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3-1 こはるちゃん登場

可愛い後輩が参戦します

「いち、に、さん、し……」


 家の近くの公園では、朝六時半からラジオ体操をやっているという。僕たち子供からすると、夏休みの朝にやったり、体育の授業の前に準備運動として行ったりであまり存在意義を実感しないだろう。しかし、実はこれ結構効果があるのだという。目覚まし時計を五時半に鳴らしてジャージに着替えた僕は、まだ眠気のある頭の中で例の音楽を流して全身運動をしていた。


「お兄ちゃん、テニスやらなくなってから太ったんじゃない? やっぱり、お肉付いているじゃん。だらしないなあ」


 呆れた様子の萌波もなみの言葉が蘇る。昨日、体重計に乗ってみると確かに太っていた。身体測定の数字もあまり意識していなかったため、大して変わっていないと思っていただけで、実際の数値を見るとテニスを引退してからというものの、徐々におデブに近づいていた。

 助演男優をやめて主人公になると心に誓っておきながら、この体たらくはよろしくない。しかし一年以上ブランクがあるのに、今さらテニス部に入るのも厳しいだろう。毎日ヘトヘトになって家に来るひじりを見ると、僕が参加すればどうなるか。足腰ガクガクで歩くこともできないんじゃないかな。


 ということで、できる範囲から少しずつ腑抜けた体をいじめることにした。いきなり激しい運動をすると、すぐにやめてしまいそうなので、町内ジョギングを始めようと決めたのだ。萌波とロンロンはまだ眠っている。朝練のある聖も、この時間にはまだ起きていないだろう。

 思いつきで始めたので、ランニングシューズはまだない。代わりにテニスシューズを履いて外に出る。体重は増えても、足のサイズは変わっていない。ついでに、身長も変わっていない。体重くらい簡単に背が伸びればなと思うのは僕だけじゃないはずだ。

 空はほんのりと明るくなっているがお昼頃から雨が降るとニュースで言っていた。そういえば。雨が降った場合、真本さなもとさんはどうするのだろう。自分のことに無頓着気味な彼女は、最悪雨が降ったとしても、いつもの木の下で飴を舐めていそうな気もしなくはない。さすがにそれはないか。


 町はまだ起きておらず、鳥の歌声くらいしか聞こえない。それもそれで味があるが、走るだけの単純作業のお供には物足りない。耳にイヤホンをつけて、スマホからお気に入りのバンドの新曲を流す。程よいテンポの楽曲で、僕の両足もそれにつられて前に進んでいく。眠気もいつの間にかなくなり、いい感じのコンディションだ。

 しばらく走っていると、交差点で信号が青から赤になってしまう。ここの信号は、やけに赤が長いと不評だった。こんな早い時間に走っている車なんてないとはいえ、給水タイムということで近くの自販機でスポーツドリンクを買い、汗をかいた体に潤いを与える。テニス部時代、練習の休憩中に飲んだスポーツドリンクに勝る美味しいものを、僕はまだ知らない。


「あれ? もしかして、小宮先輩ですか?」

「へ?」


 イヤホンから流れる音楽の外から、爽やかに吹き抜ける春風のようなかわいらしい声が飛んできた。振り返ると、僕と同じくジャージを着た、小さな赤い髪の女の子。ひじりに告白した女の子で、こはるちゃんって呼ばれていたっけ。


「私ですっ、石坂こはるです。おはようございますっ」

「おはよう、石坂さん」


 イヤホンをとって挨拶を返す。ラブレターを渡して欲しいと頼まれたとき、彼女は名乗っていなかったのでこはるちゃんという名前しか知らなかったが、名字は石坂というらしい。石坂こはる――名は体を表すというが、彼女を含めて適当に女子を五人並べて、誰が石坂こはるさんでしょうかとクイズを出せば、みんな彼女だと答えるだろう。それくらいピッタリな名前だ。


「先輩も、ジョギングですかっ?」

「うん、最近運動をしていなかったからね。もってことは、石坂さんも?」

「はいっ! 私、毎日朝はジョギングしているんですっ。そうだ、先輩さえよければ、一緒に走りませんか? 一人よりも二人ですっ」


 石坂さんのお誘いに、「うん」と首を縦に振る。ぼっちで走るよりも、誰かと一緒の方が楽しいだろうし。毎朝走っているというだけあってか綺麗なフォームで走っている。


「そういえば、柔道やっているんだっけ?」


 見た目はかわいらしい小動物系女子だが、意外にも柔道部だという。石坂さんは見た感じ、一四五センチもなさそうに見えた。女子高生の平均身長がいくらなものかはわからないが、萌波もなみの身長がそれくらいというので、比較するとかなり小柄だ。そんな小さな子が、背負い投げを決めるというのはロマンに溢れている。

 朝練もあるはずなのに、それよりも早い時間からジョギングなんて、たいした張り切り娘だ。しかし、僕の問いかけに寂しげな目を見せる。


「やはは……正確に言えば、やっていた。なんです」

「えっと、辞めたってこと?」

「はい。ちょっと、いろいろありまして。イップスになっちゃったんです」


 ザックリ説明すると、イップスとは精神的な原因でスポーツ中の動作に支障をきたして、体が思うように動かなくなることだ。野球やゴルフ、僕がやっていたテニスでも珍しい話ではない。でも柔道にもイップスがあるというのは初耳だった。


「イップスにかかってから、思うように動けなくなって。それで、柔道はやめたんです」

「そうだったんだ。ごめんね、辛いこと聞いちゃって」


 立ち止まって謝ると、彼女はブンブンと手を振って「気にしないでくださいっ」と答える。


「どっちにせよ、柔道は中学までって決めていましたから。それが早くなっただけです」

「高校で、やりたいことがあったの?」


 そう問いかけると、少し照れくさそうに口に手をかざして、「彼氏が欲しかったんです」と小声で言う。


「小学校からずっと柔道を続けていましたが、全っ然! モテないんですっ。私も年頃の女子ですから、色恋には興味がありまして……入学して早々振られちゃいましたけどね……やはは」


 モテない、というところに異議ありと叫びそうになるが、飲み込んで続きを聞くことにした。『かわいらしさ』では、僕が今まで出会った女の子の中でもトップクラスだ。告白した相手がひじりでなければ、その場でカップル成立していただろう。


「ビギナーズラックってあるじゃないですか。初恋でも通用すればいいなって思いましたが……そんなに、甘くなかったです。横尾先輩の彼女って小宮先輩の妹さんなんですよねっ。きっと、いい子なんだろうなぁ」

「うん。わがままだけどいい子だよ」


 彼女がいると伝えたと言っていたが、萌波もなみのことまで話していたのか。それほど、彼女のことを信頼しているんだ。萌波に負けないくらい、いい子に違いない。


「石坂さん。僕は君に謝らないといけないことがあるんだ。あの時、本当は聖に彼女がいることを知っていたんだ。でも……」

「言えるわけありませんよ。先輩に彼女がいるって広がれば、誰と付き合っているんだろうって大騒ぎになりますからね。それに、自分の口でちゃんと伝えて断られたので、悔いはありません」


 そう言って石坂さんは笑ってみせる。柔道にも、聖にも未練はありませんと明るく振舞うが、顎が震えて無理をしているのが見て取れた。


 彼女は、キラキラした青春にあぶれてしまったんだ。そしてそれは、僕や真本さなもとさんも同じだって、そんな気がしていた。

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