノアの死にも、マリエンヌ・デ・リュエールが関与している」
「……そろそろ笑えなくなってきた」
「最初から笑えない」
ルシードはわたしの脳天気な態度に頭痛がするとばかり、額に手をやって髪をかきあげた。いちいち絵になるやつめ。
とはいえ、ランカーヴァン侯爵家本領でのほほんとしているあいだに、まずい状況になっているということは、さすがにわたしにもわかった。
ていうか、いまさらわたしが王都の社交界に顔出した程度じゃ、もう挽回不可能じゃない?
「……まいったわね。婚約破棄してもらえば、わたしの悪いうわさがジェスランさまやロシュの汚名にはならずにすむかしら?」
「それがクレルジェリー伯や、王家の狙いだよ。向こうの注文どおりにするの?」
言外に、姉さんらしくない、とルシードは含ませていた。……うーむ、ここでわたしが単に身を引いたら、リュエール家はだいぶまずいことになるか。
ルーはイケメン無罪というか、モテすぎで婚約者が定められないって状況だけど、悪評特盛りで実家差し戻しの娘を抱えたら、両親の老後は真っ暗だ。
わたしは、新大陸に移住して、薬屋なり爆薬調合師なりで、どうにでもなるけど。さすがに、狭いとはいえ先祖代々受け継いできた領地を捨ててついてこいとは、言いにくい。
「とりあえず、ジェスランさまとこの件に関して話すわ。汚名返上の機会があるかどうかは、考えてみる」
「ぼくらのことを気にする必要はないよ。ランカーヴァン侯爵家の資産がだれの手に渡るかで、メロヴィグの未来まで変わってくる話だから」
……ルシードがいっていることの意味は、このときのわたしにはわからなかった。
+++++
諮問会議に出席していて、1週間ほど侯爵邸を空けていたジェスランさまが帰ってきたところで、わたしはお部屋にうかがった。
「よくきてくれた、マリエンヌ嬢。あなたのほうから訪ねてきてくれるのは、はじめてだな」
……そういえば、そうでしたっけ。いやまあ、婚約者とはいえ、喪中の殿がたのお部屋をみだりにノックするものじゃないと思いますが。
ドアを開けたジェスランさまは、いままで見たことのない優しい笑顔で、3秒ほどわれを忘れて見とれてしまったけど、どうにか用件を思い出して頭を下げる。
「ランカーヴァン侯爵の妻となる身でありながら、しかるべき務めを怠っていたことをお詫び申しあげます」
「……いったい、なんの話だね?」
「先日、弟が訪ねてきて、王都で広まっているうわさについて話をしてくれました。ジェスランさまもお聞きおよびになっているとは思いますが」
やっぱりうわさ話には心当たりがあるようで、ジェスランさまはかぶりを振った。
「愚にもつかん話だよ。あなたは低俗なことにはつき合わなくていい。くだらない俗事にかかずらうことなく、自由な発想で実験や研究をしてもらうためにお招きしたのだから」
「それでしたら、わたしのことは、一学者、一研究員としてご招聘くださればよかったんです。後妻だなんて過分ですし、形だけでも侯爵夫人となれば、社交を無視するわけにもいきません。……いえ、さんざん無視して、弟が指摘してくれてようやく気がついた、わたしの落ち度です」
立派な研究棟をひとつまるごと建ててしまうなら、あたらしい私設学会を作るということにして、わたしはその一員で充分だった。
そりゃあ、家族あつかいと、お抱え学者の立場の違いだと、ロシュと毎日遊べるかどうかの差は出るだろうけど。
……と、ジェスランさまが唐突に動いた。いつも穏やかでゆったりとした所作だから、まったく予想していなくて。
「ジェスランさ……?!」
強く腕を取られたと思うや、一気に身体を引き寄せられ、つんのめりかかる間もなくジェスランさまの胸に衝突して、ちょっと平衡感覚を失いかけたら、ジェスランさまの顔が近……
こ、これは……いや、いちおうなにが起きているかはわかってるけど……
「……も、申しわけない……私は……なんということを……」
くちびるを離して、完全に狼狽しているジェスランさまがわたしを解放しようとしたけど、あわててこっちから手を伸ばして襟と袖をつかむ。
急に手を離すのやめて! 腰抜けました、あと酸欠!
