kimino-ne
第四章 kimino-me
「どうした? 調子でも悪いのか」
「いいえ、そんなことはありません」
「今年が勝負なんだから、結果残してもらわないと……。困るのは自分なんだよ!」
「はい、すみません」
マネージャーのその言葉は嘘だ、と思ったが、あながち間違いではないと私は悟っていた。
私は最後のオーディションを、志望していた『金糸鳥』ではなく『大瑠璃』として合格した。合格理由は〝笑顔が素敵だった〟から。長年私を苦しめた弱点が、美点となって私を憧れの場所に誘ってくれたのだ。
ただ、この事務所でのデビューと大瑠璃としてのデビューの違いは、私を戸惑わせた。
私が望んだ部門で入った同期を見ると、皆ボイストレーニングやライブハウスでの実践などを繰り返しては、その力を磨き、伸ばしていった。その姿は、雛の頃からまったく変わらない印象があった。そしてその実力が事務所に認められると、『金糸雀』としてデビューするのではなく、事務所の判断によって組まされたユニットでデビューをしていた。その中から人気のある人が『金糸雀』として活動するという手法をとっていた。
しかし大瑠璃は、その点でまずユニットという話がなかった。オーディションを通った全員が一人で、右も左も分からない世界に立ち向かっていた。
分からないことだらけ私たちのために、事務所は大瑠璃専用のレッスンを用意していた。だがそれは、バラエティーでの印象に残るトークの仕方や行動、笑顔の作り方、さらには自分の一番可愛く見せるカメラ目線の徹底など、私が求めていたレッスンとはまったく関係のないものばかりであった。
テレビに出なければ収入もないため、私は必死でそのレッスンに取り組んだ。そのおかげもあってか、最近はテレビに出る機会も増えた。そして三年目の今、ここが勝負なのだと事務所やマネージャーから口酸っぱく言われてきた。
でも、私がやりたかったのは歌手だ。いつか、唄が歌えるチャンスを得るために、今が耐え時だと私は自分に語りかけた。
「それで、どの辺りが駄目だったんですか?」
収録を終えた車中で、私はマネージャーに意見を求めた。
「いつもの笑顔に覇気がないんだよ。君の武器はその笑顔なんだよ」
「それは自覚しています」
「なら、なんで取り組めないの?」
唄が歌いたい、とは言えなかった。雇われている身で、しかもまだ若い自分がワガママを言って通るはずないと気付いていた。
「口がついているんだから、何か言ったら?」
私が黙ったままでいると、マネージャーは一回小さく舌打ちすると、備え付けのテレビに電源をつけた。画面には有名な音楽番組が流れ始めた。
「お、新人の金糸雀か」
私はその言葉でテレビの画面を見た。そこには、「アネロ」という少女が白いワンピースに身を包み、画面の中央に立って唄を歌おうとしていた。
震え出した手を握り合って暖め合おう
陽だまりの下で笑うような未来を想像するよ
歌い始めると、私はその歌声に息を呑んだ。ガラス細工のような声質は、自分の心の中を見透かされているような気分になり、また同時にその心を受け止めてくれるような優しさを感じた。
そして、いつか消えてしまいそうな姿からは想像できない人としての力強さ。これが曲に説得力を生んでいるのだと分かった。
曲が終わっていくに連れて、自分の中で何かが渦巻いている感覚が分かった。そして、それに流されるように私の口が動いた。
「私も、歌いたい」
マネージャーは何も言わずに運転を続けた。
その何ヶ月か後に、私はシングルを出すことが決定した。大瑠璃が唄を出す商法は前から存在していたため、前から案は出ていたらしい。だが、この事務所においては初の試みであったため、判断に慎重を重ね、実行までには移らなかった。
しかし、今回の私の一言をマネージャーが社長に話を通したらしく、社長もこれを機に、新たな一手を我が事務所に取り入れようと決めた、とマネージャーから聞かされた。
「というわけだから。君次第でこの商法を我が社で取り入れていくかが決まるから、これからの販売促進のイベントは気を引き締めて取り組めよ」
「そうなんですか」
その経緯を私は、唄をレコーディングし終えたスタジオの休憩室で聞かされた。マネージャーがあまりにも淡々と話を進めてしまうせいで、私は実感が少しも沸いてこなかった。
「それで、この前見た音楽番組があるだろ?」
「この前とは?」
「車の中で君が自然と呟いたときだよ」
そのマネージャーの曖昧なヒントは、私がその瞬間を思い出すのに最も適した一言だった。
「『唄を歌いたい』と言ったときですか」
「そうだよ。で、そのとき見ていた音楽番組があっただろ」
「はい。とても由緒正しく、歴史も長い番組ですよね」
