十二 それぞれの出発
奇岩の上では御子神典膳が食い入るように師の険しい顔を見つめ、そして耳を傾けていた。
辺りはすっかり暗黒の帳に包まれている。空には無数の星々が輝き、薄く伸びた雲間に明るい月があった。
典膳の目に改めて映る師の顔は、今までの話とは対照的に穏やかで、険のない子供のような顔つきに変わっていた。
それはまるで、
「もう俺の役目は終わったよ」
そう語って、子や孫に囲まれて幸せな余生を送る大名家の隠居のような澄んだ顔だった。
典膳はこんなに晴れやかな師の表情を見るのはもちろん初めてだった。
(いい顔をなさるなあ)
純粋にそう感じていた。
「典膳」
再び、彼の師の伊東一刀斎は低い声で呼びかけた。
「はい」
「最後にお前に一つだけ言っておく。一刀流の一は最初の一であると同時に、万事全体を一切という時の一をも示す。すなわち一刀流では最初の一の中に全てが含まれているのだ。これを決して忘れるな」
「はい」
一刀斎はにわかに腰を上げると、すでにぽつりぽつりとまばらに明かりが灯り始めた眼下の山村の素朴な景色を見下ろしながら、大きく伸びをしてみせた。
そして、愛弟子に向かって、
「行け、典膳。決して一刀流の名を汚すなよ」
と清々しい笑顔と共に口を開いた。
「はい。しかしお師匠様は?」
すると一刀斎は天空に輝く無数の光の粒を見上げながら、自分の腰に差してある長年の相棒をぽん、と軽く叩くと、
「こいつを捨てて、どこかでのんびりと暮らすさ」
と言って顔を綻ばせた。
その夜、奇岩の上に座っていた師弟はそれぞれ別々の道を目指して旅立って行った。
この後、御子神典膳は小野忠明と改名し、徳川家康に仕え、後に柳生新陰流の柳生宗矩と共に徳川将軍家の剣術師範となった。
柳生新陰流が太平の江戸時代の中で「剣」よりも「権」に固執して、ついには大名にまで出世したのに対して、忠明の小野一刀流は政治的野心を持たず、ただひたすら剣の道に没頭したという。
一方、その後の伊東一刀斎の行方は杳として知れない。完全に時代の中から姿を消してしまったのだ。
「一刀流極意」は言う。
伊東一刀斎は、
「天下を周遊して真剣勝負をなすこと三十三回。凶敵を倒すこと五十七人、木刀にて相手を打ち伏せること六十二人、善類を救うことあげて教えることができない」
と。
伊東一刀斎。ただその伝説のような強さだけが伝わっている。
(完)
終わりました。元々、この小説は大学生時代に書いていた物を元にしており、それを今回アレンジして加筆修正しました。
元々、歴史小説は好きですが、しゃべり方とかは、あえて現代に近い感じにアレンジしています。
戦国時代は魅力的なんですが、世の中、戦国時代物が多すぎるので、次は別の時代を書いてみたいです。




