3-10 お約束
音楽記号のfが四つ五つついているくらいの雨の音に混じり、家の中で一番うるさい洗濯機の音と、一番熱い生活音が聞こえる。
人が清潔に生きていくために、美しくあろうとする美容のために、豪雨に晒されて冷たくなった体を温めるために、シャワー音はとめどなく流れる。我が家でも毎日のように聞いている音で、なにも特別なものじゃないのに。萌波でも聖でもない彼女がシャワーを浴びている、という事実が僕の心をざわめかせる。
どうしてこうなった、と問われると突然の雨が全て悪い。天気予報は大きく外れて、容赦ない大雨が降り注いでいる。すぐに止むにわか雨かと思っていたが、雨足は落ち着くどころかさらに勢いを増していた。
そんな中、さっきまで家でゲームをしていた女の子が、水が滴りすぎるいい女になってインターホンを押したのだ。不運にも持ってきた折りたたみ傘が壊れていた真本さんは、大雨の中僕の家まで戻ってきて、「傘を借りてもいいですか?」と問いかけた。体を震えさせ、血の気の引いた顔でだよ? 家に上げる以外の選択肢を取れる人は、恐らく邪悪な地球外生命体に体を乗っ取られている。
とにかく冷たい体を温めてもらおうと、彼女をシャワーに押し込んで今に至る。リアルタイム天気予報を確認すると、どうやら明日の朝まで強い雨が振り続けるみたいだ。もちろん、「天気予報を外してごめんなさい、お詫びに明日は晴れにします」という謝罪はどこにもない。あの後もテニスの練習を続けていたらどうなっていたか。大雨でテンションが上がる幼年期は、とっくに過ぎている。いや、萌波なら「映画のワンシーンみたいだね!」とかわけのわからないことを言って、『ショーシャンクの空に』ごっこをするかもしれない。
真本さんが帰ったかと思ったので、萌波に帰ってくるようメッセージを送っていたが、むしろ今帰ってこられると大変なことになる。まだ既読は付いていなかったので、メッセージは消しておく。しかし横尾家&萌波の晩ご飯はどうするのかな。まさかこんな天気の中、出前を頼んだりしないよね。
女子のシャワーは長いもので、大雨で全身びしょ濡れになればなおさらだ。断続的に流れるシャワー音が、彼女の裸体を意識させてしまう。同年代女子が憧れる、踏まれる前の雪のように滑らかな肌に水しぶきが弾み、身体を覆う白い泡が流れ落ちる。ダメだ、想像するな。どうしようもなくなるぞ、僕。
これ以上は限界だとイヤホンを耳に挿し、音量を最大にしてお笑い芸人のチャンネルを視聴する。この状況をコントや漫才で笑い飛ばしたいから……ではなくて、お目当ては料理動画だ。この人は料理芸人としても有名な人で、丁寧かつわかりやすい解説を面白おかしくしてくれる。肩書きこそは芸人ではあるものの、バラエティで笑いを取っているよりも、料理研究家として朝の情報番組に出ている印象の方が強い。
お昼に投稿された新しい動画は、春巻きの皮を使ったクレープ。動画の冒頭で「これは簡単で美味しいです!」と言うように、作り方は簡単で家である材料で作れてしまう。クレープの中に入れる具材のバリエーションもいくらでもあるし、これは一度作ってみたいな。頭の中でイメージ調理をしていると、肩をトントンと叩かれ「おひゃあ!」と情けない悲鳴をあげてしまう。振り返ると、シャワーから出てきた真本さんが、眉を吊り上げて若干怒っている僕を見下ろしている。
それも、バスタオル一枚で。
「わあああ! ど、どうしたの!? ば、バスタオル!? ふ、服は!? どうしたの!? どうしたのぉ!?」
しっとりとお湯で濡れた、艶やかな金髪の毛先からは雫がこぼれて、ほんのりと上気してシェルピンクに染まった頬へと流れる。いつもは萌波が使っているパステルカラーのバスタオルが胸を隠す。真本さんが使うにはちょっと小さくて、余った布地から見えちゃいけないものが見えそうになっている。タオルから見える足は白磁の芸術品のように美しく、僕が足フェチの殺人鬼だとしたらここで襲いかかっていたはずだ。右足の小指の爪だけ少し長めなことすらも、色っぽさを感じてしまう。目を閉じても、のぼせた彼女のビジョンが湯気の中から見え隠れする。気持ちを落ち着かせるために「家康、秀忠、家光、家虎、綱吉、家宣」と徳川十五代将軍を順番に唱えると、真本さんは呆れたようにため息をつく。
「家綱」
「へ?」
「家光と綱吉の間に、家綱です。誰ですか? 徳川家虎って」
オリジナル将軍を生み出してしまうくらい、動揺していたみたいだ。家はともかく、虎はどこから出てきたのだろう。井伊直虎からかな?
「ずっと、小宮さんを呼んでいたんです。でも、一向に来てくれないから、私から向かったんです」
シャワーの音から逃げようと、料理動画を最大音量で視聴していたせいで、全く気がつかなかった。そのせいで、バスタオル一枚という扇情的でアウトな格好になっていた……あれ?
「着替えって」
「まさかこんな雨が降るとは思ってもいなかったので、持っていませんよ。だから、お借りしたくて何度も呼んだのに、小宮くんは美味しそうなクレープの動画を見ているから」
真本さんもシャワーに入って、着替えがないことに気がついたらしい。濡れた服は洗濯機の中でぐるぐる回っているので、僕になにか着るものを持ってきてもらおうと、恥を忍んでこの格好でここまで来たのだ。
「ちょっと待っていて。萌波の服……はダメだ。あいつ、勝手に使わせると絶対不機嫌になる」
萌波は自宅警備員だが、お洒落にはかなり気を使っている。家の中にいても、デートに行くときのようにおめかしするほどだ。それに、真本さんとは身長差があるから服を貸してもピチピチになるかもしれない。
となると、取れる手段はひとつだけ。
「ホントごめん、真本さん。これしかなくて」
タンスの中から、一番大きなパーカーを持って彼女に渡した。彼シャツならぬ、彼パーカーと呼ばれてしまうものだ。
「それはいいのですが……これ、ダジャレで買いましたか?」
「バレた?」
黒いパーカーの真ん中には、三段重ねのボリューミーなチーズバーガーの写真が貼られている。僕の人生において、最大の失敗買い物だった。そこ、バーカーとか言わないの。