5-21 最低の僕ら
「はぁ、はぁ……こんなところまで連れてきて、なんだって言うんですか……」
どれほど走っただろうか。僕たちは小さな公園のベンチに座っていた。それなりの距離があったはずなのに、そこまで息を切らしていないのは毎朝のジョギングのおかげだろう。手錠をつけているように、僕は空音さんの手を離さないでいる。
「小宮くんが強情で頑固なのはわかってはいましたが、これほどまでとは思っていませんでした。誘拐ですよ、これ」
「でも空音さんは、振りほどかなかったじゃない」
「それは」
なんなら助けだって呼べたはずだ。怖くて声が出せなくなるなんて性格じゃないことは僕もよくわかっている。ここまで来たのは僕だけじゃない、彼女の意思も確かにあるんだ。
「ニヤついちゃって。論破したつもりですか?」
「どれだけいやらしい顔しているのさ」
「自販機の下から五〇〇円玉を見つけたみたいな顔です」
「それはニヤつかない方が無理じゃない?」
そんなつもりはこれっぽっちもない。ニヤついているのは、空音さんとまたこうやって話すことが出来たからだ。決して彼女の手の感触が柔らかかったからとか、そういうわけではない。断じてない。
「手、離してくれないんですね」
「どこかに行ってしまうかもしれないからね」
今彼女を繋ぎ止めることができるのは僕の手だけだ。日焼けをしていない、雪のような白い手だ。奇跡は二度も起きないって、僕だってわかっている。風船を手放したくない子供のように、ギュッと強めに握った。
「……あの時小宮くんに飴をあげたりしなかったら、こんなことにならなかったのに」
「そうだね。あれが僕と空音さんの出会いだった」
空音さんとのファーストコンタクトは、多分死ぬまで忘れることはないだろう。もし彼女とあの場所で出会うことがなかったならば、僕は主人公になろうだなんて思いもしなかった。そう考えたら、僕も上尾くんと同じなんだろうな。簡単に乗り越えられるデッドラインを超えたかどうかの違いでしかないんだ。
「どんな後悔を抱いているのか、僕には理解しようがないかもしれない。でもね、僕は空音さんと出会ったことをこれっぽっちも後悔していません。あなたがいたから、僕の世界は広がったんです」
脇役人生が灰色だったとは言わない。わがままだけどかわいい妹と、気の合う幼馴染がいたから、空の青さも雲の白さも知っていた。狭い世界でも十分といえば十分だった。二人が恋人同士になったその瞬間までは。兄と妹、幼馴染という切り取れない関係だからこそ、僕は部外者になりきれなかった。狭い世界にあるのは、外からしか開かない扉だけ。僕はずっと主演男優横尾聖と主演女優小宮萌波のエピローグの中で、二人に甘え続けていただろう。
もしかすると、この狭い世界から、連れ出してくれる誰かがいることを望んでいたのかもしれない。そして僕の前にはちみつ色の髪をした彼女がやってきた。こうして僕は主演男優への一歩を踏み出すことができた。まだまだ頼りないし、逆立ちしたって聖みたいになることはできない。だから僕は僕の物語を描いていく。迷惑だと言われたとしても、ハッピーエンドで終わらせたい。
「空音さんはどうなの。本当に、僕と出会って後悔しましたか?」
「後悔しかありませんよ……! あまりにも軽率だったと、恥ずかしいくらいです!」
僕の手を振り解き、苦しそうに声をしぼりだす。同時にまたしても涙が光った。さっきよりも大粒の雫が地面にこぼれる。
「小宮くんに出会わなかったら、こんな思いをしないで済んだんです! どん底でひっそりしていたら良かったのに! あなたが小さな希望をくれたから……! 私なんかにも、居場所があるんだって! そう思っちゃったんじゃないですか! 悪女は悪女らしく惨めにいさせてくださいよぉ……! 罰を与えさせてくださ……い」
空音さんを抑えていた堰が壊れて、剥き出しの感情がどっと溢れ出す。もうイッツア冗談じゃ誤魔化しきれない。本心を曝して、血を吐きそうなまでの慟哭をあげる彼女を僕は抱きしめていた。
「私なんかはダメだよ。自分の価値を下げないでよ。僕が好きになった人は、今ここにいる真本空音さんなんだから。そんな後ろ向きにならないでほしい。好きな子が、自分で自分を傷つけるのは見たくないよ」
細く、少しでも力を入れてしまうと壊れてしまいそうな身体から、確かな温もりが伝わる。僕の心音は伝わっているだろうか。今にも爆発してしまうんじゃないかってくらいにバクバクしている。全力で、寿命を削っている。三日、四日分くらい使い果たしてしまいそうだ。
「これ以上、優しい言葉をかけないでください……! 私を好きになっちゃいけないんです! 大切だった人を裏切った最低の悪女なんですよ!」
泣き叫ぶ空音さんは、駄々っ子のように腕の中で暴れる。それでも離してやるもんか。あなたが最低だと言うならば、僕はもっと最低だ。
「それがなんだっていうのさ。僕だって、妹がいじめを受けていたのに、なにもできなかった。最低のお兄ちゃんだよ」
「私は彼氏がいるのに違う人とラブホテルに行ったんです! 私の方が最低です!」
「そ、それなら! 僕は小学校のとき、夏休みの工作を父さんに作ってもらったのに、県の賞を受賞したよ! 親の力で得た県知事賞で周りにマウントを取ったんだよ! 最低じゃないか!」
「わ、私だっておばあちゃんの仏壇に供えられていたお菓子をつまみ食いしたんです! イッツア最低じゃないですか! 死者への冒涜ですよ!」
「その程度で最低だなんてちゃんちゃらおかしいよ! 僕は……あれ?」
いつの間にやらどちらが下かを決める天下一最低武闘会になっていた。しかも内容はしょうもないものだ。さっきまでひりつくような空気だったのに、お笑い芸人が取り憑いたように大喜利タイムになった。くだらなくなって吹き出してしまう。空音さんもクスッと笑っていた。
「やっと、心から笑ってくれた」
「えっ?」
全てを諦めた空っぽな微笑みじゃない。心の中に溜め込んでいた怒りと哀しみが全て流されたとき、残っているものは喜びと楽しみ。まるでパンドラの箱だ。ハートの奥からこぼれた、温かな笑みだった。