「ひとりで……立ってられない……支えて」
「す、すまない」
ジェスランさまにすがりついた状態で、どうにか呼吸をととのえる。
……いや、ファーストキスで呼吸困難に陥るとか、なかなか斬新な体験ですな。動物には鼻があるって、本気で忘れてました。
「マリエンヌ嬢、本当に、申しわけ……」
「べつにいいですよ、イイワケとかなさらなくて。男性にはありますよね、ふいに衝動的になることって」
責める気はないので軽くいったつもりだったのだが、ジェスランさまがふたたび力を込めてわたしの両肩をつかんだ。
さすがにぴくっとなって顔を上げると、ジェスランさまが真剣な眼差しでこちらを見ている。
「私は、一時の気の迷いでこんなことをするほど落ち着きのない男ではないよ。私が愛したことのある女性はふたりしかいない。エレノアと、あなただけだ」
「わたしは、愛してもらえるほど魅力のある女では……」
目を泳がせながらいいかけると、また熱く口を塞がれた。
……これが、ジェスランさま流の「小細工無用、結果と実績だけで語れ」でしょうか?
あいにくと経験値ゼロなんで、判断材料がないんですよ。完落ちしかけてるのは自分でわかってるけどね。でもこれ、ジェスランさまみたいなイイ男がしかけたら、未通女は全滅するやつじゃん?
身体と心は全面的にやられてるけど、無駄な理性を脳裏に一片残しているわたしに対し、くちびるを再度離し、でも今度はちゃんと抱き寄せてくれたまま、ジェスランさまはゆっくりと話しはじめた。
「エレノアは最期に『ロシュには母親が必要だから、すぐに再婚すると約束して』と言い遺していった。私は承知こそしたが、エレノア以外の女性を愛することなどできるのか、自分を信じられなかった」
「だから、まずはロシュとの相性で決めようと思ったんですね」
「勧められるまま何人かと顔合わせをしたが、ロシュはだれにも心を開こうとしなかった。子育ての経験がない女性よりは、未亡人のほうがいいのかもしれないと一時は考えた。クリスフィナは候補に残っていたんだ、叔父が強引に押しつけてきたというばかりではない。……ルシードくんとは、チェスサロンで長いつき合いでね。子育てはしたことがないが、弟といたずらして遊び回るのに慣れている姉なら心当たりがあると」
「……なるほど」
ルーはさあ……もうちょっとこう、言いかたなかった?
「エレノアが急に倒れて棚ざらしになっていたが、ずっと招こうと思っていた、アカデミーの鬼才ルーシェン・マリオンことマリエンヌ・リュエールが彼の姉だということも聞いて、少なくとも、ロシュの教育係にはなってもらおうと思って、あなたと会うことに決めたんだ」
「それでしたら、あのときいきなり婚約まで話を進めなくてもよかったんじゃありませんか?」
「ロシュが初対面の相手にあれほど打ちとけるのを見たのは、はじめてだった。だからほとんど気持ちは固まっていたんだが、ルシードくんに、もし即決せず保留したら、あなたは侯爵お抱えの研究員という立場のほうが居心地がよいと判断するだろう、と駄目押しをされてね」
「……そうだったんですか」
さすがだなルー。わたしの考え全部読んでたか。
いわれてみれば、あのとき、ジェスランさまとルシードがそろって席を外したことが1回あったっけ。そのあいだにわたしはロシュと仲良くなってたわけだけど。
「こちらへやってきてからのあなたは、とても輝いていた。ロシュの疑問が尽きるまでずっと根気よく相手をしてくれるのもありがたかったし、なによりあなた自身の研究に打ち込んでいるとき、その成果を話してくれるときが、とても楽しそうで、美しかった」
「そうでしたか……?」
磁器の分析頼まれたときとか、新大陸から鉱物試料が届いてるの見つけてわたしに鑑別させてってお願いしたときとか、数えるほどしかジェスランさまとはその手の話ってしてないような。
……じつはけっこう盗み見してたんですか?
