2-5 ふわふわ
スーパーで必要な食材を買って、家に着いたのは一八時前。萌波はもう横尾家と一緒に出かけたらしく、さっきメッセージが届いていた。
『一人で寂しからって、デ○ヘルを呼んじゃダメだからね?』
これは既読無視安定だ。また変な知識増やして、お兄ちゃんは萌波のこれからが心配で仕方ない。ただ、寂しいから人を呼んだという点は正解していた。
「ただいまー。どうぞ、お入りください」
「お邪魔します」
萌波が家を出る際に、飾っているアロマストーンにオイルを垂らしてくれたのか、玄関に清涼感のあるハッカの香りが広がっている。玄関はその家の第一印象になるので、客人が不快にならないようにしなさいというのは親の教えだ。
「今から作るので、少し待っていてくださ」
「きゃっ」
真本さんの足元を、チョコレート色した物体が飛び込んできた。ダウナーな彼女にしては、可愛らしい悲鳴をあげ口にいれていた飴が落ちてしまう。
「う、うさぎ?」
「すみません、妹のやつ家を出るときにケージに入れなかったみたいで……ビックリしましたよね」
ロンロンは鼻をヒクヒクとさせており、驚いた真本さんを値踏みしているようだ。うさぎの赤い目は視野が広いものの、視力が悪く、近視なので人の顔はぼやけて見えるらしい。その代わりに長い耳の聴覚とヒクヒク鼻の嗅覚に優れている。突然現れた新キャラの真本さんの匂いを嗅いで、安全な人かどうかを確認しているのだ。
「体育の後だから汗臭いのでしょうか?」
体臭が不安になったらしい真本さんは、スンスンと嗅いでいる。
「ねえ、私臭くないですか? 自分の匂いは自分じゃわからないんです」
「心配することはないですよ。むしろいい匂いでした」
いつも飴を舐めているからなのかは分からないが、彼女はかすかに甘い香りをまとっている。不思議と落ち着く匂いで、ロンロンも気に入った様子で、うっとりとしているみたいだ。ゆっくりと堪能するみたいに、鼻の動きがゆっくりになる。うさぎだから可愛らしい光景だが、人間の年齢に換算してしまうと三十路前後なので、なんとも言えない気持ちになってしまった。
「臭いって言われるのも嫌ですが、ストレートに言われるのもそれはそれでうん、照れますね」
恥ずかしそうに目線を逸らすが、お休み中の表情筋から、まんざらでもなさそうにも見てとれた。「抱いてみてください」と言うと、真本さんはおっかなびっくりロンロンに手を伸ばす。懐いていない相手だと逃げるか噛み付くこともあるらしいが、厳正な審査を合格したようで、自分から真本さんに飛びついた。
「柔らかい、ふわふわだ……」
真本さんの手が優しく撫でると、ロンロンが気持ちよさそうに目を細め、ぷいぷいと鼻を鳴らす。
「さて、僕は料理を作りますか」
トルコ料理を答えなさいと問われたとき、真っ先に思い浮かぶのはケバブだろう。肉の大きな塊が、ろくろみたいにくるくる回っているあれだ。あるいは、伸びるアイスのドンドゥルマ、要はトルコアイスの名前を挙げる人もいるだろう。しかし、どちらも夕食には向いていないし、普通の家庭で作るには難しい。腕によりをかけて、トルコのお父さんお母さんが作るような、家庭料理をふるまうことを決めた僕は、レシピを印刷してまとめたファイルから、トルコ料理のページをめくる。
「とりあえずピラフとキョフテは確定と」
意外と知られていないことだが、ピラフも実はトルコ出身のお米料理だ。そして聞きなれないキョフテは、簡単に言えばラム肉や牛肉を使ったスパイシーな肉料理で、トルコ風ハンバーグという人もいる。サイズも大きくないので、少食だという真本さんも食べやすいはずだ。あとはサラダとトマトスープでいいかな。真本さんもお腹がすいてきた頃だろうし、手際良く作るとしよう。
「なんかこういうのって、新婚夫婦みたいですね」
「おわっ! お、音もなく現れないでよ」
鼻歌交じりにキョフテの形を整えていると、ひょっこりと僕の右から顔を出してきた。僕は喉から飛び出そうになった心臓を飲み込んで、真本さんに文句を言が、「ずっと話しかけていたのに、気付いてくれなかったので」と悪びれる様子もなく、飴を口の中で転がしている。
「何回も新婚夫婦みたいですよね、って言ったんですよ? なのに小宮くん、うろたえるどころか私を無視するから。恥ずかしくて仕方なかったですよ。乙女に恥をかかせたのは大罪です、謝罪を要求します」
からかおうとしたのに相手してくれなくて、勝手に恥ずかしくなったから謝れとはなかなかな暴君思考だ。でも、せっかく来てくれたゲストを楽しませられないのは、ホストとして至らない部分があったのかもしれない。ロンロンはというと、真本さんの手が気持ちよかったのか、ケージの中でスヤスヤと眠っている。
「それはごめん。まったく聞こえていなかったや。僕、料理している間は集中して周りの声が聞こえなくなるから」
「それは危ないですね。もし料理中に、未来から殺戮マシーンがやってきた場合、ターミネートされちゃいますよ」
さすがにシチュエーションが限定的すぎる。未来で一体なにが起きたというのだろう。
「それにしても、嬉しいな」
「なにがですか?」
「いや、だって。真本さん、私に関わらないでって言っていたのに、おちょくるためとはいえ、何度も僕に声かけてくれたんでしょ? それって、少しは僕に心を開いたって」
「チェストッ!」
ビシッとおでこにチョップが落ちる。不機嫌そうに「バーカ」と言うと、ソファーに座ってスマホを弄りだした。
「あのー、真本さーん?」
「……」
ヘッドホンを耳に当てて、リズミカルに首を振っている。このあと、声をかけ続けるもムスっとした彼女は話を聞いてくれなかった。