5-5 若田部肇
読書が趣味というわけではないが、図書室は結構好きだ。騒がしい学園の中で、唯一図書館だけは、静寂であることを強いてくる。僕はこの静寂が嫌いじゃない。扉を開けると別世界に来た気分にすらなり、一瞬響く本や雑誌のページをめくる乾いた音や、木製本棚や古い本の独特の匂いが五感を緩やかに刺激する。
小説コーナーは作者ごとに分かれており、中にはラノベも混じっている。女優探偵蛇蜻蛉繭子シリーズも置いている、と都丸さんは言っていたが、作者名を聞くのを失念していたのでどこにあるのかわからない。図書室内はスマホの利用もダメで、見つかると高砂部屋行きだ。困った僕は、図書委員の生徒に聞いてみることにした。
「あのー、すみません。少し伺いたいのですが……あれ?」
「あっ、小宮先輩っ。こんにちは」
小柄な赤髪の少女は、僕の知っている顔だった。思わぬところでこはるちゃんと鉢合わせた。
「図書委員だったんだ。中学の時は、風紀委員だったよね?」
「えっと、中学時代に入っていた柔道部の顧問の先生が、風紀委員を担当されていまして。それで半ば強引に、三年間風紀委員を任されちゃって。本当は、図書委員をやりたかったんですっ」
「ああ、あの先生厳しいからね……って、そうじゃなくて。こはるちゃんにちょっと聞きたいんだけど、女優探偵蛇蜻蛉繭子の作者って、わかるかな?」
「蛇蜻蛉繭子って、ドラマにもなっていたやつですよね? すみません、私推理小説はさっぱりで……」
「あー、うん。だよね」
これを知らないなら本好きを名乗るんじゃないわよ、と敵を作りそうなことを発言していたヒスオタ、じゃなくてミスオタのことは頭から消しておく。図書委員だから本に詳しいというのは偏見でしかない。こはるちゃんは申し訳なさそうに手を合わせる。
「すみません、力になれなくて……あっ、でも。先輩なら知っているかもしれないです。ちょっと待ってくださいねっ」
そう言うと、裏に入っていき、僕と同じ色のネクタイをした目つきの悪い眼鏡男子を連れてきた。同学年なはずだが、初めて見る顔だ。
「紹介します。こちら、図書委員会副委員長の、若田部先輩です」
「石坂、こういう紹介する時は、先輩はいらないぞ。基本的なビジネスマナーだ」
洋画の吹き替えで若き為政者役があるならば、彼はハマり役だ。高貴さを感じさせる、力強いバリトンボイスだった。
「あ、すみませんっ。私、知らなくて。ちゃんと勉強しますっ」
高校生に基本的なビジネスマナーを求める方がどうかと思うし、こはるちゃんが謝ることはないのに。真面目というか、律儀というか。
図書委員副会長の若田部くんは、厚めの黒縁眼鏡をかけた、やや神経質そうな生徒だ。声が僕よりもだいぶ低く、制服を着ていなかったらサラリーマンにも見えたかもしれない。
「こちらは小宮。私と同じ中学の先輩です」
「……相手を紹介するときは先輩をつけなさい」
マナーというものは難しい。こはるちゃんはやらかしたと口に手をやる。なんともいじらしい光景だ。
「やはは、すみません……」
「まあまあ。僕は気にしていませんので。五組の小宮海智です」
「二組の若田部肇だ。君が知りたいのは蛇蜻蛉繭子シリーズだったな。小説コーナーのは行に置いてある。作者の名前は、備前後臣だよ」
びぜんあとおみ、か。覚えておこう。そういえば、真本さんも二組だっけ。同じクラスの生徒なんだ。
「ありがとうございます。詳しいんですね」
「図書委員なら当然だ……と言いたいところだが、去年この本を入荷しろとうるさい女子がいてな。ヒステリーの女王、君も知っているだろ?」
「あー、あの子ですね」
うんざりしたように、わざとらしく頭を抱えて、深いため息を一つ。どうやら都丸さんは自分の推し作品を図書室に購入させるため、図書委員にリクエストをしまくったらしい。よほど面倒くさいクレーマーだったのか、若田部くんはどっと疲れた顔をしていた。