と、横道に逸れかかったわたしの思考だったが、ジェスランさまが抱き寄せていたわたしをすこし離し、手を握ってきたので顔を上げた。
ジェスランさまの目には、優しさと、固い意思が見て取れた。
「マリエンヌ嬢、あなたはくだらない社交界の旧習に囚われないでほしい。私はあなたにドレス姿を望んではいない。あなたは本来の自分自身のままでいていいんだ」
「ありがとうございます。……でも、わたしはもう以前の自分とは違います。ロシュと、ジェスランさま、あなたを愛している。名目上の偽の妻に収まるつもりはなくなりました、だれにもうしろ指は差させません」
またまた、わたしたちはお互いのくちびるを塞いだ。はじめてからものの5分で3度目は、ちょっとはしたないか?
……さて、そうはいっても、いまから社交界にわたしを侯爵夫人として認めさせるのは容易じゃない。結婚式までの日にちもあんまり残ってないし、ジェスランさまとルシードの人脈に頼って各種会合に顔を出し、ひとりひとり印象を書き換えていたんじゃ間に合わないだろう。
それに、地道に根回しするってのは「らしく」ないよね。
+++++
盛装して王都の夜会へ出かけたりはせず、あいかわらずロシュといっしょに実験やったり動植物の観察したりしながら、ただし、中央の政界や社交界のニュースは毎日チェックするようにしていたら、ひとつ気になる情報が目にとまった。
太后殿下――つまり現王シャール9世の母上である、イザベルさまの体調がすぐれないという。
王室のかたの病状は早々漏れてこないけど、伝聞やらを集めてみた感じ……たぶん胆石だな。手術で胆嚢ごと取っちゃえばそんなに予後も悪くならずにすむと思うんだけど、黄疸らしき症状も出てるみたいだし、放置しておくとまずいかも。
半分は、わたしの個人的名声をどん底から一撃で吹き上げさせようってゲス根性だけど、ちょっくらお節介をしましょうか。
新研究棟は一部使えるようになったので、目当ての物質を調達するのに前ほど苦労はしなくてすむ。
ジェスランさまを呼んで、イザベルさまの侍医にアポイントメントを取ってほしいと頼むついでに、実演をすることにした。
「王家に召し抱えられている医師であれば、胆嚢切除の手術自体はできるはずです」
「太后殿下の不予は陛下も心を痛めておいでだ。だが、手術に踏み切る決断はできかねているようでね」
「手術の苦痛を和らげる方法があります。こちらをごらんください」
実験台の上には、ちいさなカゴに収まったマウスが1匹。さっき作った液体をビーカーに注いでカゴのとなりに置き、ガラスのドームを被せると……
カゴの中で鼻と耳をひくひくさせながら動き回っていたマウスが、だんだんおとなしくなり、ついに全身から力が抜けて眠り込んだ。ビーカーの中身は、揮発性が高くて麻酔性がある。エーテルというやつだ。
ガラスドームをはずしてマウスをつっつくと、しばらく無反応だったが、じきにむずむずと動きはじめた。目を覚ましたマウスにヒマワリの種を与えると、よろこんでかじりつく。
「このとおり、効果中は外部からの刺激にほぼ感応しなくなり、副作用も軽微です。人間の場合、マウスよりも大量に吸引させる必要がありますし、手術の途中で麻酔が切れてしまわないように継続的に投与しないといけませんが」
「すばらしい。ただ……じつは侍医団は手術を勧めているのだが、渋っているのが陛下と王妃でね。医者はネズミで実験をしてみせれば理解できると思うが」
「人間で実演すれば納得してくれそうなら、わたしがやりますけど」
なんだ、大した問題じゃないな、と思ったら、横から意外な声が飛んできた。ロシュだ。
「実験台ならぼくが」
「……え、いや、それは」
「危険なことはないんでしょう。ぼくはマリエンヌ姉さまのこと信じる」
「まあ、そんなに危なくはないけど……」
自分でやるのはぜんぜん抵抗ないんだけど、ロシュを実験台にするのは……。
エーテルの危険は、人体に対する毒性よりも、引火性がめちゃ高いって部分が大きいから、わたし自身が吸い込んで寝ちゃうより、起きてて管理できたほうがいいのはたしかだけど。
