3-2 こはるちゃんと走ろう
ジョギングは一日にしてならず。健康的な日常を過ごし引き締まった体を手に入れるために、ここ数日は早起きするようになった。朝起きて最初にやることは天気の確認だ。雨が降るとジョギングは中止になり、自室で筋トレメニューをこなすことになっている。昨日は一日中雨が降っており、お昼も真本さんと人気のない教室で食べたが今日は雲ひとつない爽やかな五月晴れだ。
一人だけならば、三日坊主にもならなかったかもしれない。でも一緒にやる相手がいるとシャキッとした気持ちになる。まだ寝ている我が家のアイドルたちに行ってきますと伝えて、朝のラジオ体操すら始まっていない公園に向かった。
「おはようございますっ、先輩! 昨日走れなかった分、今日はいい汗をかきましょうねっ!」
僕を見つけるなり駆け足でやってきた。まだ寝ぼけ眼な僕とは対照的に、しゃきっとした目をしている。早寝早起きを心がけているのだろう。えらいえらい。
「おはよう、朝から元気だね」
「はいっ。元気だけが私の取り柄ですからっ!」
プール裏でラブレターを渡して欲しいと頼まれた時は、おどおどした気弱な小動物系女子かと思っていたが、人は見た目によらないもの。走り終えて肩で息をする僕の隣で、彼女は息一つとして乱すことはない。小さな身体に、柔道で鍛え抜かれたパワーがつまっている。例えるならば小型犬だ。ある日ひょこっと犬耳と尻尾が生えたとしても、気付くのに時間がかかりそうだ。
「石坂さんを見ていると、こっちまで頑張らなきゃって気持ちになるよ」
「あの、前から言おうと思っていたのですが、石坂さんじゃなくてこはるでいいですよっ。みんな下の名前で呼んでくれますし。ひらがな三つでこはるです」
小春か小晴のどっちだろうと考えていたら、ひらがなで『こはる』だったようだ。名は体を表すという言葉があるが、彼女を見るとなるほどとも思ってしまう。妹以外の女の子を下の名前で呼ぶのは少し恥ずかしいが、石坂さん呼びよりもしっくりくるので、聖を倣ってこはるちゃんと呼ぶことにした。
「いち、に、さん、し」
「ごっ、ろくっ、しちっ、はちっ」
二人で並んでラジオ体操をする。怪我を防止するためにも、準備運動は大事だ。ラジオ体操二番までやって、お次はストレッチ。ふくらはぎやふともも付近の筋肉を伸ばし、ピョンピョンとジャンプをしたり、股関節や肩を軽く回したり。体の準備ができれば、ジョギングのスタートだ。
「古今東西、国の名前! フランス」
「ロシアっ」
「イタリア」
「アメリカっ」
二人でジョギングするときは、会話をしながらできるペースが理想的らしい。最初のうちは世間話をお供にしていたが、こはるちゃんが「せっかくですし、ゲームしながら走りませんかっ」と提案してきた。それがこの古今東西ジョギングだ。先に五勝した方が負けた方に、なんでも一つお願いができるというルールで、僕らは対決していた。今のところ四勝四敗のシーソーゲームで、今日こそ決着がつく。「どんなお願いしようかなぁ」と楽しげにしているこはるちゃんには悪いが、僕もゲームに負けるのは嫌だ。
「オーストラリアっ」
「ツバル」
「えっと、スイスっ」
テンポよく国の名前が飛びかい、なかなかラリーが終わらない。国の数は確か一九〇以上だが、僕も彼女も全部覚えているわけじゃないので、それっぽいカタカナを並べてもシレっと続いてしまいそうだ。実際ツバルって答えたら、こはるちゃんビックリしていたし。あれは「そんな国あるんですねっ」って表情だ。
「アルゼンチン」
「っと、チューバっ!」
「フィンラ……ちょい待ち! こはるちゃん、今なんって言った?」
「えっ? チューバって……あれ?」
確かにそれっぽい名前だ。後ろに共和国とかつければ本当にあるんじゃないかとも思ってしまう。でも僕は引っかからないぞ。
「チューバは楽器でしょ。トランペットのお化けみたいな、大きな」
中学の頃の友達に吹奏楽部に入っていたやつがいた。彼が吹いていたのが、チューバという重低音を響かせる楽器だ。それを知らなければ、僕はそのままフィンランドと答えていたかもしれない。
「ああっ、そうですっ! じゃあ、私の負けですかっ!?」
「ふっふー。これで僕の五勝だね」
こはるちゃんはジョギングを止めてガックシと肩を落とす。でもいい勝負だった。正直、僕の方も国名ストックが切れかけていたし、なにより最初の方に答えた国の名前の記憶があやふやになっていたので紙一重の勝利だ。
「くぅ、悔しいです……でも、負けは負けですからねっ。石坂こはる、どんな辱めも耐えてみせますっ!」
「いや、そんな変なことはしないよ?」
「そうですか? こういうときって、恥ずかしいコスプレを強要されるってのが相場だって、漫画で読みましたが」
ずいぶんと欲望に忠実な漫画だ。特にお願いの内容は考えていなかったが、こはるちゃんを着せ替え人形にするのも楽しいかも知れない。制服とジャージ姿しか見たことないが、素材がいいしメイド服もナース服も似合いそうだ……うん?
「もしかしてこはるちゃん、僕が負けたら恥ずかしい服着せようとしていた?」
「そ、そんなことないですよっ! やはは……」
気まずそうに目を逸らされた。これは図星だな、間違いない。
「とりあえず、特になにも考えていなかったから、走りながら決めるよ」
「分かりました。覚悟の準備をしておきますねっ」
と気丈な態度を見せるが、明らかに凹んでいる様子だ。走るフォームもいつもに比べて雑になっている。イップスで柔道をやめたとはこはるちゃんの談だが、あまりメンタルが強くないのかもしれない。テニスもそうだが、スポーツはメンタルに左右されてしまう。実力差があっても、その時の心の持ちよう次第で大番狂わせが起きてしまう。加えて、精神面なんて目で見えるものじゃないしね。
罰ゲームじゃなくてお願いなんだし、どうせならこはるちゃんにもプラスになる方がいい。隣で彼女の息遣いを聞きながら、僕は一人の女の子の顔を浮かべていた。こはるちゃんや僕と同じく、青春のレールからあぶれてしまった、金髪の彼女。もし、二人を引き合わせたら。どんなことになるのだろう。
「決めたよ、こはるちゃん。お願い内容はね」
「はいっ! なんでしょうか……」
「先約があるなら、無理にとは言わないよ。でももし、できるなら。友達になってほしい人がいるんだ」
このお願い内容は予想外だったらしく、キョトンとしてパチクリと瞬きを一つ。電柱に貼られた、『うちの子、探しています』と書かれた迷い犬捜索の張り紙に載っている、柴犬の写真と同じ角度で首をかしげた。