5-15 反撃のベル
「曲を入れないんですか?」
「え? あ、う、うん。ごめん」
ほんの数秒のことなのに、何十分も時間が止まっている感覚だった。恐らく両隣の部屋も同じだ。ストレスを吹き飛ばすように歌い騒いでいたのに、どちらもだんまり状態。圧倒的な歌を聴覚で摂取しただけでこうなるのだから、特等席で視覚も揺らされた僕はなおさらだ。
「どうでしたか?」
さっきまでの剥き出しの感情は隠れて、淡々と尋ねる。マイクを持つと人格が変わるタイプの人なのかもしれない。
「すごかったよ。うまく説明できないけどさ、心を掴まれた」
こんなとき、もっと語彙力があったならばなぁと思ってしまう。脳の容量に広辞苑をまるまる詰め込んで、シチュエーションごとに最適なワードを引き出せると、もっと上手に生きることができただろうに。
「僕の歌なんかと比べるのが、失礼なくら」
「なんか、って言葉で自分を値下げしちゃダメです」
立てた人差し指で僕の唇を止める。ドキッとした僕を、「小宮くんの言った言葉ですよ」と小さく頬の筋肉を動かした。
「あはは、そう、だったね」
彼女なりに、前向きになろうとしていることが嬉しかった。別に歌でご飯を食べようってわけじゃないんだ。フェイク野郎が嫉妬するくらい、楽しんでやろう。
「じゃあ、次は僕が入れるね」
一曲歌って喉も出来上がったので、本命の曲を入れることにした。僕のお気に入りの、スリーピースバンドだ。先日出たばかりの新譜は……あったあった。いつもはボーカルギターが作詞作曲をしているが、この曲は動画サイトで活躍するクリエイターが作ったんだとか。そのためいつもの彼らの曲とは少し毛色が違うものの、新境地というのかな。聞いていて心地のいい応援ソングだ。
「っと、ごめんなさい。その、電話がかかってきたので……失礼します」
眼鏡を直した真本さんは、充電していたスマホをもって部屋を出てしまう。前向きな歌詞だし、真本さんにこそ聞いてほしかったのになあ。歌い終わって演奏中止ボタンを押したのと同時に戻ってきた。もしかしたら、このバンドが苦手なのかも。歌わないほうがいいかな。
かわりばんこにマイクを持って、好き勝手歌って、時々タンバリンを叩いていると、気がつくと二時間近く経っていた。真本さんは自分の歌を数値化されるのが嫌みたいで採点機能は使わなかったが、一曲か二曲は一〇〇点満点を取れていたんじゃないかな。良くて八五点前後の僕には、手の届かない世界だ。
フードメニューを注文するリモコンの画面で、残り八分のカウントダウンがなされている。歌えて後一曲だろう。
「最後は小宮くんがどうぞ」
「いや、それだと二回連続になるし真本さんが歌いなよ」
消極的な二人がカラオケに来たときあるある。最後の曲を、譲り合う。そうこうしていくうちに、七、六とカウントダウンが減っていく。
「じゃあ二人で歌う?」
減っていく数字に焦ったのか、僕はそんなことを言ってしまった。
「えっと、今のは」
「いいですね、そうしましょう。歌えるかはわかりませんが、無理なら無理でなんとなくで大丈夫です」
慌てて訂正しようとすると、ノリ気になった真元さんがパパッと曲を入れる。男女トップシンガーのコラボレーションで話題になった曲だ。聖と萌波とカラオケに行くと、二人がよく入れていたので、一応僕も歌える。
真本さんのパートは聞き入ってしまう。ここにいるのが素人の僕じゃなくて、紅白歌合戦に出場するようなビッグネームでも同じだと思う。それでいて、僕と二人で歌うパートでは、こちらに合わせて少し声量を落としてくれているのが伝わってきた。合唱団は一人で歌うわけじゃない。スポーツと同じでチームプレイだ。そこにわがままな歌姫は求められず、自分の歌声を殺すことも必要なのだろう。
他の曲よりも、歌い慣れている――。そう感じてしまったのは、どうしてだろう。ふと、久しぶりになる前彼女は誰とカラオケに行っていたのかと考える。輪郭ははっきりしないが、そこには彼女にとって大切だった人が浮かんできた。
幼馴染の彼氏――彼女にまつわる物語の登場人物の一人だ。もしかすると、この曲はその幼馴染との思い出の一つだったんじゃないか。そう考えると、モヤモヤした気持ちになる。醜い感情をかき消すように、歌声は大きくなりデュエットの体を成さなくなった。