わたしがしりごみしているうちに、ジェスランさまはわが子の肩に手をおいていた。
「ロシュ、頼まれてくれるか」
「はい」
「……ジェスランさま」
「ロシュに自信を持って使えない薬を、太后殿下に使うわけにはいかないだろう」
……まあ、おっしゃるとおりですね。
+++++
ジェスランさまも王都に同行してくれて、話はすぐに進んだ。イザベルさまの病状は芳しくないというのが、事情を知る人のあいだでは共通認識だったらしい。
わたしはアカデミーの王都にある施設を借りて、必要になる物質を3種生成した。酸素と、亜酸化窒素と、エーテル。
エーテル以外は気体だから、金属製の容器にポンプで圧力をかけながら詰め込んだ。エーテルも揮発させた蒸気を吸わせることになるんだけど、気体の状態だと危険性が増すからビンに密閉した状態で運んで、使うときに蒸散させる必要がある。
ロシュが志願してくれた、国王陛下臨席の麻酔実験は無事に成功し、自然の眠りより深く手術の苦痛を感じないであろう(もちろん眠っているロシュをメスで切らせるなんてさせなかったから、あくまで「あろう」だ)こと、事後に後遺症がないことを関係者一同に納得させることができた。
手術本番では、イザベル太后にまず鎮静効果のある亜酸化窒素(「窒素」の名のとおりこれだけを吸わせると窒息してしまうので酸素も忘れずに)を吸引させ、つづいてやや濃度の濃いエーテルで眠ってもらってから、酸素とエーテルの混合気を供給した。
役に立ったのが、気体を漏らすことなく、かつ柔軟なゴム製の管だ。南洋の植物の樹液が材料だって話だけど、ゴムってほんとに便利よね。いつもの実験でも圧力調整に欠かせない。
とにかくも、手術は無事に終わった。
術中は痛みを感じなかったといっても、お腹をさっくり切られたことには変わりないわけで、目を覚ましたイザベルさまに亜酸化窒素を吸わせるよう、足りなくなったらアカデミーに連絡すれば作りかたを知っている人がいると侍従団に教えて、わたしはジェスランさまとロシュとともに王都のランカーヴァン侯邸に引きあげた。
真に称賛されるべきなのは、出血を最小限に抑えながら胆嚢を摘出した侍医長ベルトロ卿だろう。狙いどおり、王室の大恩人として一夜で悪評を全部払拭したわたしがいうのもなんですが。
・・・・・
……こうして、稀代の悪女の風評は一変、世紀の才女として全国区の知名度を獲得したわたしは、めでたくジェスランさまと結婚式を挙げ、婚約者から正式にランカーヴァン侯爵夫人となったわけだけど、結果として、王朝を変えながら1300年続いたメロヴィグ王国が崩壊するきっかけを作ることになった。
当初の狙いであったランカーヴァン侯家の資産を接収し損なったことで、王国政府の財政破綻は不可避の情勢となったのだ。
そもそも、海峡をはさんだ隣国ブライトノーツと世界各地で覇権争いを繰り広げていたメロヴィグの財務は、慢性的に赤字体質であった。
意地と面子でブライトノーツに突っかかっては、3度に2回は負けていたのである。戦費に加えて賠償やらが嵩む上に、せっかくの海外領土を割譲して税収まで減ってと、いいとこなしだ。
海外進出の前に、国内の非効率な行政や産業を改善すべきだった……というほど単純でもないけど。
新天地からもたらされた物品によって発展が可能になった分野があるのも事実だし。現にわたしのシュミの化学だって、ゴムのように便利なものがなかったら、気体の単離なんて発想自体が出てこなかっただろう。
ものごとの変化というのは、複合的、多分野横断的に進むものなのだ。
社会構造やら、政治体制も、学問や技術、産業、経済の変化と無縁ではいられない。
……しかし、ジェスランさまとわたしを引き合わせたルシードの真の目的が、ランカーヴァン侯爵家の莫大な資産を保持させることで、間接的に王家と門閥貴族の支配力を弱めることにあったとは思わなかった。
ルー、おそろしい子!
