2-4 うちにおいでよ
どこからともなく、『七つの子』のチャイムが鳴り響く。公園で遊んでいた子供たちは、名残惜しそうにバイバイをして、家に帰っていく。小学生の頃、聖と萌波と一緒に、帰りなさいと歌うチャイムを無視して、暗くなるまで外で遊んでいた。鬼ごっこや缶けり、ブランコを漕いでどこまで靴を飛ばせるか競い合ったこともある。これもそれも懐かしい記憶だ。
「はい、今日のバイト代です」
「ありがとう」
真本さんが自販機で買ってきたコーラ缶を受け取る。別に奢ってもらうために手伝ったわけじゃないが、「うお座のあなたは、誰かにコーラを奢ると運勢アップするんだって」と言い返されたので、受け取らざるを得なかった。プルタブを引いて一口飲む。炭酸特有の刺激的な味が広がり、爽やかな喉ごしが心地いい。疲れた体に染み渡るようで、エナジードリンクよりもよっぽど体力回復に向いていた。真本さんは隣に座って、毎度のごとく飴を口の中に入れる。
「飴、好きなの?」
「口の中になにか入れておかないと落ち着かなくて。前はタバコをスパスパ吸っていたんですけどね、こっちの方が健全でしょ?」
「ええ? ま、まあそれはそうかな」
「それとも。私の口の寂しさを、小宮くんの唇で慰めてくれますか?」
飴を口から取り出すと、グイっと顔を近づけた。風が吹くだけでも唇が触れてしまいそうな距離で、光沢の欠けた瞳が僕を見る。頬を撫でる吐息からは、微かにレモンの香りがする。初恋はレモンの味――そんな使い古されたフレーズが頭をよぎった。
「え、ちょ、えっ、あ」
心臓が破裂しそうなほどに、バクバクと鼓動がうるさくなる。ごめん萌波。お兄ちゃん、お前の花嫁姿を見ることが叶わなかったよ。僕は死を覚悟して、目を閉じる。
瞬間、ぐぅとお腹の虫が鳴く。
「イッツア冗談」
「あだっ」
コツンと額をぶつけてきた。それからすぐに離れて、飴を口に放り込む。
「タバコも冗談ですよ。私の肺の中は綺麗なピンク色なので、小宮くんの頭の中と同じ色です」
「もう、あんまりからかわないでよ……」
「おっと、失礼。小宮くんはお腹もすかせてペコペコでしたね。性欲と食欲は連動するっていいますし、これでも舐めて両方を満たしてください」
鼻を鳴らして笑い、プリン味の飴をくれた。舐めれば舐めるほど、プリンの苦甘さが広がって変な感じだ。
彼女は表情を変えない。だからどこまでが本当でどこまでが嘘なのか、人生経験の浅い僕には分からない。同じ学年のはずなのに、彼女は僕よりも数段大人に見えた。
「ほら、にゃんこ。こっちおいで」
訂正。野良猫の写真を撮ろうとしている姿は、僕よりも少し幼く見えた。
「小宮くん、リアクションが面白いから。次は熱々のおでんを持ってきますね」
「そういう痛みを伴う笑いは、数年後にはなくなっているよ」
「ちがいない。じゃ、私は帰ります、さような」
立ち上がって帰ろうとする彼女を「待った」と呼び止める。
「今日さ。僕、一人でご飯を食べるんだ。もしよければ、真本さん、うちに来ない? 三食飴ばっかりって言っていたし、ご馳走するよ」
「それは……その後、私も食べたいですってお誘いですよね?」
「そんな度胸があるように見える?」
「見えません」
クイズ番組の東大生バリの即答だった。それはそれで、男として情けないような気もしなくはないが、事実なので仕方がない。思わず苦笑いをしてしまう。
「そんなの、迷惑でしょうに」
「むしろ僕が、真本さんに食べてほしいんだ。やっぱり、自分だけが食べるように作るよりも、誰かに食べてもらえると思ったほうが気合も入るし。ここはひとつ、シェフ小宮の心意気を汲み取ってほしいな」
僕がご飯を作るのは、家事の割り振りで決まっているからというのもあるが、食べてくれた萌波や聖の幸せそうな表情や、「美味しい」の一言をもらえた時だけ、僕は助演男優の枠組みから外れることができた気がしたんだ。
「なーんて。なんだか照れるな」
「……少し、耳をふさいでください」
「え?」
「いいから。断るなら飴ちゃんの棒で鼓膜破りますよ」
少し臭いことを言ったかなと恥ずかしくなっていると、耳をふさぐように指示された。意味も分からず、両耳に親指を押し入れると、「ゴォー」と不安定な音に聴覚を乗っとられる。
「もういい?」
真本さんは、なぜか恥ずかしそうに頬を赤らめている。「どうしたの?」と尋ねたら、「なんでもないです」とそっぽを向かれてしまった。怒らせちゃったのかと不安になるが、ボソリと呟いた。
「今日の獅子座のラッキーアイテムは、だれかの手作り料理。ただし、魚料理とロシア料理はアンラッキーです。それ以外なら、なんでもいいですよ」
「了解です」
魚が苦手な人は少なからずいる。今日のお弁当には白味フライを入れていなかったが、入っていたら真本さんを困らせてしまったのかも。しかし、ロシア料理がダメなのはなかなかピンポイントな弱点だ。ロシア旅行した時に、何か嫌な思い出でもあったのかな。もともとロシア料理はレパートリーになかったので、気にするものでもないか。
「じゃあさ、トルコ料理とかいってみる?」
「トルコって、あのトルコ?」
「そのトルコ。実は作れるんだ」
○○料理というと、中華料理やフランス料理、イタリア料理が出てくるだろう。少なくとも、真っ先にトルコ料理という選択肢は出てこないし、人によってはそもそもトルコがどこにあるのか分からない人もいる。
我が家のわがままなお姫様は、時々料理番組のゲストのように、突拍子もないリクエストをしてくる。例えば、ニュースで大阪と広島の野球チームの交流戦の結果を放送している時に、「大阪と広島のお好み焼きを食べ比べたい!」と戦争を起こしたこともあったし、アニメに出てくるフランス人ヒロインが可愛いから、「コラボカフェで出してくれそうな料理を作って」などなど、思いついたままに注文してくる。その度に僕は、「ウィー、マドモワゼル!」の掛け声で、料理に取り掛かるのだ。
トルコ料理もそのうちの一つで、確か聖の部屋の本棚にあった、トルコと一文字違いのグルメバトル漫画を読んだら食べたくなった、とかそんな理由だ。僕はというと、トルコの知識なんて『トルコ行進曲』くらいしか知らなかったので、なにを作ればいいのか、うろたえにうろたえた。作中に出てくる料理を完全再現して、と注文されなかっただけマシだろう。
「ロシアじゃなければ、私はなんとでも」
「ウィー、マドモワゼル。三ツ星シェフ小宮海智にお任せあれ」
「なんですか、それ」
「言わなきゃ怒る人がいるんだよ」
料理くらいでしか、今の僕は主役になれない。真本さんが笑ってくれるような、美味しいものを作らないとな。