3-11 それはよくあるテンプレートな物語
気持ち悪いとなじられることを覚悟で言うと、彼シャツとか、彼パーカーに憧れはあった。僕だって思春期の男子なわけだ。そういったちょっぴり大人な体験に興味関心は持っている。
しかし、いざその状況が訪れると「ラッキー!」とか「うっひょー!」とはならない。買った自分ですらお金をドブに捨てたかもと思うほどに、出オチのバーガーパーカーなら、彼女の色気が相殺されると思っていたのに。
「小宮さんの私服って、こんなダ性的なものばかりなのでしょうか」
「強引に個性的に持っていこうとしたね……」
逆効果だった。個性的なダサいパーカーですら、真本さんが着てしまうと破壊力が増してしまう。それは腹筋を壊す意味じゃなくて、僕の理性を壊してしまう意味での破壊力だ。ビジュアルが面白くて買ったせいで、僕が着るにしてもダボダボしてしまうオーバーサイズのパーカーだ。僕よりもやや小柄な真本さんが着ればどうなるか。袖からは指がちょこんと見える程度で、あまりにいけないことをしている感覚になる。
結論、彼パーカーと呼ばれるものはなにを着たとしても、男子はイチコロなのだ。カブキパーカーとか、一塁塁審パーカーとか、マッドな芸人ネイキッドザマショーの変顔パーカーみたいなダサいの向こう側にたどり着いたパーカーですら、きっと同じリアクションを取ると思う。
「とりあえず、会話するときは顔をみませんか?」
「無理言わないで! まともに見られないよ!」
「人をメデューサみたいに言わなくても……」
メデューサとは言い得て妙で、彼女を見れば石のように固まってしまう。なんせ彼女は、ただいまパーカーとショーツしか着ていない。大雨のせいで、下着もびしょ濡れになってしまい、一緒に洗濯機の中で回っている。幸いショーツだけはそこまで濡れていなかったようで、若干気持ち悪さはあるみたいだが、なんとか最後の一線を超えずに済んだ。
しかし、普段僕が部屋着にしている服を、彼女が着ている――この事実が、どうしようもなく僕をざわつかせる。生まれてこの方、浮いた話が一つもなかった僕からすれば、それはもう号外級の大事件だ
しかし、以外にも真本さんの方はそこまで恥じらう様子はない。思い返せば、バスタオル一枚でリビングに来た時も、この格好をしていることに怒っていたわけじゃなく、呼んでも来なかったことに眉を吊り上げていた。頬が赤かったのも、お風呂上がりだからだろう。
「真本さんは、恥ずかしくないんですか」
つい、敬語で聞いてしまう。言葉にしてしまって、禁断の質問をしてしまったことに気がついた。口元に手をかざしてみても、もう遅い。ソファーに座って、ひざを抱きしめ顔を埋める。
「いや、今のは違って……」
慌てて取り繕うとするも、正解にふさわしい言葉は浮かんでこない。うろたえる僕をちらりと見た彼女は、顔を見せないまま「初めてではないですから」と答える。その声色は平常通りに起伏はなくて、雨の音に負けないくらい、心臓の太鼓を雷みたいに叩き続ける。
最初からわかっていたことじゃないか。僕がどこかフィクションの中の存在だと思っているような当たり前を、同い年の彼女は経験している。僕の中で、天使と悪魔が天秤に乗る。やめろ、これ以上聞くなと止める天使と、なにも知らないまま、友達で居続けるのかとそれらしい言葉で誘惑する悪魔。右に、左に天秤は揺れて、最後には悪魔が勝つ。
「それは幼馴染の彼氏のこと? それとも……浮気相手のこと?」
顔を上げた彼女は、怖いほどに表情がない。怒りも悲しみもそこになくて、あるのは諦めの色。
「僕は君のことを、もっと知りたい。良いところも、悪いところもひっくるめて。だから、晒してほしい」
