明日
「私が男なら、そんな状況で女の子を放っておかないけどな」
雲居秋生が、友人の北条椿の話を聞いて思ったのは、つまりその一点に尽きた。
「まあ…それがあの子らしくて良いのよ」
苦笑しながら、椿が言った。
「コロッケ作って、なんて殆ど殺し文句じゃない?それで椿、最近料理に凝ってるって、元々上手なのに…凄いわ…私、揚げ物とか無理…冷凍品くらいしか出来ないわ」
秋生が髪の毛を掻き上げ乍ら、感心する。
「コロッケくらいなら、って思ったけど、やり始めたら、他の献立考えるのも楽しくなってきちゃって。たまにはちゃんと作るのも悪くないわ。本なんて読むのも、久しぶりよ」
「ふーん…何か、良いねそういうの」
「別に、これでどうこうしようとか、そんな風には思わないんだけど…ね。食べたいって言うし、それなら良いかなって」
そんなやり取りをして、二人は笑った。
ある日の放課後。
校門迄あと少しのところ。
「椿、ちょっと良いか?」
その声に、椿と秋生が振り返った。
「…」
「あ、藤谷君」
黒いリストバンドに、白いTシャツ、薄紫のタオルを頭に巻き、凍らせていたスポーツドリンクを片手に彼は小走りに近付いて来た。
藤谷咲矢。
椿の幼馴染。
もう、記憶の何処を辿っても彼と一緒だった事ばかりである。
「…何?」
露骨に不機嫌な表情になった椿が、嫌々口をきいているんだ、と言いたげに尋ねた。
「いや…話があるんだけど…この後、何処かで会えないか?」
「…此処じゃ駄目なの?」
「そりゃ別に良いけど…」
言って咲矢が、ちらりと秋生の方を見た。
「えっと…椿、私、先に帰ってよっか?」
「良いのよ、秋生。咲矢、見ての通り。今度にしてくれない?それじゃ」
咲矢の、そして秋生の返事も待たずに椿は校門を出た。
「ちょっと…椿…。あー…藤谷君、ごめんね?」
秋生が謝罪する。
「いや、雲居さんが謝る事じゃ…。まあ、いつもの事といえばそうだから、大丈夫。またにするよ」
咲矢が少しだけ困った顔で苦笑した。
「練習、大変そうだね」
「はは…実はその事だったりするんだけどね…相談」
「そうなの?」
「いや、俺の弟の事で…ね。あいつ、弟と仲良いし、何か聞けたらなって」
「弟さん?」
秋生が、聞き返した。恐らく、先程から椿に聞いていた、コロッケのあの子の事だ。
椿はもう、かなり先を歩いていた。
「んー…どうしよっかな…」
※
「…椿」
「…何で?」
下校途中によく寄る、ファーストフード店。窓際の隅のカウンター席が、椿と秋生の一番好きな場所だった。
其処で一人、コーヒーを飲んで秋生を待っていた(何も言わなくても、後を追って来てくれる事をお互いに解っている)。
しかし、来たのは咲矢だった。
「秋生…」
友人の気遣いに、少々うんざりする椿だったが、当の咲矢は何事か話をするつもりの様子である。
横に座って、フィッシュバーガー(薄く切ったレモンが入っていて、それが咲矢のお気に入りだ)と期間限定のアボカドエビフライバーガー、ポテト、クラムチャウダー、Lサイズの7UPをどかっと置く。
これだけ食べた後も、恐らく自宅で夕飯を平らげるのだろう。この小柄で細身の一体どこに入るのか、それを考えるだけでも何だか腹立たしい。
「あのさ、春夜の事なんだけど…最近あいつ、お前に何か話したりしてない?」
ハンバーガーの包装を丁寧に剥ぎ乍ら、咲矢が尋ねた。
「…何かって、何?」
「いや、例えば…。ああもう、いいや回りくどいのは。あいつ、中学の途中からすっかり道場に顔出さなくなっただろ?皆も心配してるんだよ」
「それで?」
「…だから…その、お前になら何か悩みとか、話してないかなって。あいつ、いつの頃からか俺にも兄さんにも何も言わなくなってきて…さ」
情けないけど、と付け加えて、咲矢は食べ切ったハンバーガーの包装紙をくしゃくしゃに丸めた。
「…ふーん…」
「ふーんって…何だよ…」
不安そうに、狼狽える咲矢。何とも情けない表情に、椿は更に苛立ちを募らせた。
しかしこれが、かつて様々な問題を孕み、問題児の巣窟であった椿が通う高校の柔道部を纏め上げ、全国優勝迄導いた主将の姿である。
その線の細い体躯と温和な顔立ちの所為で、まずそうとは思われないが、紛れもなく現在の高校柔道界きっての天才。
恐らくこのまま、大学も推薦で進学し、将来はオリンピック…という事も夢では無い。
そんな兄に、一体何を相談出来るというのだろうか?