「周りから見ている分には面白いし、創作の種になるんだが、いざ自分がヒステリーに巻き込まれると大変なものだよ」
「創作って?」
「実は若田部先輩、ウェブ小説投稿サイトで活躍している、小説家なんです」
「小説家だなんてないそうなものじゃない。ワナビに過ぎないよ」
僕の質問に答えてくれたこはるちゃんの言葉を訂正する若田部くんは、少々恥ずかしそうに顔を赤らめている。
「でも、夢中になれるものがあるのっていいことだと思いますよ。僕は尊敬します。僕にできることは、応援だけですが……いつか夢が叶う日が来るよう、願っています」
ワナビと自嘲気味に笑うが、将来についての展望を持ち合わせていない僕の目には、夢を叶えようとする姿は眩しく映る。若田部くんも例外じゃない。小説家になるのは大変だと思う。でもぜひとも、たくさんの人に認められる先生になってほしいな。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、俺もモチベーションがあがるよ」
「いえ、頑張ってください。なにか面白いことがあれば、教えるよ」
僕も高校二年生で、進路を真面目に考えなきゃいけない。しかしこれといって、憧れるものもなりたいものもない。自分の引き出しにあるものといえば、料理が得意ということくらいだ。でもそれは、素人にしては上手で、レパートリーが多いだけにすぎない。一〇年後、二〇年後にお店を出して、料理を振る舞っている姿が想像できるかどうか。
「……無理だよなぁ」
やっぱり僕は、身の丈にあった生き方がお似合いだ。でも、今だけは。蛇蜻蛉繭子のような、主人公を目指しても、バチは当たらないよね。
蛇蜻蛉シリーズは最新刊以外揃っていたが、一回で借りられるのは五冊まで。しかも、僕はあまり本を読むのが早くない。ミステリー小説ならなおのこと時間がかかるはずだ。読めるかはわからないが、とりあえず二巻まで借りることにして貸出口に向かおうとすると。
「あー、レポート再提出とかだりーよな。学生は勉強より遊んでなんぼだろ」
図書室には不釣り合いな面々が大声で喋りながら入ってきた。なにがおかしいのか、ゲラゲラと騒がしく笑って静かに本を読む人の邪魔になっている。そんなに喋りたいなら、別のところに行けばいいのに。図書室で勉強している気分だけ味わいたいのだろうか。
中にいる生徒たちの目線による、無言の「お前らなんとかしろ」メッセージが、図書委員たちに突き刺さる。耐えられなくなったこはるちゃんが、注意するべく騒がしい生徒たちのところに向かう。
「あのっ、すみま」
「君たち。図書室ではお静かに」
「あぁ?」
こはるちゃんの前に割り込んで、若田部くんが注意をする。黒い眼鏡の奥の、揺るぎない瞳がやんちゃな生徒たちを見据える。
「なんだよ、お前」
「図書室は静かに読書をし、勉強する場所だ。それが出来ないなら、今すぐ出て行け」
荒げていないが、重厚な声がズシンと響く。
「んだと? お前、調子こいたこと言ってんじゃ」
イラついて殴りかかりそうな勢いの相手を前にしても、若田部くんは忽然とした態度は変えない。
「何度も言わせるな。さっさと出て行け」
「チッ。しけたわ。行こうぜ」
捨て台詞をはいて、騒がしい生徒たちが去っていく。勢いよく閉められたドアの音を最後に、図書室に静寂が帰ってきた。
「すごいね」
「やってはいけないことを、注意しただけだ。大した話じゃない」
「でもえらいよ。僕ならビビって、注意できないと思う。そういうとこ、憧れるな」
「……君といると、調子が狂うな」
猫背になるとそうつぶやいて、恥ずかしげに目を逸らし、後ろに戻っていった。
「先輩、結構シャイな人なんですよ」
「みたいだね」
コソコソっとこはるちゃんは笑う。読書カードに名前を書いて本を借りて、図書室を出た。