5-22 君が好き
ずっと、この人の本当の笑顔を見たかった。だから僕は僕の人生の主人公になろうとした。
「空音さんの本当の笑顔を、見たかったんです。ほんの少しだけですが、叶いました」
笑いがこぼれたのは流れ星が落ちたみたいに一瞬だけだ。でもまだ足りない。もっともっと、この人が持っているたくさんの表情を見てみたい。その度に僕は、この人のことが好きになるんだろうな。
「本当に、小宮くんといたら……調子が狂いっぱなしですっ。どうしてくれるんですか、もう……会わないって決めたのに……揺らいでいる自分が、嫌いです」
空音さんは僕の胸に顔を埋めて呟く。彼女の背中をさすって、落ち着くのを待つ。小さな風が吹くと、彼女の甘い香りが優しく鼻腔をくすぐった。
「僕はそんな空音さんも含めて、好きになったんだよ」
「……ありがとう、ございます。小宮くんの気持ちはとても嬉しいです。あなたが恋人になったなら、きっと楽しいんだろうって、そんな気はします」
今まで通りお昼ご飯を食べたり、公園を根城にしている猫に会いに行ったり、二人で流行りの曲をハミングしたり。手のひらサイズのささやかな幸せを共有して、笑い合えたならば。なんら特別な事件が起きなくとも、空音さんが隣にいるならば、それだけで十分だ。顔を胸から離して僕を見上げる。眼鏡の奥の潤んだ瞳と目が合う。
「でも、ごめんなさい。今の私には、誰かを好きになる勇気はまだ、ありません」
「……あはは、そっか」
だけど、そう簡単に人と人の関係性は変わってくれたりしない。今のままでも心地のいい距離感だ。そこから先に行って、彼女は一度失敗をしてしまっている。好きになった人を裏切り、それ相応の因果応報を受けた空音さんにとって、また誰かを好きになることはハードルが高い。
赤い夕日に照らされた彼女の横顔を見ていると、胸の奥がきゅっと締め付けられる。でも、気持ちを伝えられないままでいるよりかは、よっぽどいい。不思議と爽快感すら覚えていた。聖に告白した女の子たちも、同じ気持ちだったのかな。今度こはるちゃんと、残念会でもしようかな。そうやって自己完結していると、空音さんが意を決したように息を吐く。そして、僕の瞳を捉えて続ける。
「だから……少しだけ、待っていてください」
「! 空音さん、それって」
「胸を張って小宮くんの好きを受け止められる日が来るように、私も努力をします。それが答えじゃ……ダメでしょうか」
「待つよ、いつまでも」
いや、それだけじゃダメだ。空音さんが勇気を持てないのは、今の僕は過去の後悔を一緒に乗り越えるにふさわしくないからだ。僕自身も変わらなければ。もっと強くなって、空音さんの隣に立っても恥ずかしくないようにならないと。
「空音さんが安心できるような男に、僕はなります。そのとき、もう一度……好きだと伝えます。だから、覚悟をしていてください。例えポッと出の誰かに空音さんが恋をしたとしても、僕はこの気持ちを貫いてみせますから」
彼女の人生においてポッと出なのは僕なのに、随分な言い草だ。変に強気な発言をするものだから、空音さんもおかしくなってまた笑う。
「最初に見たときは、こんな人とは思いませんでしたよ。小宮くんは……彼とは違う、かもしれませんね」
呆れたように、それでいて少し嬉しそうな声色だ。火照った瞼を拭いて、柔らかく笑ってみせる。やっぱり、この人は笑顔が素敵だ。大切なものも捨ててしまって空っぽになった彼女に、少しでもなにかを注ぐことができたのかな。
「空音さん。もう一つ、一緒に来てほしい場所があるんだ」
夕焼け小焼けのチャイムが鳴って、それに合わせてカラスが歌う。頭にはてなマークを浮かべる彼女を連れて、僕は公園を出て駅まで向かうのだった。
「ここは?」
「入ってみてのお楽しみだよ」
駅前にある古いビルの二階の一室。そこは一見すると怪しげな事務所に見える。扉を開けると、中は真っ暗で何も見えない。カーテンも締め切っており、光がまったくない。
「小宮くん? これは一体」
「ハッピーバースデー!!」
「きゃぁ!?」
暗闇を裂くように、底抜けに明るい声が重なる。同時に大きな破裂音が響き、空音さんは驚きのあまり尻餅をついた。同時に明かりがつくと、色とりどりのテープが空音さんに降っていた。
「えっ、ええ!?」
状況を読み込めない空音さんは、園児が持ったカスタネットのように瞬きを繰り返す。『ドッキリ大成功!』と書かれたお手製の看板を持つ萌波を見ても、イマイチ状況が読めていないらしい。困惑しきった彼女の前にみんなが集まってくる。萌波、聖、こはるちゃん、若田部くん、都丸さん。空音さんを驚かせることができて、揃ってニヤニヤと笑っている。
「サプライズよサプライズ。今日は誕生日でしょ? それとも、フラッシュモブでも用意すればよかった?」
「い、いえ……結構です……って誕生日? 誰のですか?」
キョトンとした目をして空音さんが尋ねる。
「誰のって、あなたの誕生日に決まっているでしょ? 八月一三日。ビッチコック? とかいう人と同じ誕生日って聞いたわよ」
「ビッチじゃなくてヒッチだバカタレ。大量の鳥に襲われて目ん玉をつつかれてしまえ」
「かー! ほんと揚げ足取るの好きよねあんた! サイコウにムカつく!」
「お、お二方ぁ! ケンカはやめてくださいっ! 平和が一番ですっ……ああもう! 絞めますよっ!?」
メンチを切って火花を散らし合う従兄妹コンビをこはるちゃんが仲裁しようとするも、落ち着く様子のない二人にしびれを切らして柔道の構えを取ってしまう。
「みんな騒ぎすぎだよー? そんなんじゃケーキはなしにするからね?」
ダメダメな先輩たちを見たせいか、最年少の萌波が一番しっかりいているまであった。甘いものが嫌いな人はそういない。戦闘態勢に入っていた三人もおとなしくなった。
「ほら。いつまで座ってるんだ……っと悪い、その役目はお前さんだな」
からかうように笑う聖をスルーして、空音さんの手を取り立ち上がらせる。そして彼女は、思いもよらぬことを言うのだった。
「あの、みなさん。その、非常に言い辛いのですが……私、誕生日は今日じゃないですよ」
「……は?」
淡々と述べられた爆弾発言によって、途端にお祝いムードが静まってしまう。この寒さは冷房のせいだけじゃない。
「い、いや空音さん? ヒッチコックと同じ誕生日なんだよね? だと今日が誕生日で」
「……」
「え? あれ? もしかして僕の勘違い……?」
「ちょ、ちょっと! サプライズバースデーで日付を間違えたとか最悪じゃない!」
慌ててスマホでヒッチコックの誕生日を調べようとすると、メッセージ通知が届いていた。
『イッツア冗談』
空音さんを見ると、舌をペロリと出して笑っていた。ほんと、この人には敵わないや。