椿は知っている。
小学校を卒業する頃から、咲矢の、その才能に追い付けなくなっていく弟、春夜の姿を。
持ち前の負けん気で、必死に、明るく努力し続けていった、小さな男の子を。
そして中学の時、決定的にその差を埋める事が出来ず、挫折した事を。
そんな春夜に、一体咲矢は何を聞いてやれたというのだろうか。
そんな咲矢への憤りが、椿には在った。
一人っ子の椿にとって可愛い「弟」の春夜に、かける言葉は無かった筈だ。
「…あのね…まだ解らないの?」
眉間に深々と皺を刻んで椿が言った。
「…な、何が?」
咲矢が、その様相に更に狼狽える。
「貴方の、そういう所なんじゃないの?貴方は中学生の頃から天才だって言われ続けて、実績も全国区で残してる。それに比べて自分は…って、普通なら思うんじゃないの?それとも、本当にそんな事も解らなくなるくらいになっちゃった?」
「…」
咲矢が何事か言いかけて、一つ溜息をつくだけで、俯きながらポテトをかき込む。それを7UPで喉に流し込んで、今度は意を決したのか、口を開いた。
「ごめん…」
その一言に、椿は「何、それ…」と、怒りを顕にする。
「いや…その、正直言うと…解らないんだ」
申し訳無さそうに、頭を掻く。
「まさか本当に…」
コーヒーを持つ手が、震えた。
「うん…」
「貴方って人は…」
そう、昔から。
子どもの頃、家で遊んでいた時。階段から落ちた椿を庇って下敷きになった事。
小学生の時、いじめられていたクラスメイトに、椿を含め誰もが声をかけなかった時、一緒に登下校していた事。
中学の時、体育祭のリレーでアンカーに渡す前に転倒した友達からバトンを受け取って、逆転優勝した事。
そんな全ての振る舞いが、当たり前。
皆が咲矢を、嫌う事なんて無い。
けれど、だからこそ湧き上がる感情が椿には在った。
「いい加減に…」
言いかけた瞬間、珍しく咲矢が椿の話を遮った。
「あいつ…春夜…の方が、強いからさ…」
「…え?」
咲矢から出た、意外過ぎる一言。
「いやほら、俺が天才かどうかは俺には解らないけどさ…春夜が強いっていうのは解るんだ。だから、俺みたいに弱い奴からしたら、解ってやれない事も在るのかなって。あいつ、多分そういう所、孤独な気がして…。まさかそんな、俺と比べてどうこうなんて…」
「何を言ってるの?私の話、聞いてた?あの子はね、貴方の…」
「実績だっけ?うん、そっか…そこだったんだな…。参ったな…そんな、途中で思ったんだ…」
「…途中?」
「ああ、だってそうだろ?俺は弱いから…心も体も。だから、必死なんだよ、いつも」
咲矢は続けた。
誰よりも弱いから、強くならなくちゃ不安な事。
その為に練習をただ、続けてきた事。
今現在、自分がどんな評価だとか、大会で優勝したとか、そんな事は殆ど気にならなくて、本当になりたい強い自分になる事が最終目標である事。
そして、咲矢が求める強さを最初から持っている奴がすぐ傍に居た事。
「あいつは、本当に強いよ。強いんだ。真っ直ぐで、純粋に。いつだったか、兄さんのつてで秀明大附属中のレギュラーと練習する事があったんだ。もう皆ボロボロにやられちゃってさ。その日から道場辞める奴も何人か居たんだ。俺も、その時は悔しくて泣いた」
「…」
そういえば、椿にも覚えがあった。
珍しく、咲矢が目を腫らせてロードワークをしていた日が、確かにあった。
「でも、春夜だけは違ったんだよ。あいつ、あの日の夜、兄さんと俺に何て言ったと思う?」
