5-20 SOS
神部西少年少女合唱団希望のコンサートは、今年で三〇回目を迎える歴史のあるコンサートだ。夏に行われるのだからサマーコンサートでもいい気がするが、希望のとつけているのにはなんらかの理由があるのだろう。なんにせよ、文字通り僕にとっての希望であることは確かなのだから。
「空音さん、いるかな……」
開場の一時間も前にホールについた僕は、暑い日差しの下空音さんの姿を探し回っていた。彼女の金髪は目立つし、夏の暑さの中でも不思議と涼しげにしているから人波の中にいてもすぐに気が付く。しかし彼女の姿はない。
ホールが開場してからも注意深く入場するお客さんを見ていたが、やはり空音さんは現れなかった。そうこうしているうちに、開演五分前になる。コンサートに来て合唱を見ないで待ち伏せするのは怪しすぎる。受付の方からちらちらと不審者を見るような視線を感じるので、まだ来ていないだけだと自分に言い聞かせて素直にホールの中に入ることにした。
そこまで大きくないホールということもあってか、席は結構埋まっている。真ん中の空いていた席に座ってパンフレットを眺めていると、ブザーが鳴るとともに会場の明かりが消えて幕が上がっていく。
暗闇の中でうっすらと小学生から中学生くらいまでの少年少女のシルエットが見えた。真ん中には大きなピアノが置かれており、ライトとともに指揮者の女性が歩いていく。周りが拍手をして出迎えたので、僕も合わせてパチパチパチと手を鳴らす。
最初の曲は『グリーンスリーブス』。この曲は僕でも知っている。イギリスの民謡だっけとパンフレットを確認するとその通りだった。
物寂しげな旋律に乗せて無垢で透き通った歌声が響き渡る。声変わり前のソプラノの声はとても美しく、いつまでも聞いていたい気分になってしまうほどだ。僕が同じ曲を歌ったとしても、こんなに綺麗に歌えないだろう。ついつい聞き惚れてしまい、曲が終わったあと周りの拍手と遅れてしまった。その後も数曲歌い、ところどころで指揮者による解説も入りながら一部のプログラムが終了した。休憩時間に入ったので一旦ホールを出ようとすると、不意に金髪の女性が目に入った。
「空音さん!」
慌てて追いかけるが、柱にもたれている壮年の男性と話している金髪の女性は別人だった。髪の色もよくよく見ると空音さんよりも色が濃い。金髪ってだけで過剰反応しすぎだぞ、僕――。
「えっ? 小宮くん?」
「! 空音さん!?」
だから声をかけられて振り向いたとき、そこにいるのが空音さんだと理解するのに少し時間がかかってしまった。最後に会った時よりも髪の毛は伸びており、いつもよりもフェミニンな印象を与える。ここで出くわすなんて思っていなかったのだろう。気まずそうに僕を見る彼女は、逃げようとする素振りも見せない。苦々しげに目を閉じて、「コンサートが終わったあと、外で待っています」とだけ言ってホールの中に入っていった。
「うん。空音さんを信じよう」
ほんの一瞬だけ、彼女が嘘をついて逃げるんじゃないかと考えてしまった。だけど彼女はそんな人じゃない。もし逃げたとしたら、その時はまた追いかけたらいい話なのだから。
二部はパンフレットを見ても知っている曲はなかった。それでも聞き入ってしまう見事な歌声だったとは思うが、空音さんと再開したことで気持ちのはやる僕の耳には入ってこなかった。
そしてあっという間にアンコール曲も終わり、指揮棒を持った女性が舞台袖へと引っ込んでいった。アンケートも書かないで、僕は立ち上がってホールの外に出る。少し待っていると、空音さんが僕の方にやってきた。
「良かったよ。少しだけ、避けられるんじゃないかって思っていたからさ」
「避けていたのに、小宮くんの方からやってきたんじゃないですか。それに……なんとなく、小宮くんなら私を追いかけてくると思っていました」
「あはは、ご名答です……」
僕のことを信じてくれていたのは嬉しい話だ。心も弾みそうになる。でも空音さんの表情は暗いままだ。気晴らしに古巣のコンサートを見に来たはずなのに、来たことを後悔したような顔をしている。その原因は言うまでもない。間違いなく僕だ。胸が痛くなる。
「私のことは放っておいてください。これ以上、みなさんに嫌な思いをさせたくないんです。……楽しかった思い出のまま、お別れさせてください」
それだけ言い残して去ろうとする彼女の腕を掴む。今、この手を離したらダメなんだ。きっと一生会えない気がする。だから絶対に逃さない。離してなんか、してあげない。
「離してください。叫びますよ」
淡々とした、抑揚のない声だ。でも確かに色がついている。必死で抑え込んだ感情が確かに滲み出ている。そうやって、この人は自分が全部悪いって抱え込んできたんだ。そうすることが、一番簡単だから。
ホールのすぐそばには交番もある。ここで空音さんが「助けて」と叫ぶだけで、僕は簡単に取り押さえられてしまう。たったそれだけで、彼女は僕から逃げることができるのに、叫ぶどころか苦しそうに口を噤んでいた。
「もう一度言います。離してください」
「嫌です。だって空音さん……泣いているじゃないか」
「えっ?」
一筋の雫が赤らんだ頬を伝う。空音さんはそれを袖で拭くが、こぼれ落ちる感情は止まらない。
「行こう、空音さん」
「ちょ、えっ?」
自分の気持ちの暴走に戸惑う彼女の手を取り、僕は駆け出すのだった。