3-14 勉強会
『もう、心配性だなー。お義父さんお義母さんに迷惑かけることはしないよー。私がわがままになるのは、お兄ちゃんとひーくんだけだから』
食後のココアを飲んだあと、萌波に電話を入れると、聖の部屋でゲームをしていたところだったらしい。といっても、遊んでいるのは萌波だけで聖は勉強中だ。邪魔をしないために、一人で楽しめるRPGで遊んでいたんだとか。
『お兄ちゃんもひーくんを見習って勉強しなよー? 数学、ヤバヤバのヤバだったんでしょ?』
「うぐっ、言われなくてもしますよーだ」
赤点にはなっていないものの、数学の成績はヤバヤバだ。しかし、僕が目指す進路は私立文系なわけで、正直なところ数学は必要ない。大学進学率を高めたいならば、うちのクラスから数学の授業を減らすか消すかするなりして、その分私立文系に必要な英語国語社会科目を持ってくればいいと、進級してからずっと思っている。同じ怒りを抱いている人は、少なからずいるだろう。僕たちは求めている。私立文系を目指すクラスから、数学を排除するチェ・ゲバラの存在を――。
『で、空音先輩とはどこまで進んだ? A? B? それともその先に行けそう?』
「変なこと言うなら切るよー」
ラムネ味の飴で間接キスをしました、抱きしめられて抱きしめ返しました、と言ってしまえば萌波はどんなリアクションを取るだろう。煽るくせに、いざ兄がその先まで行ってしまったことを知れば、ドン引きしそうな気がする。
『ま、お兄ちゃんのヘタレっぷりならなにも起きないか! あ、言い忘れてた! 空音先輩が泊まるのはいいけど、私の部屋に入れちゃダメだからね? 私がいないときに部屋にはいられるのは嫌だからねー』
「わかっているよ」
真本さんと萌波は今日が初対面なわけだし、懐いていたといっても部屋を貸すのは抵抗がある。両親の部屋も同様だ。となると、僕の部屋を貸すしかない。なので今、絶賛片付けているところだ。雨は相変わらず容赦なく降り続けて、さらには強い風も吹いてきた。台風ってほどではないにせよ、この天候の中帰すのは危険だ。ラリー二〇回終わるまで帰りませんって冗談を言っていたら、本当に帰れなくなるなんてね。止まる気配のない雨音の中、ベッド横のナイトテーブルに置いてあるカエルのぬいぐるみが、心なしか楽しげに見えた。
『じゃ、私は明日帰るから。おやすみー』
「おやすみ、夜ふかしはするなよー」
聖のことだから萌波に手を出すことはないと思うが、一応釘は刺しておこう。『信頼しているからね』とだけ書いてメッセージを送ると、すぐに軍人の格好をしたペンギンが『了解であります』と敬礼をしているスタンプが返ってきた。
「おまたせ。掃除が終わったから、今日は僕の部屋で寝てね」
リビングでロンロンを抱きながら音楽を聴いている真本さんに、掃除が終わったよと報告をする。相変わらずダボダボパーカーの下にはショーツしか履いていないが、同じ空間にずっといれば慣れてしまうものだ。変に意識することは少なくなった。
「ありがとうございます。でも、小宮くんはどこで寝るのですか?」
「親の寝室で寝るよ。だから、気にしないで大丈夫」
両親は海外に生活拠点を移しているが、部屋にはベッドはそのまま置かれている。ダブルベッドなので一人で寝るには広いが、寝心地の良さは保証済み。聖が家に泊まるときは、大抵そこで寝ている。本人の寝付きのよさもあると思うが、大きめの地震が起きて僕と萌波がビックリして起きたときも、聖はグゥスカと眠っていた。
「じゃあ、僕は両親の寝室で期末に向けて勉強を……」
自室から持ってきた勉強道具を手に部屋に入ろうとすると、服の裾を掴まれる。
「勉強するなら、一緒にしませんか? といっても、こんなことになると思っていなかったので教科書も筆記用具も持ってきていないのですが」
「別にかまわないよ。じゃあ、ここでやろうか」