「…何て言ったの?」
少しだけコーヒーを握る手を緩めて、椿が尋ねた。
ーおかしいなー…何で勝てなかったんだろ?隆兄、俺、どっか動き変だった?咲矢兄も、何か気付いた事無い?ー
「あの全国でも名高い秀明大附属のレギュラー相手にだぜ?普通なら胸を貸して貰ってありがとうとか、俺や辞めていった奴みたいに泣くくらいが当たり前さ。それをあいつは…」
右手で、左腕の震えを掴んで抑える咲矢。
「兄さんも、後で笑ってたよ。あいつが一番強い、って。俺もそう思う。今全国優勝だとか、そんな事は関係無いよ。俺は、いつだって…あいつのそういう所が怖かった。勿論、今もね」
歯軋りして、必死で声を震わせない様にする。いつだって、笑顔で全てを過ごしてきた筈の咲矢が。
「…咲矢…貴方…」
「あいつ多分、器っていうかキャパっていうか…そういうのが異常に強くて、大きいんだよ。だから、それが満ちるっていうの?その時が来るのって、もっと後々だと思う。だからこそ、今のあいつが勿体無くって…さ」
そこ迄聞いて、椿は暫く茫然とした。
自分と咲矢が共通して、一番長く時を過ごしたあの子への評価。その、余りの違いに。
そして、今目の前に居る「天才」が、如何に彼の弟を評価し、大切に思っていたか。
私はあの子の事を、弱くて可愛いって思っていた。
でも咲矢は、いつだってずっと、春夜の強さを信じていた。
その事が何だか恥ずかしくすら思えてきて、椿はコーヒーを素早く飲み干した。
「…そっか」
やっと、咲矢の前で笑顔になる椿。
「ん?何だよ…」
「ううん、何でも無い。春君からも、何も聞いて無いし…ごめんね、役に立てなくて」
言い乍ら、椿がもう一つのハンバーガーをひょいと奪い取った。
「じゃあね」
椿の表情は、何時に無く穏やかだった。
「おい、待っ…」
「何?」
そして紡がれる、咲矢の言葉に、椿は…。
※
その日の夜。
椿と秋生の電話。
「ごめんね、余計な事かなとも思ったんだけど」
秋生が努めて明るく謝罪した。
「良いわよ。久々に話せて、色々解った事もあったし。ありがと」
「そっかー、良かったね。…で?」
「で?って、何?」
「いや、そりゃあれでしょ。色々解った事ってやつよ。学校のヒーローと二人っきりで解り合えた事、気になるなあって」
含み笑いをし乍ら、秋生が尋ねた。
「…そうね…私の好み、とか?」
悪戯っぽく、椿が微笑んだ。
ー春夜は強いよ。あいつの「真っ直ぐ」を折れる奴なんて、多分居やしない。でも、俺は弱い俺なりに頑張る。いつか絶対、全部強くなる。だから、俺は頑張るー
「お?何?可愛いのが好きって事?」
興味津々という様子で、秋生が言う。
「ううん。そう…弱い人…かな。どんな関係か以前に、そんなのを見ちゃうと応援したくなるよね」
「…へえ。何か、良いねそういうの」
弱い自分を乗り越えようとするあいつ。
強い筈の自分が打ちのめされて、傷付いたままのあの子。
何時かの涙。
今日の汗。
そして、明日につながる…。
明日の…。
END
※
後日。
椿の独り言…。
「俺は弱くて、春君は強くて、自分じゃ解ってあげられない所が在って…それを私には相談してるかもしれないから、話を聞きたいって…。咲矢の中での私って、強いって事…?」
折角、少しだけ昔に戻ったみたいに咲矢に優しい気持ちが持てたのに、またすぐ、無性に腹立たしく感じてしまった椿であった…。
その怒りの根拠は、無意識なのかそうでないかは椿自身にも解らないが、考えない事にした。