3-5 テニスの王子様と不安な影
中学時代、テニス部の顧問に「ラケットを一日触らないだけでクソ下手になる」と口酸っぱく言われてきた。一日で上手くならないんだから、一日で下手になるわけがない、気持ちの問題だと思うかもしれないが、練習が休みの日でも触っていないと、一気に腕が鈍ってしまう。テスト明けの練習なんて、それはもう酷いものだった。
一日だけでも自覚するくらい下手になるのに、それが一年間のブランクとなるとどうなるか。ぶっつけ本番で二人の前で恥をかくよりかは、前もって練習しておこうと高架下のコートに来た僕だったが、ボールが狙ったところに飛ばない飛ばない。なんならサーブを打とうとしても、スカッと空振りをしてしまう始末。部の練習終わりに付き合ってくれた聖も、向こうのコートで苦笑いをしていた。
「こんなに下手になっていたなんて……」
頭上の線路で電車が通り過ぎると、もたれかかったフェンスが音を立てて揺れる。中学の頃は練習が終わったあと、ここで居残り練習をしたものだ。久しぶりに訪れたが、壁に描かれた前衛的なスプレーアートは前にはなかったはずだ。
「お疲れさん。久々に触って、楽しかったろ」
「このまま第一回練習を迎えていたらと思うとゾッとするよ」
ジョギングを最近始めたとはいえ、ヌクヌクと過ごしていた僕に三〇分以上の運動は厳しかった。聖が買ってきてくれたスポーツドリンクを、グイっと飲んだ。
「今日はこの辺にしとくか。あんまり遅いと、もなちゃんが不機嫌になるだろ?」
「だね。さっきから晩ご飯はやくーってメッセージが止まらないもん」
運動後のストレッチをして、帰路につく。ラケットを振り続けていたから、右腕が重く痛い。でも、嫌いな痛みじゃない。なんだかんだで、必死にボールを追いかけていたあの頃は楽しかったもんな。帰ったら湿布を貼っていたわっておこう。
「主人公にはなれそうか?」
「さあ、どうだかなぁ。頑張ってはいるんだけどね」
「クールな眼鏡っ子の真本と、小動物系で放っておけないこはるちゃん。傍から見れば、海智も立派な主人公に見えるぞ?」
女子二人と僕の構図は、ラブコメにありがちな三角関係だ。だがそこに恋愛感情なんてものは一ミリもない。こはるちゃんなんか、ちょっと前まで聖に恋心を抱いていた子だし。かわいい子だと思う。でも、傷心した彼女に付け入るようなマネはできない。お昼を一緒に食べるようなお友達関係が心地いいし、それを壊したくなかった。
「二人とも、いい相手がすぐに見つかるよ」
「真本とこはるちゃんだぞー? ふさわしい奴なんて、そうそういないでしょ」
どちらも美少女だし、性格もいい。悪い噂さえなければ、真本さんと僕と知り合うこともなかっただろう。こはるちゃんも、聖の幼馴染という立場があったからこそ、交流するようになったわけで、棚から落ちたぼた餅を拾ったにすぎない。聖のいうふさわしい奴の候補には、僕の名前は入っていないのだ。
「もしさ。萌波と付き合ってなかったら、こはるちゃんの告白を受けていた?」
意地の悪い質問だと自分でも思う。でも、もしかしたら。萌波じゃなくてこはるちゃんと付き合っている可能性もあったんじゃないかと、なんとなく思ってしまったんだ。
「多分、受けていたんじゃないかな。こはるちゃんいい子だし、一緒にいて楽しいし。フィーリングが合うっていうか……朝起きたときに、あの子の顔があると幸せだろうなとも思うよ」
頬をかいて照れくさそうに笑う。僕も同じことを想像してみる。朝日を浴びて目が覚めたとき、そばに赤毛の彼女がいる。とろけた目で優しく微笑んで「おはようございますっ」って弾んだ声で言うんだ。たまらない光景だ。
これがもし、真本さんならどうだろう。一日の始まりに見る彼女はまだ少し眠そうで、柔らかな陽の光がはちみつ色の髪をきらめかせている。寝ぐせのついた髪を整えながら、気だるげに「おはようございます」って言うんだ。そうして、枕元の飴を僕の口に入れて――。
「頬、緩んでまっせ」
「わっ、違うよ! 真本さんで変なことを想像していないからね!?」
「へえ、今んとこは真本が一歩リードか」
