2-7 パンダの尻尾
ハミングを口ずさみながら、シャカシャカと洗い物をする。僕はそんな彼女の背中を、後ろから見ていた。夕食が終わったあと、真本さんが「洗い物くらいはさせてください」と言ってきた。客人に後片付けをさせるのは悪いと断ったが、無言で洗剤とスポンジを持ってシンクに立ったものだから、彼女の好意に甘えることにした。普段は僕がやっているので、誰かが皿洗いをしているという光景も新鮮に見える。
「確かに、新婚みたいかも」
なにをもって新婚みたい、新婚みたいじゃないと判別するかははっきりしないが、制服を着たまま洗い物をする姿は、若妻っぽくてドキドキしてしまう。気を紛らわすように、さっきアップした写真の反応を見る。
『久しぶりのトルコ料理ですね! 美味しそうな匂いがこっちにまで届いてきます』
『いつも美味しそうですね!』
顔も名前も知らない誰かが、僕の作った料理にいいねと言ってくれる。その数が多いからプロの料理人になれるわけじゃないが、それでも褒めてもらえるのは嬉しいし、食べてほしいなとも思ってしまうのだ。
「皿洗い。終わりましたよ」
「わひっ!」
首元に冷たい何かが触れる。振り向くと、水で手を濡らした真本さんが立っていた。足音も出さずに来たものだから、心臓に悪い。僕のことをトルコ人だと言っていたが、彼女は忍者かスパイかのどちらかだろう。いたずらが成功した真元さんは、グデっとしたパンダの絵が描かれたハンカチで手を拭く。彼女は僕の隣に座って、足をパタパタさせた。
「ニヤニヤしていましたが、女の子とメッセージ中でしたか。やりますね」
「違うよ。真本さんが思っているようなものじゃないって。作った料理を貼るアカウントを持っているんだ。それにコメントがあったんだ」
「へえ、面白いことをしているんですね。見せてもらっていいですか?」
「料理とロンロンの写真くらいしか投稿していないよ?」
「それくらいでちょうどいいじゃないですか」
僕のスマホを眺めながら、「これ美味しそう」や、「食べたいなあ」とつぶやく。しばらく見ていた真本さんだったが、なにかを見つけたようでチョンチョンと僕の肩を叩く。
「これも、小宮くんが作ったんですか?」
見せてきた画面には、お弁当の写真が写っている。ごくごく普通のお弁当だが、一つ特徴をあげるならば、パンダの形をしたおにぎりがあること。昔、萌波のために作ったお弁当だ。かわいらしい見た目で、白いお米と黒い海苔だけで作れるので簡単だ。
「そうだよ……もしかして真本さん、パンダが好きなの?」
持っていたハンカチにも、パンダのイラストが描かれていたからもしかしたら、と思った。それは間違っていなかったみたいで、「……悪いですか?」と気恥ずかしそうに目を逸らされた。
「いや、悪いことはないよ。パンダ、かわいいもんね」
「毎日、パンダの赤ちゃんが生まれたニュースだけ流れてほしいです」
それは首がちぎれそうになるくらいに、同意してしまう。政治家の汚職がどうとか、いじめがどうとか、不倫がどうとかの話題よりも、微笑ましい動物のニュースを見ていたい。
「でもこれ、パンダのしっぽが黒いからパチもんですね」
パンダが好きを通り越して、パンダガチ勢だった。調べてみると、確かにパンダのしっぽは白色だ。お尻に海苔をちょこんと乗せているのは、蛇足というものだった。次作るときは気をつけなきゃ。
「たまにパンダのしっぽが黒いぬいぐるみがありますが、切ない気持ちになります」
「あはは……」
今日一日で、少しは彼女のことが理解できた。箸使いが綺麗で、魚とロシア料理が苦手で、調理実習にトラウマがあって、パンダといたずらが大好きな、ごく普通の女の子。それが真本さんだ。
「なにか?」
「いえ、なんでもないです」
でもって僕はそんな彼女を、かわいらしいと思っていた。
「今日はありがとうございました。久しぶりに、ちゃんとした料理を食べた気がします」
その後も、なにかをするわけでもなく、ソファーに二人並んでスマホを触り、たまーに僕が話しかけるくらいだった。
「僕も楽しかったよ。それに、新生真本さんの第一フォロワーになれたし」
「期待しないでください。大したことは投稿しませんよ」
「すごい絵を描けなくても、心に響くいいことを言わなくても、公園の野良猫を撮ったりしてさ、些細なものでいいんだよ」
真本さんは、SNSアカウントを一度消したため持っていなかった。作り直すつもりもなかったみたいだが、僕の料理&うさぎ垢には心惹かれるものがあったようで、新しくアカウントを作ったのだ。ハンドルネームは『サナモン』。アイコンはなぜか、恰幅のいい外国人のおじさんの白黒写真だ。誰かと聞くと、「ヒッチコックです」とさも当たり前のように言うのだった。ヒッチコックの名前は僕でも知っているが、女子高生のSNSのアカウントとしてはふさわしくない気もする。真本さんが言うには、誕生日が同じなんだとか。その理屈でいくと、僕は近衛文麿の写真をアイコンにしなくちゃいけない。今のところは、僕とだけ繋がっている。なんだかそれが、独占したというか、特別になったみたいで嬉しい。
「時間も遅いし、家まで送ろうか?」
「いいですよ、そんなに家は遠くないですし」
このあたりで変質者が出たという話は聞かないが、こんな時間に女性の一人歩きは危ないだろう。前に不良たちに絡まれていたことを思うと、一人にするのは少し怖かった。
「向こうに交番がありますよね、私の家その近くなんです。なので叫べば、青服のみなさんがきてくれますよ」
「黒服みたいに言わなくても」
「それとも、私の家にあがって。あーんなこと、こーんなこと、したいんですか?」
挑発するような口調で、じりじりと僕に滲みよる。
「だ、だからぁ! そういうことぉ! 言わなくて」
「イッツアシャッターチャンス」
パシャリ、とシャッター音。スマホのカメラが、僕の間抜けな顔を切り取っていた。
「あっ、ちょ!」
「初投稿写真、これにするね。じゃ」
「それはやめて!!」
手を振りながら、走って去っていく。いくら僕くらいしかフォローしていないとはいえ、あんな写真貼られたら変に勘ぐられてしまう。そう考えていると、ブルリと通知。
『イッツア冗談』
とだけメッセージに書かれている。サナモンさんのSNSの投稿は、夕方の公園にいたにゃんこだった。