3-12 青春敗者たちの夜
火のないところに煙は立たないということわざがある。『根拠がなければ、噂は生まれない』といった意味合いだが、最近はなにもないところに放火をして、騒ぎ立てるたちの悪い人もいる。無理やり煙さえ立てれば、あとは風に吹かれるなりして勝手に広がっていくのだから、人を陥れるのは簡単だ。少なくともその実例を、僕は身近で知っている。萌波が苦しめられたやり方だ。
だから僕は、彼女の噂についてもさほど信じていなかった。聖やこはるちゃんの言葉を借りるならば、「目で見たものしか信じない」姿勢だ。もっとも、UFOを信じている聖と、お化けを信じているこはるちゃんを並べると、根拠が弱まる気もするが、デタラメの中にある真実を、面倒くさがらずに見抜くことは大事だ。
でも、本人の口から答え合わせされてしまえば。それを信じないのは現実逃避でしかない。
「浮気しただけでも、最低です。でも、私は自分に責任があることにしたくなくて、幼馴染の彼に全部を擦りつけました。そうして彼はどん底に堕ちて、私は浮気相手となにごともなかったかのように青春を過ごしていました。罪悪感がなかった、というと嘘になります。でも、自分を認めてくれる相手に簡単になびいてしまった私に、因果応報がこないわけがありません。全ては白日のもとに晒されて……今度は私が、どん底に堕ちました。それが今の、私です」
以上、ご清聴ありがとうございました――そんな言葉が聞こえそうな、一礼を一つ。拍手の代わりに、大雨が窓を叩き続ける。
「ずっと、悔やんでいるんだよね」
「今でも、私に向けられた軽蔑の視線は夢に見ます。今もそれは変わりませんが、あの頃に比べるとだいぶ優しいですよ」
強がっているようには見えなかった。実際に、そうなのだろう。噂でしか知らない転校先の僕らと、一部始終を見てきた転校前の学校にいる彼ら。より残酷になれるのは、後者のほうだ。人の噂は七五日というし、卒業さえすればいずれ真本さんのことを忘れてしまうだろう。でも、間近にいた彼らはそうじゃない。高校時代の思い出の一つとして、彼氏を裏切って因果応報の末路を辿った女子がいたと刻み込まれてしまう。いい話よりも、悪い話のほうが記憶に残るしね。
「これで、満足しましたか? 私は、綺麗な人ではありません。噂通りの悪い女で、これから先もずっと、後悔を続けるでしょう。それでも……分け合いたいだなんて、言えますか?」
力なく言い、緩やかに俯き飴を咥える。彼女の告白を望んだのは僕だ。なのに、頭の中の辞書にはどう言葉をかけるべきかは書いていない。だから僕は、心のままに動くことを選択した。
「僕もさ。ずっと後悔していることがある」
僕の言葉に、俯いていた真本さんは顔を上げる。彼女だけ過去を晒して、僕はだんまりを決め込むのはフェアじゃない。これからは、僕のターンだ。
「萌波ってさ、今はあんなんだけど……学校でいじめられていたんだ」
「えっ?」
わがまま三昧で騒がしい萌波と、いじめの三文字が結びつかなかったのだろう。目を丸くして驚いている。
「クラスでいじめられていた子を庇ったら、今度は自分が標的になった……よくある話だよ。そのいじめられっ子も、今度はいじめ側にまわる……いじめのテンプレだよね」
萌波がわがままになるのは心を開いた相手だけで、学校では授業態度もよく、どちらかというとそこまで目立つ子でもなかった。しかし、クラスで当たり前に行われていたいじめにうんざりして、いじめっ子と衝突した。それがトリガーとなって、すぐにいじめられる側になってしまう。大人たちが動いてしまうような目で見える傷を与えることはせず、悪評を流したり、萌波の宿題のプリントを隠したり、クラス全員で無視をしたりと、陰湿ないじめだ。先生に助けを求めても、まともに取り合ってもらえない。