「そういうのでもないから!」
顔の前で手をブンブンと振るが、聖はニタニタと笑っている。当分これは擦られてしまいそうだ
「冗談だよ、冗談。それと、さっきのオフレコね。もなちゃんには黙っていてくれよ?」
「話さないって。不機嫌になった萌波を慰めるの、骨が折れるんだからね」
不機嫌モードの萌波は、いつも以上にわがままになる。昔から僕と聖はお姫様の機嫌を取るため振り回されてきたものだ。萌波と付き合う男の子は苦労するだろうなあと思っていたら、まさか聖がそこに収まるなんて、予想だにしていなかったな。
「違いない。ま、そのわがままなとこもかわいいんだよな」
「ノロケごちそうさま」
僕は苦笑いを浮かべつつまだ少し残っていたスポーツドリンクを飲み干す。それからも、他愛のない話をしながら歩いていると、聖が立ち止まる。
「タンマ」
「へ? どうかした?」
さっきまで変顔混じりに誇張しすぎるモノマネ芸人の話題で笑っていたのに、急にシリアスな声色に切り替わった。眉をひそめ険しい顔になって、勢いよく振り向く。つられて僕も後ろを向いたが、犬の散歩中のおばさんがいるだけ。いきなり目の前の男子二人が振り向いたものだから、びっくりしたおばさんは犬を抱えて早足で逃げていった。
「後ろから誰かが尾行している……気がした」
「あのおばさんじゃなくて?」
「ああ、多分違う」
冗談を言っているようには見えなかった。聖の声は、かすかに震えている。僕も嫌な汗がタラリと背中に流れて、ジャージの下の体操服が気持ち悪くベタついた。
「聖女子、かな」
聖に直接声をかけられなくて、ストーカーみたいな行動をとった子は何人かいた。でも聖はそうじゃないと考えているらしく、「そうじゃないと……思う」と曖昧に答える。
「うまく説明できないけどさ、いつものそれとは違うんだよ。なんつーか……敵意を感じた、というか……」
「恨まれるようなこと、したの?」
そんなことをする奴じゃないのは、僕が一番理解しているつもりだ。だが、なんでもできてしまうがゆえに、優しいがゆえに、無自覚に誰かのプライドを傷つけてしまったとしたら。燃えるような敵意を、向けるかもしれない。
「案外、海智の方だったりしてな」
「ええ!? いや、どうして僕が!?」
恨みを買われるようなことをした記憶はない。でも、僕が気づかないうちにやらかしたとすると……。
「真本やこはるちゃんと仲良くしているってだけで、嫉妬の対象だぞ? 二人ともタイプの違う美少女だからね」
「むぅ……二人が変な目に遭うよりかは、僕が被害受ける方が遥かにマシだけどさ」
二人にも変なことがなかったか、聞いておくべきかもしれない。早足で家に帰った僕らは、シャワーで嫌な汗を流した。風呂に入る前に二人に送っていた『最近変なことはなかった?』のメッセージに、どちらも『なかった』と返ってきた。ひと安心するとともに、嫌な予感がよぎってしまう。
「お兄ちゃーん! おなかすいたよー! かわいい妹を餓死させるつもりー?」
「あ、うん。今作るね」
「今日はアルゼンチン料理の気分だからね! よろよろ~」
「あ、アルゼンチン!? また変なリクエストを……ウィーマドモワゼル。張り切って美味しいのを作りますか」
得体もしれないなにかに怯えている兄に対して、わがまま姫というと容赦なく無茶振りをしてくる。いつもなら呆れるところだが、夜の闇に紛れた尾行者という非日常的な恐怖から、僕を日常へと引きずり戻してくれた。萌波は僕にとって、なんてことのない日々の象徴なんだ。アルゼンチン料理と言われても、どんなものがあるか知らないが、気合を入れて作ってあげますか。
「うっし、今日は俺も手伝うかね。包丁使うやつ以外ならなんでもするぜ」
「ええ! ひーくんが料理するなら私も手伝う! 味見なら任せて! 私の舌は神の舌って呼ばれているから!」
我が家において唯一ともいえる僕の聖域に三人で立つには少し狭い。それに、正直二人はそこまで戦力にならない。包丁が怖くて持てない男と、作るより食べる派のつまみ食いの常習犯だ。でもまあ、たまにはこういうのも悪くないかな。