3-7 ラケットを持ってみよう
「んじゃま、始めようぜ。真本とこはるちゃんは初心者だし、海智も練習再開したと言ってもブランクあるしね。今日は軽めにやっときますか」
ラジオ体操とストレッチを済ませて、テニスサークル『MAGMA』の活動がスタートだ。
テニスを始めるのに必要なものは、ラケット、ボール、テニスシューズ、テニスウェアだ。テニスウェアは動きやすい服なら代用できるし、テニスボールとラケットはこっちで用意した。もともと僕の母さんと聖のおばさんは、高校の女子テニス部の先輩後輩関係で、使っていたシューズがそれぞれ、真本さんとこはるちゃんの足のサイズにぴったりだった。
本当はもっと自分に合ったものを買うべきだが、お試しでやってみて合わなかったとき、結構なお金をドブに捨てることになる。ラケットもテニスシューズもそれなりにお値段がするから、使わなくて物置で眠らせてしまうのはもったいないのだ。
「どうでしょうか? テニスラケットを持つのは初めてなので、似合っていないかもしれませんが」
「いや、様になっているよ。ベストマッチじゃないかな?」
ラケットを持っただけなのに、少し照れくさそうにしている。真本さんはボーイッシュでスタイルがいいので、よく似合っていた。こはるちゃんは背が低く、若干ラケットが大きく見えるが、それはそれでかわいらしい。小さな子には大きな武器を持たせたい同好会の会長なので、こはるちゃんにはデスサイズとかハルバードを装備してもらいたい。
「よっ、とと、わっ、難しいなあ」
マネージャーの萌波はというと、特にやることがないのか人差し指にラケットを乗せようとして、何度も落としてを繰り返している。僕も漫画に影響されて練習してみたが、これがなかなか難しい。
「わわっ、真本先輩すごいですっ」
「バランス感覚とか体幹が優れているってことでいいのか、これ? 動画にすればバズるんじゃない?」
そんな中、真本さんは涼しい顔をして上に立てた人差し指の上に、ラケットを乗せた。そのまま微動だにせず、それどころか片足を上げひざを九〇度曲げても、ラケットはほとんど揺れていない。まるで指かグリップエンドに接着剤がついているみたいだ。
「むー! 私だってそれくらいできるもん! ジャンプできるもん!」
変な対抗意識を燃やした萌波は、再びラケットを指に乗せる練習を始めた。本人が楽しそうだから放っておこう。
「まずはラケットの持ち方からだね。いくつか持ち方はあるけれど、セミウエスタングリップがいいかもね」
教える人によって、初心者はこう握りなさい! の説明はバラバラだが、今一番浸透しているのは、ラケット面がやや下向きになるセミウエスタングリップだろう。僕らも一年生の時に最初に教えてもらった持ち方だし、本屋に並んでいる教本でもこれをオススメしているんだとか。幅広い状況に対応できるバランスのいい持ち方だ。
「こうですか?」
ラケットを持った真本さんが僕に確認を求めている。僕の説明があまりよくなかったのか、少し持ち方が違う。
「ちょっと違うかな。こうやってね」
ラケットを握る手を開いてあげて、正しい場所に持っていく。そしてそのまま、握らせる。
「なるほど、なんだか理解できた気がします……でもこれ、セクハラですよね?」
「ええっ!? あ、いや、その……」
現役時代、後輩たちに教える感覚でいたので、ごくごく自然に真本さんの小さな手を触ってしまった。肩を丸めて僕から距離を置く。うまくいいわけが思いつかずあたふたしていると、「イッツア冗談」と舌を出す。毎度のごとく、からかわれてしまったらしい。
「それくらいでセクハラになるなら、世の中のテニスインストラクターさんは仕事ができませんよ」
「からかわないでよー! 真本さん、テンションが変わらないから冗談なのか本気なのかわかりにくいんだし……」
僕で遊ぶために、わざと間違った握り方をした可能性まである。油断も隙もない子だ。こはるちゃんの方はどうだろう。
「持ち方はいいけど、ちょっと握力入れすぎかな? 握るってよりも、支える感じで……」
「わかりましたっ!」
真本さんよりも小さな手で、目いっぱい握っていたので少し余裕を持たせてあげる。力を込める必要があるときもあるが、あんまり入れすぎるとボールがコントロールできず、怪我にもつながる。適度な脱力が大事なのだ。
「ごめんね、教えるためとはいえ手を触っちゃって」
「お気になさらずっ! 柔道をやっていた頃は、男の人とも試合をしましたから、これくらい慣れっこですよっ」
こはるちゃんのこの反応は少し意外だった。でも、柔道をやっていると、ボディタッチが大らかになるのかもしれないな。それとも、僕が異性として意識されていないからか。僕じゃなくて聖なら、顔を真っ赤にしてあたふたしていた可能性がある。ちなみに聖コーチは、萌波の監視のもと体が触れる指導は禁じられていた。
「あっ、私も恥ずかしがった方が女の子らしかったですよね? やはは、次からは恥じらうようにしますっ」
「それだと僕がやりにくくなるから、無理に恥じらわなくてもいいよ」
みんなして僕をからかおうとして! ふぅと一息ついて気を取り直し、二人に素振りをしてもらう。これについては、いい先生がいるので彼に任せよう。
「今はどうか知らないけれど、中学の頃、聖は市内で一番フォームが綺麗って言われていたんだ。動画で見るよりも、実際目の前で見た方が勉強になると思うから、穴が開くまで聖を見てね」
「ハードル上げすぎだって」
苦笑いしながらも、聖はお手本のようなフォームを見せてくれた。男女で多かれ少なかれ差異はあるにせよ、彼の動きを真似れば効果は出てくるはずだ。基本に忠実で無駄のない彼のプレースタイルを、名前を取って『テニスの聖書』なんて呼ぶ人もいるとかいないとか。
「ボールはまだ打たないのー?」
「いきなりボールは触らないよ。まずはラケットの重さに慣れなきゃいけないからさ」
これくらいで飽きてしまうなら、萌波はテニス部に向いていないかもしれない。少なくとも、中学時代のテニス部では一年生はほとんど練習させてもらえず、球拾いと素振りがメインだった。漫画やアニメに憧れてテニス部に入った人も、それが苦痛で何人か退部した。
体験入部時点でセンスを認められて、特例で練習に参加できた聖が打ったボールを拾いにいくのは、正直惨めだった。この時点でこいつには勝てっこないって決め込んでいたんだと思う。それでもテニスを中学三年間続けたのは……どうしてだろう。地道に頑張り続ければ報われるって期待していたのかな。