私にとってそれは、小さい頃から見てきた憧れの番組だった。いつか出演したい、その気持ちだけで頑張っていた時期もあった。
「あれに出演することが決まっているから」
「本当…ですか」
「嘘をついて何になる。出演は二週間後。その間はいつも通りタレントの仕事があるから、その番組に向けて気持ちは整えておけよ」
「は、はい」
マネージャーはそう言い残すと、スタッフの人と話があるといって休憩室を出て行った。私は頭の中が真っ白になっていた。
あの音楽番組に出演できる。あの頃の自分に伝えいと思った。
出ることは無いだろうと諦めていた憧れの場所に、金糸雀とは違う立場であるものの出演することができる。今の私にはその事実だけで十分だった。
私は一度頷いて、ゆっくり立ち上がった。
鏡が無くても、自分が今笑っているのが分かった。
それからの番組収録は順調、快調に進んでいった。いつもよりトークは滑らかに、コメントは上手い具合に残すことができ、周りの出演者からも評価してもらった。
これにはマネージャーも鼻が高くなったらしく、上機嫌なのか下手な流行りの曲を鼻歌で口ずさみながら車を運転していた。
「いや~、絶好調だね!」
「は、はあ…」
私は連日の収録の疲れもあって、テンションの高いマネージャーについていくことができず、ただただ空返事をしてお茶を濁した。
「君の評価が上がり、私の評価もうなぎのぼり。次期トップは私に…」
運転しながらマネージャーは一人呟いている様子であったが、私は無視をして明日の音楽番組に意識を向けた。
これまで順調に仕事をこなすことができたが、今日の仕事はこれまでの仕事とは訳が違う。あの時、会社の事業についてマネージャーは語っていたが、自分にとってそれは、正直どうでもよかった。
これを機に私は、『金糸雀』として羽ばたきたかった。
今まで披露することのできなかった歌声をしっかりとあの場所で出すことができれば、視聴者や共演者が認めてくれるはずだ。
それを社長に伝えることができれば、GOサインを出してくれるだろう。今まで社で取り組んでいなかったことに手を出した人だ。きっと、面白さや話題性に目が眩むだろう。大瑠璃から金糸雀になった例は、私の記憶の中には存在していない。
だからこそ明日は事務所としての勝負ではない。私の行く末を決める大切な勝負だ。疲れているからって負けるわけにはいかない。今までお世話になった人に、私は『金糸雀』としてまた会いたかった。
決意を固めた私の目には、本日生放送が行われる音楽番組のスタジオがある建物が飛び込んできた。深く息を吸って、ゆっくりと吐く一連の流れで気を引き締めた。
スタジオに入るとすぐに確認作業に追われた。オープニングでの立ち位置やカメラの動き方などを実際にその場に立って説明を受ける。憧れていた場所に立つとスタッフの話が耳に入らず、浮き足立っているのが自分でも分かった。
周りを見渡してみると、最初は大瑠璃の身で出演する私がどんなものか興味本位で見に来る共演者の姿があった。だが、本番まで曲を披露する機会がないと分かると諦めて引き返したのか、その姿は無くなっていた。
「では、本番もよろしくお願いします」
私はスタッフの人に笑顔を見せてからお辞儀をし、スタジオから離れいったん楽屋へと戻った。
楽屋へと向かうエレベーターの中、幸か不幸かマネージャーと私の二人しかいなかった。話すことも無かったので、私は黙ったまま俯いていると、突然マネージャーが私に話しかけてきた。
「どうした。気分が優れないのか」
変に優しいマネージャーに、私は嫌な気配しか感じなかった。マネージャーは自分のことだけを考えて私に話しかけているのだろう。
「いや、違いますよ。ただ集中しているだけです」
「そうか、それならいいんだ」
マネージャーはそう安心した様子を私に見せるようにして胸を撫で下ろした。エレベーターの中は無機質で平坦な音だけが立ち込める。
目を瞑っていると、その音も何だか心地の良いものに変わっていった。今なら何でもできるような気がした。
私の心を表すかのように、自分が一瞬浮いた気がした。慌てて下を見ると、足は地に着いており、上を見ると楽屋がある階の数字が明るく照らされていた。間もなく目の前のドアが開くと、一人の女の人が立っていた。その姿は、年月を重ねていてもすぐに分かった。それは紛れもなく憧れ続けてきた「ソリュー」だった。
「どうして、ソリューさんが今日のこの番組に出演することを、私に教えてくれなかったんですか!」
楽屋に戻ってから、私は溜まっていた興奮を発散するかのようにマネージャーに言い寄った。
「俺が共演者の情報を掴めている訳無いだろ」
「でも、前日なら分かることじゃないですか!」
「それはお前でも確認できるだろ」
