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朝の電車にて

作者: 赤の他人

朝の電車にぽとりと1匹の蛾がおちてきた。

上からなのか横からなのかわからないが、突然だった。

触覚すらぴくりともしないから死んでいるのかな。車内の冷房の風に吹かれてここまできたのかもしれない。


蛾は乗り込む人々に躊躇なく踏まれて右の羽がぷつりと体から離れていく。同時に鱗粉が散った。

わたしは虫は全般きらいだ。けれども何故か、その蛾から目をはなせずにいた。朝だからすごくすごく眠いのに一生懸命蛾をみつめていた。踏まれる蛾を。


___「次は終点、終点」

目が覚めた、寝ていたようだ。目を開けると蛾は消えていた。どこにも、なかった。外れた羽も置き去りになった鱗粉も、きれいさっぱり消えていた。

あれは夢だったの?

夢にしてもこんなに鮮明に覚えているのに。

だれかに、聞きたかった。あの蛾はどうしたのか、あのあとどうなったのか。でもここは現実ではないようで、わたしの周りには人ひとりいなかった。



__「早く降りて、終点だよ」

突然の声に驚いて目を開けた。目の前にはおじさんがひとり、立っていた。すごく迷惑そうに眉間に皺を寄せて。両腕を腰に当てて_


「蛾だ」

わたしはとっさに呟いた。

おじさんは目を丸くして驚いた。「蛾?…」


おじさんの腰には左腕しかなかった。右腕がない。肩からすっぽりと抜けていた。文字通り無いのだ。右腕が。

わたしが驚いておじさんの右肩を見つめるものだから、おじさんはあぁと息をついて話した。

「これか。これはな、俺が小学生だったころだな。階段から落とされた。いや、本当は自分から落ちたんだな。俺はいじめられてて、それで、悔しくて、死のうと思ったんだ。」

おじさんは眉間にぐっと力を入れて、目を細めて話し続ける。

「そうしたら、いじめっ子のひとりが腹を立てた。お前が死んだらおれたちが疑われるだろってな。」

なんて自分勝手な奴。

おじさんの眉間のシワがわたしにもうつってきた。

でもそれと引き換えにおじさんの口元は少しゆるんでいた。


「俺はおかしくてなあ、笑っちゃったよ。いじめっ子は強いとばかり思ってたから、まさかあそこで弱々しくなるとは思ってもなかったなぁ。ははは」

おじさんは本当にお腹をおさえて笑っていた。おじさんからうつった眉間の力はすっかり弱くなっていた。

わたしも笑おうとしたら、おじさんの顔がまた険しくなった。まったく表情豊かなおじさんだ。

「それで、俺はこいつらに仕返ししてやろうと思ったわけだ。この腕を、」おじさんは言いながら腕の生えている左肩をぐっと掴んで 「ぼきっとな」腕をもぐ仕草をした。

おじさんは大爆笑。あっはっはっはっ_こわいくらいに高い声で、まるで悪魔だった。悪魔に取り憑かれたようだった。悪魔はみたことないんだけど。


「こわいか」

突然話しかけてきた。

「こわいか、こわいだろう。人間てのはこわいんだ。ころっと人格がかわるんだよ、いじめっ子といじめられっ子が急に逆転するようにな。こころもきれいなままのひとはそういないさ。君もな。」

おじさんはにこりと微笑んだ。

「あぁ。もう行かないと。きみもな、あんまり思い詰めない方がいい。肩の力を抜いてな。俺みたいにはなるなよ」腕の生えていない右肩をぽんと叩いて笑った。


おじさんはくるっと後ろを向いて暗闇へと歩き出した。

おじさんの足元には金色くきらきらした粉がちらばっていた。



__「次は終点、終点」

目が覚めた、今度こそ現実だ。車内はざわざわして、皆が降りる準備をしている。

すると目の端にきらめくものがみえた。


「蛾だ」

右の羽が外れた蛾。夢でみた、右腕のないおじさん。

最初にみたときよりぼろぼろだった。外れた右の羽は近くになかった。風に飛ばされてしまったのか、誰かが踏んで靴の裏にくっついたままなのか。それからお腹がぺたんこに潰れて自分の体液に溺れて、鱗粉もそれに浮いていた。

わたしは無心で手を伸ばし、蛾を引き寄せた。羽をもつといまにも引きちぎれそうだったから、嫌だったけれど、しっかりとぺたんこの体をつまんで両手で包み込んだ。こうやってみると意外とふわふわしていてあたたかい。複眼の両目は虚ろだった。なにも写してない、なにも見ていない、目はもともと存在していなかったよう。


わたしは死んだ蛾に夢中で、周りの人の目など気にしてなかったけれど、きっと皆が思ったろう。

「あのひと、やばい」と。



電車をおりて、改札を抜けて、外に出る間、コートのポケットにしまい込まれた蛾はコートの生地に摩擦してさらにぼろぼろになってしまった。

しまったと思い、早くしなきゃと駅のちかくの公園をめざした。


公園に着いて、人気のなさそうな桜の木の下を選び、10cmほど土を掘った。

そこに蛾をそっと置いた。随分とぼろぼろになってしまったし、右の羽もないけれど、ずっと車内に放っておくことはできなくてこんなところまで連れてきてしまった。自分でも驚いた。虫嫌いのわたしがどうしてこんなことをしたのか。おじさんの、夢をみたからなのか。でもどうして蛾で、おじさんなのだろう。



わーわー、きゃーきゃーとこどものはしゃぎ声が聞こえたので急いで土を被せ、目立たないように、また踏まれてもいいようにちかくの雑草をさらに被せた。

「ありがとう、さようなら」

わたしは蛾と、おじさんに一言いって その場を小走りで去った。




あとからなんで蛾なんだろうと考えたら、思い当たる節があった。

毎日出勤するのに通る道のりに、蝶々のイラストの看板が飾ってある喫茶店があるのだ。

そこを通る際、2人組の女子高生とすれちがった。

「なんで蝶々なんだろうねー。」

「えー?だって蛾とかよりいいでしょー?」

「あー、確かに、それはそうだわあ」


なるほど。わたしは無意識にこの話を聞いていたのか。納得。わたしも喫茶店なら蝶々がいいにきまってる。

でも、あのおじさんに蝶々は似合わないな。

あのおじさんはどちらかというと蛾だ。あの眉間にシワを寄せるあたり、踏み潰されるしわくちゃの蛾にそっくりだ。

そう思ったら笑いが込み上げてきた。


わたしは声を押し殺してずっと笑っていた。



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