春と夏
「草野くん、話って何?」
ある春の夕下がり、ひんやりとした風が頬を撫でる。
「え、えっと、あの、その……」
眼前にはヨレた学ランに身を包んだ男。いつもの青白い顔が季節外れの紅葉のように真っ赤に染まっている。目は大きく開かれて今にも飛び出しそうだ。
「も、望月さんっ…… ぼくとっ、付き合ってくださいっ。」
こういうことを言われるのは一度や二度ではないので、体育館倉庫の裏に呼び出された時から分かっていた。同級生の中で人気があったサッカー部の先輩からだって告白されたことがある。ただ、その誰もが私の興味を砂つぶほども惹くことは無かった。
それは今回も同じ。もし付き合うなら、赤いリンゴにカツラを乗せて、チェック柄のシャツを着せた方がよっぽどましだと思う。
「ごめんなさい。私、あなたと付き合う気はないわ。」
いつもの断り文句。彼の顔の紅葉はみるみるうちに散り、いつもの不気味な白さへと戻った。彼はうつむき、
そ、そうだよね、と言って曲がった背中をさらに深く丸めて去った。
数ヶ月が過ぎた。
夏がきた。青く澱んだ空にシルバーの太陽が浮かび、これでもかというほどの熱線を北半球に浴びせている。
この頃私は大層な不快感を抱いていた。教室の空調が壊れて、蒸し焼きにされながら授業を受けていたからではない。毎日毎日、ある男からの視線を感じ続けていたからだ。
その正体は草野。学校にいる間ずっと私を見つめている。逆に私が彼を一瞥してやると、素知らぬ顔でそっぽを向き、何もないグラウンドを眺める。もう彼に直接言ってやろうか。キモチ悪いからやめてくださいって。
水筒に入れてきた冷たい水も、彼の視線の先で飲むと一段とマズかった。
その夏の放課後。灰色の雲が空を覆い、今にも泣き出さんとしていた。はやく帰らないとびしょ濡れだな、これは。そう思いながら下駄箱を開くと、そこには一枚の紙切れが置いてあった。
「今日の放課後、体育館倉庫の裏で待ってます。」
もしかしてまた告白か。面倒だな、放っておこうか。でも、雨の中放置するのも気が引けるな。少々迷った末、私の思考回路はこの紙切れが示す場所へ向かうことを決めたようだった。ただし、数分で終わらせることを前提に。
人気のない道を通り、倉庫の角を曲がると、私の顔はこれ以上ないほどに不愉快で溢れた。
立っていたのは例の草野。半袖のYシャツから伸びる腕は細く、弱々しい。伸びきった髪の毛から覗く目は大きく見開いていて、充血していた。
彼は私を見つけるとズンズンと近寄ってきた。
「も、望月さんっ! 望月さんっ!」
ああもう、ここに来た私が間違っていた。この際、彼にはっきり文句を言って、迷惑だと分からせるしかあるまい。
「草野くん、あなたが私を見つめていること、本当にキモチ悪いから─」
やめてよね、その一言を口に出すことは出来なかった。
突然、草野の右腕が私のみぞおちを抉る。あの細い腕からは想像も出来ないような力。激しい痛みと共に胃酸が逆流して、喉を軽く灼いた。
呼吸が出来ない。声も出せない。その場で崩れ落ち、肺は酸素を取り込もうと必死になった。
「ぼくっ、望月さんがずっと好きで、だから、がまんできなくてっ」
何か言っている。耳の中でぐわんぐわん、こだまする。
「いろいろ試したんだよっ。望月さんと繋がりたくて、」
彼の顔は、春に見た時よりも数段と真っ赤で、不気味で、
「気づいてた? 望月さんの水筒っ。あれ、こっそり、ぼくのっ、ぼくの血を入れてあげたんだよっ。」
はやく、はやく、逃げなければ、
「繋がれたね、繋がれたね、繋がれたねっ。」
ひゃはははは、とうわずった笑い声だけは鮮明に聞き取れた。
ぽつぽつと雨が降り出した。
あっという間に勢いが増し、周囲を黒く濡らした。
私は気を失った。
目が覚めると、知らない天井が目に映った。左には薄緑色の仕切りカーテン。右には大きな窓ガラス。外はすっかり暗くなって、大きな月が夜を照らしていた。
ベッドで眠っていたようだ。全身が鈍く痛む。ここは病院だろうか。
シャッと勢いよくカーテンが開く。そこには泣き出しそうな顔の母がいた。
「良かった……起きたのね。ほんとうに心配したんだから。あなた、学校で倒れてたのよ。」
優しい声。
「ほんとうに良かった。この子がここまで運んできてくれたのよ。お礼、言っておきなさい。」
そう言った母の隣に、青白い肌に細い腕、不気味なほど目を見開いた少年がこちらを見つめていた。