鬼神
鬼を名乗る女神の笑顔を浮かべていた目が瞬きをした瞬間、金色に見えていた瞳は血が透けたような深紅に変わっていた。
一瞬見間違ったかと思ったけれど、それほどの見間違いが挨拶している間続くなどありえないだろう。
「どうかなさいましたか?」
「……いえ、何でもありません」
わずかに迷ってから何も言わずに口を噤む。必要なことならば相手から言って貰えるだろうから待てばいいだけだ。
私を見ていた鬼は何かに思い至ったのか、わずかに目が細められた。
「そこのがユリアちゃんに余計なことを吹き込んだのでしょうか?」
「ひぃっ」
私を見ていた視線が私の背後に移ると、女神の物とは思えない上ずった声が聞こえた。先ほどの態度から考えてDの声だろう。
私の名前を知っているのは今更のことで何も言わないとして、勝手に誤解してくれたのは思っていたことを説明しなくていいから助かる。けれど、いつまでもDをかわいそうな目にあわせる訳にもいかない。
「いえ、今のは綺麗な瞳だなって思って。言っていいことか分からなかったから……」
鬼の視線が私を捉えた。心の奥まで見通されているような、悩んでいるような形容しがたい表情を浮かべてから鬼は気を緩めた。
「……ありがとう」
視線を合わせた状態でしっかりと見れば、銀髪の印象に隠されているが左右に角が生えている。そして長い髪を鈴のついた髪飾りで束ねていた。
先ほど聞こえたチリンという音はこの鈴の鳴った音だったようだ。
「ユリアちゃんのためにしっかりと名乗っておきましょうか。私はユキです。ユキと呼んでください。神としての権能は芸事を担当していますが、それ以外にも武芸から楽器まで必要ならなんでも教えてあげますね」
いたずらっぽく笑う姿は見た目の凛とした印象とは違って穏やかな人らしい。
しかし、武芸から楽器までとはまるで弁才天だな。そういえば、半裸で楽器を演奏ってどこぞの弁才天じゃないか。
そこまで考えて深く考えるのをやめるべく、ユキの姿をまじまじと見た。瑞穂と同じように和風の服装。これは名前からして分かっていたことだが、巫女のような瑞穂とは異なり着物と言われて思い浮かぶ服装であった。
白地の更紗に灰青の帯を合わせた姿は銀髪の人ならざる美しさと似合っていたが、着ぶくれしたように妙にもこもことしているような印象を受ける。まるで無理に詰め物でもしているかのようだ。
着物から覗く白い肌と朱を注したような唇は妖艶というに相応しい色気を持っている。気を抜けば、この体で性欲が落ち着いている今でも視線で追ってしまいそうだ。
「私とユキの恰好は日本の服装に似ているでしょう? 私とユキは帝国でも信仰されていますが、最大宗派として信仰されているのは帝国より東側ですからね。もう一つの帝国には私が置いている守護竜もいますから」
私の視線で服装を気にしていると思ったのか、瑞穂が笑いながら教えてくれた。
ここで二人の信仰の話から重要な情報を得ることができた。帝国より東にあるもう一つの帝国。瑞穂が母のことを知っていたことを考えれば、母はそちらの出身なのだろう。そう考えれば、日常で東洋人のような人を見ない説明がつく。
まあ、今度はあの母は国際結婚だったのかとまた別の驚きもあるのだが。生活水準から考えて日本に当てはめると明治か大正に国際結婚するようなものだろうから、平成の自分が知る国際結婚とは重みが違うはずである。
「ユリアちゃんと瑞穂は食事を終えたみたいだし、少し体を動かしましょうか」
私が考え事をしている間にユキがテーブルの上を見て提案をしてきた。私は食べ終わっていたし、瑞穂はいつの間にか食後のお茶を飲んでいる。ただ、Dも手を放して食べ終わったアピールをしているのにユキは無視していた。
「あ、あの、私は?」
「お残しは許しません。全部食べなさい。野菜だって命をいただくのですから」
名前が出なかったDが震える声で尋ねてもユキは塩対応だった。実際、Dの前に置かれた食器には確かにいくつかの野菜が残っていた。私からはっきりと見えるのはタマネギと芽キャベツだろうか。
「無理よ。こんなの食べたら死んじゃう」
「大丈夫ですよ。……致死量には届かないように計算していますから」
