5-20 希望の歌
「バカなことをしたよアイツは」
空音さんのストーカーをしていた上尾くんとの対決から数日が経ったある日のこと、僕は若田部くんに誘われて駅近くの文学喫茶店に来ていた。隠れ家的なお店というのか、看板もないので一見さんはまず気が付かないだろう。若田部くんに案内されなかったら、僕も知らないままでいたと思う。店内にある本は読み放題らしく、店内BGMで流れているジャズがしっとりとした雰囲気を醸し出している。お店の中には僕たち以外のお客さんはおらず、汗びっしょりになってしまう外の暑さを忘れるように、よく冷えたアイスココアを飲んでいた。
「いや、宗大が変わってしまったことに気が付かなかった俺も同罪か」
自嘲気味に笑って、ブラックコーヒーを飲み干した。聴く人に安心感を与える低音ボイスが、いつもよりも弱々しく聞こえたのは気のせいではないだろう。無理もない。上尾くんは僕たちからすると迷惑なストーカーでも、若田部くんからすると親友なのだから。彼自身は何も悪いことをしていないのに、「本当にすまなかった」と頭を下げた。お笑い芸人が不祥事を起こしたとき、相方も連帯責任で謝ることがよくあるけれど、それに近い感覚だ。遠くを見つめるその横顔には深い後悔の色が見える。
「若田部くんが謝ることはないよ。気に病む必要だって、ない」
慰めの言葉を投げかけたとしても逆効果な気もした。多分若田部くんだって求めていないだろう。だからといって、だんまりはできなかった。正しい選択肢なんてどこにもない。せめて僕が正しいと思えることを、自分の口で伝えるしかないんだ。
「ありがとう。そういう言ってもらえると、俺も気が楽だ」
「そういう言葉を言ってもらいたかったの間違いでしょうが。肇があのバカの手網を握っていたら、うちもサナも痛い目を見ずに済んだんだからね?」
文学喫茶店らしいシックな制服を着たウエイトレスさんが、悪態をつきながら空になったグラスをお盆の上に置く。とても接客中の態度にも見えず、鋭い目で若田部くんを睨んでいた。
「サナが許したとしても、うちは絶対あいつ許さないから。あいつと友達やってたあんたもよ、肇。ただでさえ低い評価がさらに下がったわ」
「杏奈から嫌われたところで痛くも痒くもない。言ってろ」
「ま、まあまあ二人とも。喧嘩しないの」
従兄妹同士の喧嘩が始まりかけたのでどうどうどうと仲裁をする。制服姿の都丸さんは普段に比べて少し温和な印象を与えていたが、口を開くといつもどおり暴言よりの毒舌になってしまう。なんでもこのお店は、若田部くんと都丸さんの親御さんの知り合いが経営しているようで、時たま都丸さんはアルバイトをしているらしい。本当なら今日はシフトに入っておらず鉢合わせることはなかったのだが、今日入るはずだったアルバイトの大学生にどうしてもと頼まれてシフトを入れ替えたんだそうだ。
「ったく、今日は一日中積読を消化するつもりだったのに、なんで肇が来るのよ……最悪」
不機嫌モード全開の都丸さんは禍々しい色のオーラを出している。そりゃあ他にお客さんも来ないわけだ。マスターも読書モードに入っているので、都丸さんは遠慮することなく僕の隣に座った。
「仕事をしなくていいの?」
「うちはおじ様が暇つぶしでやっているようなお店だし、お昼過ぎだとこんなものよ。来るのもほとんど常連だしね」
そう言うと持ってきたメロンソーダをストローでかき混ぜ始めた。カランカランという氷の音が、なんとなく物寂しさを演出している。
「真本は大丈夫なのか?」
「大丈夫……ではない、かな。あれから、連絡とっていないし」
正確に言うと連絡が取れていない。メッセージを送ると、一応既読はつく。だからなにかトラブルに巻き込まれたということはないはずだ。でもこちらからのアクションに、うんともすんとも言ってくれない。便りがないのは健康である証とはいうものの、心配にもなる。『MAGMA』の活動にも現れなくなったので、こはるちゃんも不安そうにしていた。
「うちもよ。あの子、変なこと考えてないといいけど……」
「学校が始まればまた会えるとはいえ、それは気がかりだな」
若田部くんが言うように、夏休みが終われば学校で嫌でも会うことになる、はずだ。断言できないのは、真本さんが風船みたいにどこかに飛んでいっていなくなるんじゃないかと、心のどこかで恐れているからだろう。萌波のように、学校に行かないという選択肢だって取れる。二学期になったら、退学していたなんて最悪の展開が待っている可能性もゼロじゃない。アイスココアを一口飲んで気持ちを落ち着かせる。
「今すぐにでも、会いたい」
一連の騒動は自分のせいだと、彼女は自らの手で首を絞めている。きっと今も、息苦しいのに助けを求めようとしていないで、余計に泥沼に落ちていくんだ。僕にできることはないかもしれないし、求められてすらいないのだろう。だけどやっぱり、このまま見過ごすことはできないよ。
「真本のことが好きなのか?」
「え?」
唐突な質問だった。虚を突かれた僕とは対照的に、質問者の若田部くんはというと至って真剣な瞳でこちらを見据える。茶化しているようには見えない。
「す、好きっていきなり言われても! 空音さんは、友達だから」
「いや、最後まで言わなくてもいい。分かりやすいな」
「本当にね。心理戦が弱いタイプでしょ」
いきなりの恋愛トークをくらって動揺した僕を見て、若田部くんと都丸さんはおかしそうに笑った。従兄妹同士ということもあってか、二人揃って右の口元にエクボができていた。
「保証はできないが、真本に会いたいなら手がないわけじゃない」
「本当!?」
「わっ! 勢いありすぎでしょ!」
若田部くんの言葉に思わず身を乗り出す。隣に座った都丸さんが目を丸くしてビックリしている。
「やっぱ好きなんじゃないか」
苦笑いを浮かべながら、若田部くんはスマホの画面を見せてくれた。
「これ、肇が昔入団してた合唱団じゃない」
「ああ。『神部西少年少女合唱団』――俺たちが所属していた合唱団だ」
「懐かしいわねえ。昔、コンサートに行ったことあったけど、あのときソロを歌っていた子がサナだなんて。巡り合わせってのは面白いものね」
しみじみと語る都丸さんの目にはどこか穏やかな色が見えた。でも真本さんはもう合唱団に入っていない。これがどうしたというのだろう。
「真本は、今でも合唱団のコンサートを見に行っているそうだ。伴奏を弾いている姉貴が客席で何度か見かけたらしい。八月一三日――次の土曜日に、市民会館でコンサートがある。もしかすると」
「そこで真本さんに会えるかもしれない! しかもこの日って」
「え? なにかあるの?」
偶然というよりも、これは運命なのかもしれない。だから僕はこのチャンスに縋るしかないんだ。『神部西少年少女合唱団第三〇回希望のコンサート』と付けられた名前の通り、僕の胸に希望の光明が差した。