2-1 ちょっと待てぃ
2章が始まります。二人の距離が徐々に近づいていきます。
自由な校風を売りにする学校は、僕たちの通うところ以外にもたくさんあるだろう。でも、お昼休みは外食もOKという学校はそこまで多くないはずだ。高校のすぐ近くには、学生の財布にも優しい値段設定のファミレスや牛丼屋があり、そこでお昼をとる生徒も少なからずいる。
家が近い生徒ならば、一旦帰ってご飯を食べるというケースもあった。具体例を挙げるならば聖だ。萌波と交際を始めてからは、お昼のチャイムが鳴ると駆け足で小宮家まで走って、引きこもり中の彼女とお昼を食べている。その間、兄の監視の目がなくなるわけで、何も起きないよう二人の良識を信じるほかなかった。
「やっほ、真本さん」
「……」
僕はというと、早起きして作ったお弁当を持ってプール裏に来ていた。毎度のごとく、大きな木の影に座って真本さんが飴を舐めている。読書中のようで、チラリとこっちを見ると、すぐに物語の世界に入っていった。読書に集中するためか、ヘッドホンは首にかけたままだ。駅近くにある本屋の茶色いブックカバーがかけられており、なにを読んでいるのかわからない。
「なんの本を読んでいるの?」
「胎児よ胎児よ何故踊る」
「……ドグラ・マグラ?」
女子高生がお昼休みに読むような小説じゃなかった。もしかして目が死んでいるのは、これを読んだからじゃないのかな。
「イッツア冗談。恋愛体質で人を好きになることに疲れたOL土倉さんと、水族館のクラゲ以外に興味を持てない男子高校生真倉くんの恋愛小説です」
「ドクラ・マクラだ」
登場人物の名前を考えるのは大変な作業だと思うが、読めば精神に異常をきたすと評判の奇書のタイトルを、あらすじを聞くだけで切なそうな展開が想像できる年の差カップルの恋愛小説に引用するのは、いかがなものだろうか。
「この前教室に行ったのはやはり悪手でしたね。校門で待つなりすればよかった」
「えっ?」
キリがいいところまで読んだのか、栞もせずに本を閉じて飴を口から取り出すと、光のない瞳で僕を見る。舐めていた飴は赤色、いちご味かりんご味かのどちらかだろう。
「噂のことです。小宮くんも巻き込まれましたから」
袋の中から飴を取り出し、僕に渡す。お詫びのつもりなのだろうか。青紫色の袋は、グレープ味だ。
「ああ、そのこと」
真本さんと関わるようになったのは、ついこないだのことだ。しかし僕に会いに教室まで来たことがきっかけになり、真本さんにまつわるよくない噂の登場人物として、小宮海智の名前がクレジットされてしまった。
真本さんが『小宮は真本に騙されている』とか、その逆に『真本は小宮に脅されている』だとか、よくもまぁ好き放題言えるものだと感心してしまう。一年の頃から同じクラスでそれなりに仲良くしていた友達も、若干僕に距離を置き始めた。今まで聖の幼馴染でしかなかった僕は、噂の悪女にたぶらかされた愚か者か、弱みを握って好き放題する畜生になってしまったのだ。
「今ならまだ、引き返せますよ。私なんかと関わっても」
「ブッブー、アウトでーす。私なんかって言ったよね」
「あっ」
息を吸うように自分を卑下する真本さんに、不正解ボタンを押す。確かに真本さんと関わってしまったことで、僕の評判は落ちたのかもしれない。でもそれくらいで落ちる評判なら、別になくたって構わない。
「謙遜は和の心から生まれた美徳かもしれない。でも、度が過ぎるとかえって失礼ってものだよ」
彼女の過去になにがあったのか、僕は噂でしか知らない。ただ、そこから生まれた後悔や罪悪感が、今の彼女を構成しているのは火を見るよりも明らかだ。
罪を憎んで、人を憎まず──。そんな言葉、妹をいじめていた連中の前で叫ぶことはできなかった。一生いじめたことを後悔しろ、苦しみ続けろと、きっと死ぬまで呪い続けるのだろう。
なのに僕の目の前にいる、誰かに呪われ続けている彼女に、手を差し伸べたいとも思ってしまう。こんなの、ダブルスタンダードもいいところだ。前向きなヒーローになれる自己暗示を重ねがけしても、気分が悪くなる。
でもそれが、小宮海智という主人公志望なのだから、仕方ない。
「やっぱり小宮くん、変わっていますね」
「あはは、自分ではキングオブ普通という自覚があるんだけどね。っと、急いでお昼食べないと」
五時間目の授業は移動教室なので、余裕を持って教室に戻らなくちゃいけない。さっきの授業で分からなかったところを先生に質問していたため、なおさら時間がない。でもお昼を食べないと、授業中に虫が鳴いて恥ずかしい思いをしてしまう。音楽の授業ならごまかしが効くかもしれないが、静かな書道室じゃいいわけができなかった。
「真本さんはもう食べ終わったの?」
「いえ、今食べているところです」
そう言って、新しい飴を口の中に入れ……。
「ちょっと待てぃ!?」
真本さんの頭の上に、クエスチョンマークが浮かび上がる。同時に、僕の頭の上にも、クエスチョンマークが三つくらい浮かび上がるのだった。