特に断る理由もないので、リビングに数学の教科書とノートを広げる。僕の隣に座った真本さんは、肩が触れそうなほどに近い。甘い香りが鼻腔を満たして、ほんの少し目線が横に行くと吸血鬼が喜んで噛み付きそうな綺麗な首筋が目に入る。またよからぬことを考えてしまった僕は、頭の中で芸人のネイキッドザマショーが、誇張しすぎた横尾聖のモノマネをするとどうなるだろう、と想像することでやり過ごした。
現在僕たちが勉強しているのは、図形と方程式だ。数学の担当教師の島田先生は声がやたらめったらに大きく、眠くなるなんてことはないが、無関係な話、それも過去の自慢話に寄り道することが多々あり、本筋に入ったかと思えば説明があまりにも下手ときた。なにも数学が苦手な僕が恨み節を唱えているわけではなく、クラスの全員が僕と同じ感想を抱いている。聖だって、この先生の授業中はちゃんと聞いているふりをして、自分で買った問題集をこっそり解いているくらいだ。
「字、綺麗ですね」
「料理と並んで数少ない取り柄なんだ」
ノートを覗き見て、真本さんが感心したように言う。小学校の頃にペン習字の通信教育を受けていたので、字はそこそこ綺麗だという自信はあった。書いた字にはその人の品格が表れるとはよく言われる話で、特別な才能を持っていない僕は、せめて字くらいは美しくあろうと心がけている。ただ、美麗なペン捌きで数式を書いても、なにをどうしたらその結果になるのかがさっぱりなので、あまり意味がない。
「でも、数学はさっぱりでさ。島田先生ってわかるかな? 隙あらば自分語りをしてくる」
「数学Ⅱの先生ですよね。学生の頃は剣道で全国大会に行ったとかいう」
「うん、その先生」
自分のいた剣道部は地獄だったとか、全国大会に出たとか、女子部長と付き合っていたとか。剣道部トークは彼の脱線ネタの鉄板だ。ただ、そんな実績があるにも関わらず剣道部の顧問じゃなくて、いまいちルールを把握していないハンドボール部の顧問なのは、出来の悪いコントのボケみたいな話だ。真本さんの口ぶりだと、他のクラスでも同じ自慢話をしているらしい。
「あの人の説明、わかりにくくて。板書をきちんととっても、ちんぷんかんぷんなんだ」
ノートをペラペラと見た後、真本さんは「お借りしますね」と言って、僕が書いたページを見ながら、新しいページになにやら書き込んでいく。しばらく書いて、一仕事終えたみたいにふぅとため息をつく。
「すごく簡単にですが、私なりにノートの内容をまとめてみました」
「ええ!? えーと、なになに……? あれ? わかるぞ?」
未知の言語みたいに難解な島田先生の説明と同じ内容のはずなのに、真本さんが書いてくれたページは、数学が苦手な僕でも理解できるくらいにまとまっていた。一気に数学の真理に辿り着くわけではなくて、ぼやけていたとっかかりの部分に、はっきりとした色と形が生まれたのだ。
「すごいよ、真本さん。島田先生より、遥かにわかりやすい」
こんがらがっていた、問題を解くための基本のキが明確に理解できた。どこから手をつければいいかわからない真っ暗闇の中で、先に進むためのライトを手に入れたような感覚だ。
「基本さえ理解できたなら、なんとかなるものですよ。参考書の問題を解いてみましょうか」
真本先生に促されて、青い表紙の参考書の問題に挑戦してみる。今までは答えを確認しても、意味がわからなかった問題だが、彼女のいう基本に当てはめてじっくり考えると、どう解けばいいかが見えてくる。
「そうです、それで正解です」
「やった! 解けた!」
他のみんなからすると、これくらいの小さな一歩で喜ぶなんてと思うかもしれない。でも、僕にとっては月への第一歩と同じくらい大きい。思わず両手を真本さんの前に差し出す。テニスのダブルスで、ゲームを取ったときハイタッチをする癖が体に染み付いていたのだ。もちろん彼女に通じるわけがなく、出した手を引っ込めようとすると、ピアノを弾くならば苦労しそうな小さな手が、パチンと触れるのだった。