3-16 不穏な日曜日
目が覚めた時、最初に感じたものは朝になっても降り続ける雨の音だ。続いて隣で眠る彼女の甘い香り。それから、体に抱きつく柔らかな感触。不可侵ボーダーを超えてしまった真本さんは、体を押しつけるようにして僕を抱いて眠っていた。
「真本さん?」
「んすぅ……」
無防備な寝顔を晒す彼女は、心地よさげに眠っている。人とベッドには相性があり、オーダーメイドのベッドを作る人もいらしいが、他人のベッドの上でこんなに眠れるのなら、自分でも言っていたようにコンクリートの上でも眠れそうだ。身動きがとれないし、今日は休日だから二度寝するのもありかなあと思って目を閉じたのと同時に、「んん……」と声を漏らした。ゆっくりと目を開いて、焦点の合わない瞳でぼんやりしていた彼女は、僕を抱きしめていたことに気づくと、ゴロンと壁に体を持っていく。
「わざとじゃないんです。私、寝相があまりよくなくて」
「あはは、そうみたいだね。おはよう、真本さん」
後ろ向きのまま、「おはようございます」と返す。髪からちらりと見える耳たぶを真っ赤にして、恥ずかしそうに「わざとじゃないです」ともう一度言う。
「わかっているよ。僕は朝食の準備をするから。そろそろ、着替えなよ?」
さすがに彼女が着ていた服も乾いているだろう。いつまでも彼パーカーだと僕の理性が保たないしね。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
朝食を終えて、食後のコーヒーを淹れる。角砂糖とミルクがないと飲めない僕とは対照的に、ジャージに着替えた真本さんはブラックをそのまま飲んでいる。こういうところが、大人だなあと思ってしまう。
『清らかなる純白の乙女! ピュアマリア!』
訂正。たまたまつけたテレビに映っていた、魔法少女アニメ『マジピュア』を食い入るように見ている。僕が生まれる前から放送しているシリーズで、今年で二〇周年を迎えたとか。萌波が小さい頃は一緒に見ていたし、映画館にも一緒に行ってあげた記憶がある。かわいらしい見た目に反して魔法よりも肉弾戦が多く、萌えアニメとじゃなくて燃えアニメと表現されることもしばしばあった。
「マジピュアが好きなの?」
真本さんに尋ねると、彼女は我に返ったようにハッとしてテレビを消す。
「別に恥ずかしがらなくてもいいのに。僕も昔は見ていたし、久しぶりに見てみようかな」
テレビの電源をつけなおすと、真っ白なドレスを身にまとったマジピュアが巨大なモグラの怪獣と戦っている。地面を掘って縦横無尽に暴れまわるモグラ怪獣に苦戦しているようだ。
「モグラをモチーフにしたキャラクターって、大抵サングラスかけていますよね。でも、モグラって別に太陽の光を浴びたら死ぬってわけじゃないんですよ」
「そうなの?」
モグラというと、地上に上がったら死んでしまうというイメージがある。それは暗い土の中にいるから、急に太陽光を浴びることで命を落とすのだと思っていたが、そうじゃないらしい。真本さんが言うには、モグラは超がつくほどの大飯喰らいで、胃の中に一二時間以上食物がないと餓死してしまうのだとか。そもそも視力がほとんどないようで、光も認識できていないんじゃないかと付け加えた。
「詳しいんだね」
「お父さんが動物に詳しい人だったので、いろいろと教えてもらいました。パンダの尻尾の色も、お父さんから学んだんです。動物園によく連れて行ってもらったな……」
懐かしそうに目を細める。絶縁して墓参りもさせてもらえないと言っていたが、いつかは許される日が来てほしい。そう思うのは、友達として当然のことなのかな。
『これでも食らいなさい! はぁ!』
『モグゥウウウウ!!』
土の中に隠れたモグラ怪獣だが、水の魔法を使う青マジピュアによって水責めをくらい、地上に出てきたところをボコボコにされる。最後に白いマジピュアの聖なる拳による一撃を受けて、爆発した。煙の中に建設作業員らしきおじさんが倒れている。敵の魔法かなにかでモグラ怪獣にさせられていたのかな。吹き出した水によって、大きな虹が出来上がる。
「マジピュアのおかげで、私たちの世界にも虹ができましたね」
「あっ……晴れていたんだ」
マジピュアに夢中になっていて、雨が止んだことに気がつかなかった。雲に隠れていたお日様が顔を出しており、大きな虹が遠くの空にかかっていた。
「さて。雨もやみましたし、私は帰ります。お世話になりました」
「いえいえ。僕の方も、数学の勉強見てもらったしね。お互い様だよ」
玄関まで真本さんを見送る。靴を履いて振り返ると、「また遊びに来てもいいですか?」と問いかけた。答えは決まっている。「もちろん」笑顔で言うと、彼女も笑い返してくれた。そんな気がした。
「さて。萌波も帰ってくるし、掃除でもしようかな」
萌波は今起きたらしく、お昼前には家に帰るとメッセージが届いていた。掃除機でリビングを掃除していると、着信音が響き渡る。
「非通知?」
画面には数字の代わりに、非通知の三文字が出ていた。なんとも不吉な文字列だ。でも、出ないわけにはいかないよな。恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『……よう、昨日はお楽しみだったか?』
「は?」
血の気がサーッと引いていくのを感じた。ボイスチェンジャーを使っているのか、やけに甲高くて不気味な声だ。言葉を失った僕を、電話越しの相手はケラケラと笑う。
『動揺したな? オクターブ上のGの音が出たぞ』
心臓を冷たい手で掴まれたようだ。嫌な汗が止まらない。呼吸も乱れてきた。落ち着け、冷静になれ。
「お、お前は誰だ」
『そう警戒するなよ。俺は、忠告しに来たんだ』
男の声は楽しげに弾んでいる。まるで、ゲームで遊んでいて、僕がどう動くかを予想しながら楽しんでいるみたいだ。電話の主は一息あけて続ける。
『これ以上、真本空音に関わるな。お前に歌姫はふさわしくない』
僕の意見や質問など聞く気はないと言いたげに、吐き捨てて電話を切られた。どこにも繋がっていない無機質な電子音が、鼓膜をゆっくりと撫で回す。誰が? なんの目的で? さっぱりわからない。ただ、一つ言えることがあるならば。電話越しのあいつは、僕に対して強い敵意を抱いている。
「おかえりー、お兄ちゃん! あれ? どうしたの?」
萌波が帰ってくるまで、体の震えが止まらなかった。黙り込んだままスマホを強く握りしめて、気味の悪いハイトーンボイスが頭の中で延々と再生されるのだった。