いくつものデタラメな噂に隠れて、僕は真本空音という女の子を理解できていなかった。こんなことを聞いたら、嫌われるかもしれない。人に拒絶されることが怖くないなんて、そんなセリフ僕には言えない。嫌われることがこれっぽっちも怖くなくなった人は、いつかは怖い人になってしまう。臆病だからこそ、僕は超えちゃいけない一線を超えずに生きてきた。
でも今、僕は彼女にとって超えて欲しくない一線を越えようとしている。その先にあるものは、暗闇かもしれないのに。
「それを知って、どうなるんですか」
どうするんですか、じゃなくてどうなるんですか。少し早口になり、責めるような彼女の答えは、僕の質問に向けてというよりかは、自問自答しているようにも聞こえた。眼鏡に守られた真っ黒な瞳の中に、震える僕が映っている。過去を知ることは怖い。もしかしたら、僕も真本さんのことを嫌いになるかもしれない。絶対にない、と言い切れなかった。好奇心で触れていいことじゃないし、それを知ってどうなるかは僕にもわからない。
ゴシップを外野から楽しむ生徒たちとは違うと言いたいから? 真実を知るただひとりの人間だと、優越感に浸りたいから? 浮かんできた理由を一蹴して、魔法の言葉を唱える。
「僕は、真本さんの友達だから。嬉しいことも、辛いことも分け合いたい……ってのは、ダメかな?」
滅びの呪文だということも、覚悟の上だ。整った鼻筋にしわを寄せて、何度もつばを飲む。その度に動く喉が、少しだけセクシーに見えて視線を逸した。「面白い話じゃないですよ」と前置きをしてゆっくりと口を開く。
「私には、幼馴染がいました。家が隣同士で、物心着いたときから私たちは一緒に過ごしていました。隣に彼がいるのが当たり前で、子供の頃からカップルだ夫婦だってからかわれて、当たり前のように恋人同士になりました。彼シャツも、付き合い始めてすぐの頃にやってほしいって言われたから、やったことがあるんです」
昔話を語る彼女は、どこか優しい口調で頬も少し緩んでいる。恋人同士になった幼馴染の存在は、今でも彼女の中で大きな割合を占めている。ぽっと出の僕の何倍もの時間を一緒に過ごしてきた彼と比較することすらおこがましいのに、そもそもそんな関係ですらないのに、僕は胃の中のものが逆流しそうな感覚に囚われてしまった。
「でも……幼馴染の延長で付き合っていた私たちの関係は、不安定なものでした。温度感や価値観の違いですれ違うことも多く、私も彼もお互いにうんざりすることが増えていきました。同時期に、ロシアから留学生の女の子が来ました。同性である私から見ても、綺麗で天使のような美少女です」
前に彼女は、「ロシアから来た子と、前に少しありまして」と言っていた。恐らく、彼女のことだろう。
「日本に不慣れな彼女の世話役に、彼が選ばれました。彼の人当たりの良さを、先生が買ったのでしょうね。私はそれが、面白くありませんでした。不満はあれども、お互い長い時間を一緒に過ごして、恋人になったわけで……嫉妬、していたんです」
ここで一旦区切って、深く息を吸う。吐き出すと同時に、彼女の表情が曇っていく。ここから先は、大雨だと暗示しているようだ。これ以上は聞きたくない、とひよってしまう。それでも、本当の彼女を知りたいという矛盾した気持ちも積もっていく。決めたじゃないか。嬉しいことも辛いことも分け合いたい、って。
両手で顔を拭いて、一度、二度と浅い呼吸を繰り返す。ずれた眼鏡を中指で戻し、続きを話し始めた。
「そんな中、私は違う男の子と仲良くなりました。彼とは違うタイプで、グイグイ来る男の子で……あまり、いい噂もありませんでしたが、彼との恋人関係に不満と不安を抱いていた私の心は、簡単に絆されてしまいました」
役者はこれで、全員揃った。懺悔室になったリビングで、彼女は自分の罪を語るのだった。
「彼氏がいるのに、私は……浮気してしまった。そして私は、噂の通りの末路を迎えました」
ずれてもいない眼鏡を中指で押し上げて、「私は最低の女の子です」と自嘲気味に笑った。雨はまだ、止みそうにない。