2-9 君に笑って欲しいだけ
二章は以上になります。
僕の通う学校にはプールはあるものの、水泳部は存在しない。昔はあったらしいが、部員が部室でセックスをしていたのを先生に見つかったとか、隠れて麻薬を栽培していたとか、プールに幽霊が出て練習中に足を引っ張ってくるだとかで廃部になったという。噂はいろいろあるが、真相は不明だ。実際は部員がいなくなったのが原因だろう。
水泳の授業もないので、プールにはもう水は張られていない。なので立ち寄る人もほとんどいない、隠れスポットだ。
「はい、真本さん。お弁当を持ってきたよ」
「ありがとうございます」
今日のお昼も、ここにいるのは僕と真本さんの二人だけ。並んで座り、ズボンとスカートを土で汚す。少し荷物になるが、次からレジャーシートを持っていった方がいいかもしれない。
「どうかな? ちゃんと尻尾の白いパンダ、作ってみたんだけど」
「かわいいですよ。小さな子供が喜びそうです」
写真を撮りながら答えた。その小さな子供の中に、身長一六〇センチ前後の彼女もカテゴライズされている。写真を撮って、おにぎり以外から手をつけ始める。お気に入りは最後にとっておくタイプのようだ。
男女二人でお手製のお弁当をつつくが、そこに甘い空気が生まれるわけでもない。少しはマシになったが、彼女との間には分厚い壁があった。
「口に合わないものがあれば言ってね」
「作ってもらっておいて、言えるわけがありませんよ。前も言いましたが、魚とロシア料理以外なら大丈夫なので」
「それなんだけど、ロシア料理ってどうしてダメなの?」
ずっと気になっていたことだ。ピンポイントな苦手の理由を聞いてみると、「ロシア料理ってより、ロシアの人が苦手なんです」と返ってきた。余計ピンポイントな理由だった。
「坊主憎けりゃ、ってわけじゃないですが……ロシアから来た子と、前に少しありまして」
「そっか」
「なので白青赤の順番で並んでいるものも苦手ですし、原翔太さんもだめです」
なんのことかと思った、ロシアの国旗カラーとロシア語のハラショーのことを言っていたのか。
「名字に原ってついてたら、略したあだ名つけられがちだもんね」
中学校の時のクラスメイトにも、原田拓久、略してハラタクくんがいた。思い返してみると、僕ってあだ名がなかったよな。小宮、もしくは海智であまり面白みはない。
「真本さんはどうだった?」
「どうだったというと、あだ名ですか? 真本からとってサナとか……くぅ、とか」
少し恥ずかしそうに、小声でぼそり。
「かわいいじゃん。僕もくぅさんって呼ぼうかな」
「やめてください。恥ずかしくて爆発します」
相変わらず表情に変化は少ないが、声までは誤魔化せないらしい。色がつくならば、ほんのりとした赤色の声だった。
「ごちそうさま、美味しかったです」
「お粗末様でした」
トリに残したパンダおにぎりも食べて、手を合わせる。やっぱり美味しいと言ってもらえると、嬉しいものだ。次はなにを作ろうか、考えるのも楽しくなる。
「私は、許されるべき人間ではありません……ささやかな幸せくらいは、受け取ってもいいんでしょうか」
まただ。自嘲と自虐が癖になっているから、息を吸うように自分を傷つけてしまう。お昼ご飯を食べる、それだけのことすらも後悔が邪魔してしまうんだ。
同じ空の下で、朝のあの子も苦しんでいるのだろうか。何をするにしても、萌波を裏切り傷つけた事実が、影のようにピッタリとくっついてくる。
「……真本さんが幸せを感じることで、幸せになる人もいる。そう考えれば、少しは楽にならないかな? 少なくとも僕は、そうだよ」
「どうして、私にそこまで言ってくれるんですか?」
「さあ、どうしてだろう。自分でもよくわからないや」
ロジカルな人間なんて、この世にいない。誰だって、多かれ少なかれ矛盾を抱えながら生きている。僕だって、彼女だってそう。募金箱を持つ天使のような女の子だって、食い違うことなく大人になることはできない。
だから僕は、彼女を放っておけないんだ。少しでも、その後悔の重みを取り除けるならば。僕は、あなたにささやかな幸せを与えたい。多分これが、愚鈍な兄であったことの罪滅ぼしだから。