illusion is mine
コンテスト当日。
シュタンが起きると、時計の針は六時を指していた。まだ早い時間だというのに、外から賑やかな音が聞こえてくる。きっと、今日の祭りの準備でもしているのだろう。シュタンはコンサートに向けて、アコースティックギターのメンテナンスをし始めた。左手にクロスを持ちながらギターを支え、右手で弦を一つ一つ丁寧にチューニングする。そして、タン、タン、タンと六弦から一弦までゆっくりと鳴らしていく。いつものギターの音色が耳を潤していく。心地の良さからか、自然と目を瞑っていた。
しばらく経ってギターの音が鳴り止むと、シュタンはクロスを傍に置き、直接左手でギターに触れた。
頭の中に、脈打つ電子映像が流れ込む。
一定の間隔を開けて、波長が映し出される。
鼓動のような弧を描き、それに合わせるかのように谷が生まれる。
そして、そこに水が流れるように、綺麗な音が交じり合う。
いつもながらこの光景には心が落ち着かされる。いつまでも浸っていたい。シュタンは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
いつもとは違う朝のような気がした。ギターをケースに戻そうと体を後ろに向けると、窓からは今日を祝福するかのような暖かい日差しが差し込んでいる。少し黒く濁った水色は、日差しと呼応するかのように輝いている。
シュタンはその景色を背中に受けながら、金色のメッキが目立つケースのバックルを閉めていく。パチンと、歯切れの良い音が耳に飛び込んでくる。そして閉め終えると、その大きな黒の固まりを景色が遮るようにして背負った。ベッドの上に置いていた帽子を深く被り、ドアに近づく。ノブをゆっくり回してドアを開けた。
「シュタン! どんだけアンタは寝ているのよ!」
いきなりレベンの怒声が轟音の如くシュタンを襲った。朝の余韻が一瞬にして完膚なきまでに壊れる。
「まぁ~ったく、もうお昼だっていうのに。いいご身分だこと」
「嘘はよくないぞ、レベン。欠伸をかましているお前からは説得性の欠片が微塵も感じられない」
「違うわよ! これは、朝歌ったからよ!」
「昨日、『私、サボる』とか言っていたのにか」
「仕方ないでしょ。体が覚えていたのよ。まったく困っちゃうわ」
「いつまでこの茶番を続けるつもりだ」シュタンは不機嫌な態度を露にする。
「いやいや、これが本当なんだってば。ちょっと一階まで来なさいよ」
レベンはそのままシュタンの方を見ないで、とっとと一階まで走っていった。
「どんだけ焦っているんだよ、あいつは」
シュタンもその後を追って、歩いて階段を下りていった。
木製の階段は普通に歩けば、音がギィと鳴った。きっと、この家が古いからであろう。しかしながら今は、前から「そんな小さいことも気にしないぜ」といった奴が、ドタドタと煩わしいほどの騒音を鳴らしている。ここまでピッタリの言葉が当てはまることもそう無いことだろう。
「あら、おそようございます。シュタンさん」
リビングに入ると、得意げな顔で待ち伏せていたレベンと、相変わらずの微笑みで新聞を読んでいるジュイスがいた。
「おそよう…とは?」
「知らないのかしら? もしかしたら、古い言葉だったかもしれないわね」
「ジュイスさん、そんなことはありません。シュタンは馬鹿なので、何も知らない愚か者だからあんなことを言うんです」
「その口が言うか。レベン」
「そんなことを言っていられるのも今だけよ!」
レベンはそう言うと、いきなり置時計を手に持ち、シュタンの所まで全速力で駆け寄っていった。
「さあ、見なさい! これが今の時刻よ!」置時計を持つ右手をシュタンに突き出した。
「ええと……十二時四十…。ん? 十二時だと!? というよりも、もう一時じゃないか!」
シュタンは思わず大きな声を出していた。
「あれ~? シュタンさん、どうしたんですかぁ~? もしかして、時間を知らなかったんですかぁ~?」
「いや、ちょっと待て。確か…俺の部屋の時計は六時に」
「もしかして、時計の読み方も知らないんですかぁ~?」
「うるさいぞ!」
「ひぁぁぁ~、怒った、怒った」
タイムラグの原因なんてどうでもよくなった。今、目の前にいるこの小娘をどうにかしてやらないと気が済まない。シュタンはニヤリと笑って見せた。
「な、なによ…その笑顔は」
「今からお前は、後悔することになるだろう」
シュタンが言葉を打ち出そうとしたとき、「そうだわ」とジュイスが雰囲気をなだめるように話し始めた。
「どうしたんですか? ジュイスさん」
シュタンは我を取り戻し、ジュイスの話に耳を傾ける。
「もしかしたら、シュタンさんの部屋の時計、電池が無くなってしまっていたのかもしれないわ」
「はい?」シュタンは思わず声を上げていた。
「あの部屋は、ずっとそのままにしていたのよ。誰も使うことがなかったからねぇ」
ジュイスは表情を変えないでいたものの、少し淋しげに話している気がした。
「でも、今回は私たちが使いましたよ。だからもう、使わないことなんてありませんから!」
レベンは飛びっきりの笑顔を振り撒いた。こんなときに、そんな言葉と笑顔が作れるレベンに、シュタンは何も言えなかった。
「申し訳なかったね」
ジュイスは深々と、二人に向かって頭を下げた。二人は慌てて「いやいや」と言い続ける。
「これはしょうがないですって」
シュタンはやっと違う言葉を紡ぎだすことが出来た。目の前では、レベンはまだ慌てふためいている。
「おい、レベン」
「な、何よ」レベンは立ち止まり、シュタンのほうを向く。
「このタイムラグ事件はお蔵入り、でいいか」
「その話、乗ったわ」
「よし、交渉成立だ。それと、もう一つ」
「もう一つ?」
「今日のコンテスト、優勝したいか?」
「もちろん! 当たり前じゃない!」
レベンはどこからやってくるのか分からない自信に満ちた表情を、そのまま代弁するかのように言ってのけた。シュタンは帽子を深く被り直した後、「了解した」と一言残し、レベンたちに背を向け階段の方向へと歩き出した。
「どこ行くのよ?」
「クスナにトランペットの状態を見せに行くだけだ。出発までもう少し待っていろ」
「まあ、それなら仕方が無いわね」
レベンはそのまま近くにあったソファーに寄りかかって、ふんぞり返るようにして座った。シュタンはその様子をチラッと見て、どこの場違い社長だよ、と心の中で呟いた。