2-8 弁当男子と来訪者
「おはよー、お兄ちゃん……あれ、お弁当二つ作っているの? ひーくんの分……にしては、かわいいよね。これ」
起きたばかりの萌波が、目をこすりながらキッチンまできた。焼きたての卵焼きに手を伸ばして、パクリと食べる。
「こら、手で食べるのは行儀が悪いよ」
「美味しいのが悪いんだよぉ、ふぁーあ」
前に萌波が使っていたお弁当箱の中には、丸いパンダおにぎりがつめられている。昔萌波のためにも作ってあげたのだが、本人は忘れているみたいだ。
「もしかして、飴をくれた人?」
「うん。一人暮らしだけど、自炊ができないみたいだから、僕が作って持って行くことにしたんだ」
昨日彼女が帰った後、メッセージアプリでやりとりした中で決めたことだ。本人は「そんなの悪いですよ」と、パンダのキャラクターが両手を前に出しているスタンプを送ってきたが、一つ作るのも二つ作るのも手間は同じだと説明すると、今度はお願いするパンダのスタンプがやってきた。
お弁当を二つ作るのは苦ではない。萌波が中学に通っていたときは、毎日作ってあげていた。むしろ久しぶりに二つ分作っているから、テンションが上がっていつもより気合が入っているくらいだ。
「お兄ちゃんにもついに好きな人ができたかぁ」
「そんなんじゃないって」
「でも普通、なんでもない相手にお弁当を持っていく? しかも、パンダのキャラ弁まで作って」
真本さんには心から笑ってほしいし、彼女を取り巻く悪い噂を払拭したいとも思っている。なんでもない相手と表現するには、少し気にしすぎているかもしれない。でも多分、これは恋……ではない。
「尻尾が黒ければガッカリするくらいに、パンダが好きな子なんだよ」
「え!? パンダの尻尾って黒色じゃないの!?」
わざとらしくびっくりした萌波は、スマホでパンダの画像を検索して、「本当だぁ!」と大声をあげた。
「じゃあ私たちが今までパンダだと思っていた生命体はなんだったの!? お兄ちゃん、お答えください!」
「いきなり大喜利!? えーと、えー…パンダソク? ほら、パンダに黒い尻尾は蛇足で……」
「ごめんねお兄ちゃん。私が悪かったよ」
人を憐れむような目で見ないでほしい。そんなお題じゃ、瞬発力のあるお笑い芸人でも一本を取れる答えは出せないだろう。
「大喜利がクソ雑魚でも、料理が得意なお兄ちゃんが大好きだからね?」
模範解答もない無茶振りを振られたというのに、ひどい言われようだ。これはもう、大喜利ハラスメントとして社会問題にすべきだよ。
「同じ問題を聖にもしてごらん? まともな答え出せないから」
「大丈夫だ。ひーくんは芸人のネイキッドザマショーと同じ誕生日だし。大喜利も得意だよ」
「それをいうなら僕は錦森啓治と同じ誕生日だから、今頃天才テニス高校生になっているよ」
誕生日が同じだからといって、共通点があるわけじゃない。世界でも活躍する錦森啓治が産声をあげたちょうど一〇年後に、僕は生まれた。錦森啓治と誕生日が同じだという理由で、中学時代はテニス部に入っていたが、同学年では下から数えた方が早いくらいだった。一番はもちろん聖だ。三年間であいつに勝ったことは、一度もない。
高校では逆に聖からテニス部に入ろうぜと誘われた。でもこれ以上、差をつけられてみっともない思いをするのも嫌だった。一年以上、僕はテニスラケットを触っていない。多分、これからもコートに立つことはないだろう。
「お兄ちゃん、テニスやらなくなってから太ったんじゃない?」
「ふひゃっ、おなか触らないでよ」
「やっぱり、お肉付いているじゃん。だらしないなあ」
ぷにぷにっと横腹の肉を掴む。身体測定の数字ではそこまで太ったように思っていなかったが、身体は数字よりも正直なようだ。
「お兄ちゃんの無駄肉、少しくらいならもらってあげてもいいよ?」
「渡せるなら渡したいよ。むしろ萌波はもう少し太りなさい」
「あー、それセクハラだよー。それに食べても太らない体質だもん、仕方ないよ」
得意げに語るように、食後のデザートや真夜中の間食をしても萌波はなかなか体重が増えない。女子からすれば羨ましい体質だろう。しかし、もともと痩せていたのに、いじめられていた時期には食欲も減り、ストレスもあって不健康な体つきになってしまった。五キロくらい僕の体重を与えたいくらいだ。
「お兄ちゃんが筋肉マッチョなら、それはそれで変だけどね」
首から下をボディビルダーにすげ替えた自分を想像してみる。あまりにも似合わなくて、笑ってしまった。
「でも。隣に立つ女の子が恥ずかしくならないような、男の子にならなきゃダメだよ?」
「……ちょっと、運動するようにしようかな」
朝早く起きてランニングをするなり、筋トレをするなりして体を鍛えるのもいいかもしれない。頼りない主人公には、誰もついてきてくれないしね。
「じゃ、行ってくるね」
「いってらっしゃーい」
八時前にやっている朝の占いを見てから家を出るのが僕のルーティーンだ。学校までは徒歩一〇分程度なので、コーヒーを飲んでひと息ついても余裕で間に合う。ただ、あんまりのんびりすると学校に行くのが億劫になってしまうから、いつも少し早めに出ていた。
「ん?」
「あっ、えっと……失礼しました!」
扉を開けると、インターホンに指を伸ばしていた女の子と目があった。かわいらしい制服を着た彼女は、僕を見るなり走って逃げていく。
「どうかした?」
「いや、なんでもないよ」
ロンロンを抱いた萌波がひょっこりと顔を出す。逃げていった彼女のことは気づいていないようだ。少しだけ、ホッとする。
その制服は、かつて萌波が着ていたものと同じだ。そして僕は、彼女の顔に見覚えがあった。萌波がいじめられるきっかけになった、いじめられっ子の少女だ。あの子を庇ったことで、萌波はいじめの標的になった。そして彼女も、いじめられる側からいじめる側になった。よくある、胸糞悪い話だ。
「……謝りに来たのかな」
だとしても、萌波に会わせるわけにいかない。つらい日々を乗り越えつつあるのに、全ての元凶である彼女と会ってしまえば、どうなるか。少なくとも僕は、あの子に同情こそすれども許すことはできない、そんな気がしていた。
同時に、真本さんの過去の噂が本当ならば。彼女が裏切った人たちは、僕と同じ気持ちなのだろうと痛々しいくらいに分かってしまうのだった。