3-15 MARO
人間、得意不得意がある。数学はさっぱりだった僕だが、日本史と世界史は得意だ。偉人たちの本を読むのが好きだったのもあるが、基本的に暗記するだけで点数が取ることができるので、数学に比べてカロリーが少なくて済む。
対する真本さんはというと、先生よりもわかりやすい説明ができるくらい数学が得意な一方で、どうにも世界史は苦手らしい。日本史はテンパってオリジナル徳川将軍を生み出した僕に、正解を指摘できるものの、世界地図のあちこちに飛んでしまう世界史は相性が良くなく、中間テストではそれだけ点数が低かったんだとか。「なんたらティウスとか、なんたらトゥスとか、似た横文字が多くてうんざりするんですよね」とは彼女の談。日本史が苦手な人からすれば、全く同じことが源平や徳川家でいえそうだ。
数学のわかりやすい解説をくれたお礼に、僕の世界史ノートを貸すと、真本さんは「これ、コピーさせてほしいです」と好評だった。試験範囲だけじゃなくて、最初から全部印刷したいのだという。
「先生の説明が悪いとは言いませんが……小宮くんの世界史ノートは、流れがすごくわかりやすくて、これを最初から書き写していけば、ちゃんと頭の中に記憶できそうな気がします」
ノートをコピーするだけで満足しないで、自分で一から書き写すところに、真本さんの真面目な性格が出てきた。両親の部屋にあるプリンターのスキャナーを使って、ノートを最初から印刷していく。結構な量になるが、真本さんは「受験のためにも、振り返る必要がありますからね」と苦でもなさそうだ。
「真本さんは、将来の夢があるの?」
僕の問いかけに、懐かしむように目を細める。
「昔は、先生になりたいって思っていました。幼馴染や、友達からは教え方が上手いって褒められてきて……それだけで、教師が向いているかなって。そんな時期がありました」
あまり表情を変えない、淡々とした真本先生の姿を想像してみる。なにを考えているかわからなくて、ちょっと怖いけど、飴が好きで学校で飼っているうさぎと会話するような、それでいて本当は冗談と悪ノリが好きな先生。きっと、思春期の生徒たちはクールビューティーな眼鏡の先生に憧れてしまうんだろうな。
「合っていると思うよ、先生」
「でも、無理です。好きだった人を裏切って、どん底に堕ちた私に、人を教える資格なんて」
「後ろめたいことのない聖職者なんて、一人もいないと思う」
印刷が終わり、結構な枚数になったプリントを床でトントンと整えて、ホッチキスでまとめる。
「むしろ、過去を後悔しているからこそ、同じ踵を踏んでほしくないって説得力があるんじゃないかな? 真本さんなら、悩んでいる生徒に寄り添えるいい先生になれる、そんな気がするな。はい、どうぞ」
プリントの束を受け取った真本さんは、「学園ドラマみたいなこと言いますね」と照れくさそうに笑う。
「次のテスト、世界史で悪い点数は取れませんね」
「僕もだよ。真本先生の顔に泥を塗るのは嫌だからね。頑張らないと」
リビングに戻って、互いに苦手を得意で補いながら勉強会をする。少し休憩にとテレビをつけると、音楽番組をやっていた。そういえば、僕の好きなスリーピースバンドも新曲をひっさげて出すんだ。危ない危ない。見逃すところだった。ウマ耳アイドルグループがちょうど終わったみたいで、その次に僕の推しバンドが出てきた。新曲はどんな感じになるのだろう。
「えっ?」
驚いたような声をあげた真本さんは、眼鏡を直して「すみません、少し電話をしてきます」と電話を持って部屋を出る。どうしたのだろう。そんなに驚く要素あったかな。もしかしてバンドメンバーが真本さんの知り合いだったとか? そんなわけないか。
「あれ?」
続いて、僕も驚きの声を上げる。このバンドは基本的にギターボーカルが作詞作曲をしているが、今回の新曲は知らない名前が出ている。『MARO』と検索してみると、八重歯でパーカーを被ったヘッドホン男子のイラストが出てきた。ここ一年で人気が出てきた、正体も経歴も不明という、謎のネット発音楽クリエイターらしい。
新曲は、僕が思っていた以上に良曲だった。ネット発という肩書きでどこか侮っていたところもあったかもしれない。すました嫌味さはなく、むしろ泥臭さすら感じる前向きな応援ソングだ。曲を出すタイミングがもう少し後ならば、甲子園応援番組の主題歌にも選ばれていたかもしれない。そんな印象があった。
推しバンドよりもMAROのことが気になった僕は、彼のことをもう少し調べてみた。活動を始めたのは、去年の夏頃だという。これまた正体不明経歴不明の歌い手、『マシロアイ』と組んで発表した楽曲が、バズりにバズって一躍スターダムに上り詰めたんだとか。マシロアイも今はメジャーデビューに向けて準備しているという。MAROとマシロアイの正体は誰かとあちこちで考察がなされており、話題性は抜群だろう。
「すみません、何やら間違い電話だったみたいで」
推しバンドの出番も終わったので、テレビを消して勉強タイムに戻る。居心地が悪そうな真本さんは、やや落ち着かない様子で新品のノートに世界史の流れを書き込んでいく。僕がまだ使っていないノートを貸して、今度新しいノートを持ってきてもらうことになっている。別にノート一冊くらい、返してもらわなくてもいいのに、あまり借りは作りたくないタイプのようだ。
二二時を回ったあたりで、勉強会を終えてお互い部屋に戻った。お風呂に入っていないことを思い出した僕は、浴室で服を脱ごうとしていた、その時。
「きゃあああ!!」
「さ、真本さん!?」
僕の部屋から真本さんの悲鳴が響く。普段の彼女からはか考えられないくらいの大音声だ。慌てて服を着直した僕は、部屋まで走る。もしかして、泥棒が入ったんじゃ――!
「大丈夫!? 真本さん!」
「こ、小宮くん……」
腰を抜かした真本さんは、前から見れば下着が丸見えな状態だ。ナイトテーブルに指を差し、怯えている。
「あ、あれが……」
「あれ? もしかして……黒いあれ?」
クールな彼女がここまでビックリするとすれば、それはあいつしかいない。掃除をしているときはいなかったが、どこかに隠れていたらしい。表情には強い恐慌の色が見える。僕の質問に「へ?」と答えるが、すぐにうんうんと首を縦に振った。