ユキの一言目でDの表情が明るくなり、次の瞬間には奈落に突き落とされた人の表情になっていた。タマネギを食べると死ぬというのは、Dは犬か何かの神様なのだろうか。
「私たちが戻るまでに食べなさい。もし食べずに捨てたら……分かっていますね?」
ユキの脅しともとれる言葉にDが涙目で頷くのを横目に見ながら、瑞穂に背中を押されて食堂を後にしたのだった。
瑞穂とユキに連れられた先は運動場だった。こんなにスペースがあって何に使うのかと思う程だだっ広い。なにせ野球なら三試合以上同時に開催できるだろう広さが円柱様式で飾られた壁に囲われているのだから。
「さて、ここなら少しくらい派手に動いても大丈夫でしょう」
ユキが運動場を確認して頷いていた。まるでユキが動くというような言いぶりに首をかしげてしまう。
「そんな恰好で運動とかできるの?」
思わず疑問が口から出ていた。和装で運動とか絶対無理だと思う。袴で剣術や乗馬ならまだ分からなくはないけれど、ユキが着ているのは小紋とかそういう着物である。まず足を大きく踏み出すとかできないだろう。
私の言葉にユキは自分の着ているものを見下ろしてから、納得したように頷いた。
「ああ、確かにこの姿では動きにくいですね。でも、こうすれば大丈夫です」
視界が一瞬だけ黒に覆われ、反射的に目をつぶってしまったが、目を開けると姿が一変していた。上半身は煌びやかな胴鎧に覆われ、下半身は腰から垂らした膝までの板とひざ下のすねあてが覆っている。兜の代わりに金属で前面を覆われた鉢まきをしていて、顔が完全に見えている。確かにこの装束であれば縦横無尽に動き回ることができるだろう。
「これが私の戦装束です。常在戦場の心構えを捨てたつもりはありませんし、常に武具を纏わねばならぬほど未熟ではないつもりですので」
太刀を無造作に持ちながらほほ笑むユキに、クロやブランからも感じたことのない凄みを感じた。
「さて、少し今の状態を確認しておきましょうか。肉体の魔力は枯渇していても魂は瑞穂の治療で少しくらいなら魔法を使えるようになっているはずです。……五秒です。五秒間私の太刀を避けなさい」
「万が一斬られても私が治しますから心配しないでください」
女神の中でも優しそうな二人が厳しいことを言う。しかし、そもそも二人は私が肉体強化できないことを知っているのだろうか。うん。確認しておこう。神様の誤解で人間がひどい目にあう話なんて掃いて捨てるほどあるし。
「あの、ユキも瑞穂も私が肉体強化系は魔力循環の維持しか教わっていないってことは知っています?」
私の言葉にユキと瑞穂が顔を見合わせた。どうも分かっていなかったらしい。
「でも、アンジュさんは教導を始めたって」
「人間だから魔力容量の拡張から始めないと術式の消費に耐えられなかったのでは? あの人は邪神を自称する割にその辺りの気配りはしっかりとしていますから」
割と本気で認識の違いだったらしい。そして、聞こえてくる話でやっぱりアンジュは女神だったと再認識させられた。相手の事情を忖度してくれるとか、邪神どころか普通の神様でもなかなかいないだろうし。
「こうなると、やっぱりアレしかないですね」
「そうですね。直接確認しかないですね」
私の意識がアンジュのことに向いている間に、二人の間で何か話がまとまったようだ。妙に頬が赤くなって興奮気味なのが謎だけれど、悪いことにはならないと信じたい。
「ねえ、どうして両手を繋がれているの?」
そう思った瞬間、二人に両手を繋がれていた。見た目としては連行される宇宙人的な状態である。
「これからいいところに行くからですよ」
「今の状態を確認できるどころか、回復促進になるところですから」
言葉が棒読みっぽい。嘘ではないけれど真実でもない響きに寒気が走った。
思わずつながれた手を振りほどいて逃げようとしてしまったが、固く握られた手はびくともしない。
「くっ、なんて力……」
「身体強化もできない時点で神様の力とは比べようもないですよ」
「暴れないでくださいね」
まるで誘拐犯のようなことを言う女神達に引きずられるようにして運動場からどこかへ連れていかれたのだった。
女神さまは淑女です。