3-15 今宵二人で
「殺虫剤撒いておいたよ。多分、机の影かでコロリと倒れているんじゃないかな」
黒いあれに絶叫した真本さんは、震える体を抱きかかえソファーに座っている。よほど苦手なのだろう。汗もかかないすました顔が、恐怖にゆがんでいる。気持ちを落ち着けるために舐めている飴の棒も、ガクガク揺れいている。
「小宮くんを責めるつもりはありませんが……あの部屋で寝るのは、その……」
「あー、うん。怖いよね」
見るだけで嫌悪感がえげつないあれが、どこかにいるという恐怖は彼女にとって耐えられるものではなかった。仕方ない、真本さんに両親の部屋を使ってもらって、僕は自分の部屋で寝るとしよう。
「待ってください、小宮くんは自分の部屋に戻るつもりですか?」
「そうだけど……」
「あの、ですね」
もじもじとして歯切れが悪い。何度か浅い呼吸を繰り返して、「一緒の部屋で寝るのはダメでしょうか?」と尋ねてきた。
「僕と真本さんで、両親の部屋で寝るって……コト?」
コクリと小さく頷く。いつもなら平気そうな顔をして冗談を言うのに、ここまで怖がっているのは初めて見た。この状況の彼女を、一人にするのは確かに不安ではあるし、万が一またあれが出てきたとき、僕がいれば対応できる。僕だって見るのは嫌だが、一応駆除できるくらいの甲斐性くらいは持っている。
ただ、彼女と同じ部屋で二人っきりの夜を過ごすというのは……僕の理性が保つかどうか。二度目の間接キスとハグ以降、彼女のなんら特別なことでもない仕草にすらドキッとしてしまう。そんな状況で、僕は眠れるのだろうか。
「わかったよ。真本さんは、ベッドを使って。僕は床で寝るから」
「それは悪いです、私が床で寝ます。コンクリートの上でも眠れますので、ご心配なく」
舐めていた飴をビシッと突き出して不満げに言うと、どうぞベッドを使ってくださいと言わんばかりに床に寝転がった。客人を床で寝させるホストがどこにいるというのか。ただ、こうなった彼女は頑固だ。あまり寝心地のよくない床の上で、枕もせずに目を閉じる。このままお姫様抱っこをしてベッドに運ぼうかとも考えたが、彼女の体に触れてしまうのは避けたい。正直、これも最適解とは思えないが、まだマシだろうと折衷案を提案することにした。
「じゃあ、これはどう? 二人用のベッドだから、真ん中にテープか紐かでラインを引いて、互いに背中を向けて寝るってのは」
二つのベッドがくっついているサイズなので、それぞれのパーソナルスペースも確保できる。互いに不可侵の壁を作っておけば、間違いは起きることはない……はず。床で寝させる罪悪感もないし、僕が壁にくっついて寝るなりして彼女と距離をとればいい話だ。真本さんは少し考える素振りを見せて、「まあ、それなら」と了承したので、母さんが趣味の手芸で使っていたナイロン紐で不可侵ボーダーを作る。といっても、真本さんの方から来るわけがないので、僕が気をつけなくちゃ。
「じゃあ僕はお風呂入ってくるね」
ベッドに座って分厚い本を読んでいる真本さんは、僕を一瞥して読書に戻った。世界的に有名な魔法学校の小説の原語版だ。日本語翻訳されたものを履修済みなのか、それとも英語を読むことが苦でないのか、特につまることなく読み進めている。
「ふぅ……」
今日の疲れを流すように、少し熱めのシャワーを浴びる。テニス部にいた頃は、毎日遅くまで練習して、ヘトヘトになって帰ったっけな。久しぶりにガッツリと運動をしたものだから、明日は筋肉痛かも。ラックに乗せたシャンプーを使おうと腰を下ろすと、床に細い何かが光っていた。真本さんのはちみつ色の髪だと気づいた瞬間、生まれたままの姿の彼女がここにいたことを意識してしまう。
心なしか、湯気に混じって甘い香りまで漂ってきたみたいだ。冷たくなった体を温める彼女の輪郭がぼんやりと、浮かんできた。日焼けなんて概念を知らないであろう真っ白な肌と、艶やかに濡れる金髪――ああ、ダメだ。これから同じベッドで夜を過ごすというのに、最悪にも僕は真本さんのエッチな姿が浮かんでしまう。
幼馴染の元彼と浮気相手は知っているのだろうか。ああ、ダメだ。煩悩がリズムゲームの最高難易度みたいに落ちてくる。シャワーで煩悩が流れないなら、この大雨に飛び込んで『ショーシャンクの空に』ごっこをするしかない。そんなことすれば、冷えた体を温めようとシャワーを浴びて同じ展開になってしまう。無限ループって怖い。
「お風呂出たよ……って真本さん、もう寝たのかな?」
止めどなく溢れ、滾る煩悩を、芸人ネイキッドザマショーの誇張しすぎたモノマネを頭の中で放送したり、ローマの五賢帝の名前を呪文みたいに唱えたりして、一時間以上戦っていた。その間に、真本さんは眠ってしまったようだ。壁に体を向けて、寒さを耐える猫みたいに体を丸めて寝息を立てている。
「すぅ……」
「……そーっとそーっと」
起こしてしまわないように覗き見る。幾分か幼く見えたのは、眼鏡を外しているからか、寝顔だからか。眼鏡をかけている姿ばかり見ていたので、少し新鮮だ。そのまま視線を下ろすと、規則正しく呼吸する唇に釘付けになる。彼女が過去好きだった男たちはどうだろう。キスを、それともその先までしてしまったのか。自己嫌悪に陥りそうになる前に、疲れた体が睡魔を主張し始めた。
「おやすみ、真本さん」
目をつぶり、まどろみの淵に落ちていく。
「……えっち」
吐息に混じってそんな声が、聞こえた気がした。