本人いわく、免税特権を廃し、不公正な課税負担を是正させるのが目的で、王政の打倒がしたかったわけではない、そうだが。
だが、ひっくり返ったコップのミルクが戻ることはないのである。
議論百出、まとまらなかった財政再建と税負担割合の論争は、革命騒ぎにつながり、もと王国軍の天才将校バルトポルテによって事態が収拾されるまで、メロヴィグは迷走を重ね、新体制生みの苦しみに煩悶するのであった。
そんな、母国の混乱を、わたしたちは大海をへだてた新大陸から眺めることになった。
ジェスランさまは、招集された議会が空転するばかりなのを見て取った時点で、権力と課税をめぐる綱引きが実力行使にエスカレーションすると察し、メロヴィグ本国に早々に見切りをつけたのである。
新大陸のヌーヴェルメロヴィグ、クェベーラ郡に大きな地所を持っていたブルジョワ商ガルバーニに大胆な取引を持ちかけて、本国のランカーヴァン侯爵領と交換し、ロシュとわたしに多くの使用人たち、はては移住を希望した領民たちまで連れて西太洋を渡ったのだ。
ヌーヴェルメロヴィグはさきの戦争の講和条約でブライトノーツに割譲されていて、もうメロヴィグ王国の一部ではなかったが、メロヴィグ人によって拓かれたクェベーラは広範な自治権を認められている。
むしろ、メロヴィグの統治がおよばないことで、本国の政治情勢に左右されない、安定した生活基盤を得られると読んだジェスランさまの慧眼には、感服しかない。
……ガルバーニさんはちょっと気の毒だけど。
メロヴィグを離れて6年、ロシュは16歳になり、ジェスランさまとのあいだにはふたりの娘に恵まれた。お腹の中に3人目がいる。
新築の研究棟を3年弱しか使えなかったのはもったいなかったが、もちろん、研究はいまもつづけている。
最新の発見である「電気」の力は、それまではこれ以上分解できないと思われていたものをさらに細かくして、複数の元素の存在を明らかにしてくれた。
いまわたしは、バルトポルテ新皇帝政府から、混乱期に解散させられていたアカデミーを再興したいという相談を受けている。
身重だからいますぐというわけにはいかないけど、ひさしぶりにメロヴィグへ戻って、革命を生きのびたアカデミーの先生がたに会ったり、両親やルシードと顔を合わせるのもいいな。
「マリエンヌ、またみょうな石が届いているが、きみの注文かね?」
「ジェスランさま、ありがとうございます。面白いものが見つかりそうなところなんですよ」
おしまい
18世紀は前半後半でまるっと雰囲気変わるんですよね。
地球とはべつの世界なので真面目な考察はしていませんが、いちおう1780以降設定です。
それでもマリエンヌは半世紀前後さきの化学を使いこなすチートキャラですが。ラストでやろうとしてるのはアルミニウムの単離です。