当時の萌波の担任は、教師になったばかりの新任教師で、部活の指導や教材研究などハードな仕事に慣れておらず、そこにいじめ問題まで来るとパンクしてしまうと考えたのか、見て見ぬふりをしていた。許せることではない、でも同情もできてしまう。
「家に帰ると、萌波はいじめのことなんかなかったみたいにわがままに振舞うんだ。地中海風本格インドカレーを作ってとか、どうしろって話だよね。お兄ちゃんなのに、頼っても貰えなかった。萌波のSOSも見落としていた」
よくよく考えれば、サインはいくつもあった。それに気付いたのは僕じゃなくて、親友だった。あまりにも、情けない話だ。
「ずっと一緒にいるのにさ、僕はいじめられているなんて露ほども思っちゃなかった。聖の方が先に萌波の異変を察知して、いじめが起きていることをようやく知ったんだ。もっと早く、萌波を助けることもできたのにね。全てを知った時、萌波は笑ったんだ」
全てを諦めた、空虚な笑顔。それは真本さんにも、よく似ているものだった。
「僕はなにもできなくて、聖が介入したことで、全部明るみになったんだ。いじめた生徒や先生、学校にはそれ相応の処罰が下った。萌波と聖は結ばれてハッピーエンド……でもないんだ。萌波の心の傷はまだ癒えていないし……僕は、断罪されなかった」
無知であることは罪だ。すぐそばにいたのに、向き合おうとしなかった僕は、本来裁かれるべきなのに、萌波は許してくれた。「お兄ちゃんに心配かけたくなかったから」と言ってフォローまで入れる始末だ。聖も僕と相変わらず友達でいてくれる。ハッピーエンド側にいちゃいけないのに、僕はなに食わぬ顔で日常を満喫している。
萌波の一件を経て、中学校はどうなったのだろう。また新しいいじめが、起きてやしないか。ふと、家の前にいた彼女の顔を思い出す。僕を見るなり逃げた彼女は、謝りに来たのだろう。本来なら、僕も同じ立場なのにね。
「君が裁かれてどん底に堕ちたなら、僕は許されたことでどん底に堕ちた。むしろ、君より僕の方が最低で」
その続きは、言えなかった。真本さんが咥えていた飴が、僕の唇に触れていたからだ。そして、緩やかに伸びた腕が、僕の背中に回される。驚く僕の口に、「チェストっ」と飴が放り込まれる。
「真本、さん?」
「間接キスは、二度目なんです」
なにを言っているのか、一瞬わからなかった。でも、口に広がる甘ったるいラムネの味が、張られた伏線を回収する。
そうか、あれ……真本さんが舐めていた飴だったんだ。
「私は尻軽で股のゆるい女子だって評判なんです。だから、彼パーカーも間接キスも恥ずかしくありません。でも……ハグは、照れますね」
「じゃあ、離れたらいいのに」
「そうしたら、小宮くんがどこかに消えちゃうような気がして」
抱きしめる腕が、ギュッと強くなる。袖の下に隠れた指の一本一本にも力が入り、布越しに爪が突き立てられる。さっきは気付かなかったが、右手の小指の爪も少しだけいびつに切られている。消えちゃうだなんて、ここは僕の家だというのに。真本さんは逃がそうとはしてくれない。
「あの時、声をかけたのは……小宮くんが彼に似ていたからでした。でも、本当は私に似ていたのですね。だから、不思議と波長が合った……そんな気がします」
彼、とは幼馴染のことを指しているのは指摘されるまでもなく理解できた。でも、波長か。今まで意識したことなかったが、こんなシチュエーションだというのに不思議と温かな気持ちになっているのは、真本さんと波長が合っているから、なのかな。
「飴を舐め終わるまでは、こうしておいてあげます」
「……そっか」
自然と、彼女の背中に手が回る。ぬいぐるみを抱きしめるみたいに、どん底の僕らは確かな温もりを感じていた。甘ったるいラムネの飴が口の中から完全になくなるまで、互いに何も喋らず、滝のように振り続ける雨音と心臓の鼓音に身をゆだねるのだった。