歌い終わったときには、カウントダウンは一分になっていた。もしかしたらと思ってスマホを見るが、反応はなにもない。
スマホの画面に非通知の三文字が出てきたのは、カラオケを出てしばらくしてからのこと。人の多い繁華街で、電話がかかってきた。真本さんにも画面を見せると、驚いたように口を手で隠す。周囲を見渡し、僕は通話ボタンをタップして、耳にスマートフォンを当てた。
『上手かっただろ、彼女』
さっきとは違う声色だ。ボイスチェンジャーを切り替えたらしい。飽きっぽいのか、それとも声で正体がバレるのを危惧したのか。そんなことせずとも安心してほしい。僕達はまだ、お前の正体に気づいていないのだから。僕は向こうの言葉を無視して、電話を切る。
「え? 切ったんですか?」
「またかけてきますよ……ね」
不安げな真本さんの心配をよそに、思った通りまたかけてきた。交渉人をテーマにした映画で見たことがある、かかってきた電話をあえて切り向こうにかけ直させることで、主導権を握るというテクニックだ。さっきは急に着信がきたせいでそこまで頭が回らなかったが、今の僕は落ち着いている。電話越しにいやらしくニヤついていたであろう、相手のペースに乗ってたまるか。
「わざわざかけ直してくれたんだ。構ってちゃんなの?」
小馬鹿にしたように喋ると、相手はイラついているのか電話越しでもわかるくらい大きな歯ぎしりをする。「真本さん、ごめん」と謝って、僕は続ける。
「振られた腹いせに嫌がらせなんて、程度が低いよね。そんな腐った根性だから、空音に見向きもされないんだよ」
『なんだとぉ!?』
予想通り逆上した。やっぱり、こいつは真本さんに振られた五人のうち、誰かだ。
「いま、下の名前で……」
んでもって、真本さんも急に下の名前で呼び捨てを食らってビックリしている。心の中でごめんなさいを繰り返しつつ、相手を挑発する。
「フェイク画像で空音を追い詰めたのも、その後自分が助けることで好感度アップを狙っていたのかな? もしそうならば、ほーんと程度が低いなあ」
電話を受けたときから、違和感はあった。振られた腹いせで嫌がらせをしている割には、彼女と一緒にいる僕に対して、『お前にはふさわしくない』だなんて言い放ったんだ。真本さんに振られても、まだまだ未練があったフェイク野郎は、真本さんを追い詰めて、どこかのタイミングでヒーローとして姿を見せるつもりだった。そう考えると、一気に不気味な相手が臆病者になってくる。
「それと。さっき、カラオケで空音に告白して、付き合うことになったから。お前がどれだけ策を講じても、無駄だよ」
『ああああ!!』
もちろん嘘だ。でも、相手には十分ダメージを与えられたらしい。耳をつんざくような絶叫をあげ、電話を切った。
「ここまで挑発すれば、直接攻撃に来るかもしれないよね」
これからが正念場だ。僕は、ううん。僕たちは負けるわけにいかない。
「小宮くん。さっき、私のこと空音って」
「あっ、えーと……ごめん、馴れ馴れしかったよね?」
付き合い始めたという嘘のために、空音と下の名前で呼んでしまった。正直慣れないことをしたので、あいつと話していたときよりもドキドキしている。照れくさいのもあるが、妹や下の名前で呼ぶほうが自然なこはるちゃんが限界で、基本的に女の子の名前を呼ぶ度胸は持ち合わせていない。
「空音、でいいですよ」
「だよね……ってうん!?」
「聞こえませんでしたか? 真本さんじゃなくて、空音でいいですよ」
予想外だった。真本さんは上目遣いで僕を見つめてくる。いつもならドギマギする僕を楽しんでから『イッツア冗談』と言うのに、目元をほんのりと赤く染めて、名前を呼んでとアピールした。
「空音……さん」
スマホの画面がかがみになるアプリで、僕の顔を映す。羞恥に満たされ真っ赤な顔は、温泉につかる猿にそっくりだ。でももう一匹、お猿さんはいた。
「……まあ、これで勘弁してあげます。3ポイント、贈呈です」
人波が行き来しても、僕らを包む微妙な空気を連れ去ってくれない。でも、不快には思わない。青春の匂いが、ほのかに香った気がした。