「私は歌う以外のことを考えたくは無かったんです! 今日が勝負だ、って言ったのはマネージャーの方ですよ」
「歌うこと以外考えたくなかったのなら、なんでそんなにソリューに拘るんだ?」
「私の憧れの人だからに決まっているからじゃないですか! ああ…分かっていたら差し入れを持っていったのに」
「もういいだろ。そんなことに現をぬかさないで出番に備えろ」
マネージャーは不満な態度を隠すことなく部屋を出て行った。自分より若いマネージャーの中のソリュー存在の小ささに、私は少し落胆してしまった。
まだ時間が残っていたので、私は楽屋に用意されていたチョコレートに手を伸ばした。糖分は頭を働かせるだけでなく集中する際にも使われている食べ物だと聞いていた。袋を開けて、そのまま口に入れる。
「うわ! にがっ!」
口に入れて下に乗せた瞬間、すぐにそのチョコレートを吐き出した。少し溶けたチョコレートをティッシュに包み、袋の成分表示に目を移す。
「カカオ九十五パーセントだって!? こんなの食べられないわよ!」
楽屋に自分一人だけの声が響く。虚しくなって、私は空になった袋をゴミ箱に捨て、自分のカバンの中に入っているミルクチョコレートを一つ口の中に入れ、口の中を整えた。
甘さが口の中いっぱいに広がり、幸せな気分に包まれていく。憧れのソリューさんに出会い、甘さが広がる幸せな世界にいる私なら、今日の勝負はきっと勝てる。そんな気分にさえもなっていた。
浮世離れした世界に浸っている私を現実に戻すかのように、乾いたノックの音が部屋に鳴った。
「マネージャーか。こんな良いときに帰ってきて」
私は文句を漏らしながらドアを開けた。
「こ、こんにちは。突然押しかけてごめんなさい!」
いきなり謝られた。そんなにひどい表情をしていたのだろうか。
そこには背の低い少女が立っていた。綺麗な水色のワンピースに身を包み、怯えた小動物のように小さく立っていた。
「こんにちは。私に何か?」
「ええと、そのぉ…」
少女は何か言おうと口をもごもごとさせていた。私はその様子を眺める時間が積もっていくに連れて、昔出会った女の子と姿が重なっていった。
「あれ? あなた確か…ルトリ?」
「覚えていてくれたんですね!」
忘れたくても忘れられないよ、と私は思った。
「でも、どうしてここにいるの?」
「私も今日の番組に出るんです。レミーさんもですよね」
「え、ええ」
「嬉しいです。こうやってデビューする前から知っている人と同じ舞台に立てるなんて」
何も知らないルトリは屈託の無い笑顔を私に向けた。
私は何も言えなかった。きっとルトリは今日、金糸雀として出演するのだろう。ルトリも私に対して、私と同じ考えをしているはずだ。しかし、私は大瑠璃。同じ舞台だなんて微塵も思えなかった。
「どうしたんですか? そんな怖い顔をして」
「え!? ええと、さっき苦いチョコレート食べちゃったからかな」
そうなんですか、とルトリは素直に受け入れた。そんな素直に生きてこの業界で生きていけるのかと、私は心配していた。
「少しの時間でしたけど、出番前にこうやってレミーさんとお話することができてよかったです」
「私もよ。お互い頑張ろうね」
「はい! 今度時間があったらサインください」
ルトリは軽く頭を下げて、ゆっくりとドアを閉めた。ルトリの足音が遠ざかっていく。
私は一人、ルトリとの距離を痛感させられていた。もうすぐ出番前だというのにあの落ち着いた様子。一体どれくらいの場数を踏んできたのだろうか。出会ったあの時のことを回顧しながらルトリとの距離を推測する。
時計の針が静かな楽屋の中をカチカチと鳴らした。
ついに、本番の時間を迎えた。帰ってきたマネージャーもネクタイを結び直し気合を入れている様子だった。
私も衣装に着替え、鏡でその姿を注意深くチェックする。いつもより輝いている。そう思わないと、何かに置いていかれてしまうような気がした。
「さあ、行くぞ」
マネージャーはそう言うとドアを開け、私が先に出ることを促した。
ここまで来たエレベーターの場所まで二人で歩く。灰色の床は、勝負へ向かう戦士の通り道のようだった。鼓動が高く跳ね、呼吸は浅く早くなる。
エレベーターが見えてくると、その前で待つ二つの人影が見えた。私はその左側に立つ後ろ姿を見た瞬間、それが誰だか分かった。
ソリューさんだ。
私は小さく呟いた。右側に立っている人物はマネージャーなのだろう。さらに鼓動が高く跳ねて、音のリズムが早くなっていく。
「こ、こんにちは。本日はよろしくお願いします」
私は恐れながらもソリューさんの左側に立った。マネージャーは、ソリューさんのマネージャーと何か話をしていた。
私はソリューさんの方を向くことができなかった。挨拶をしてもソリューさんは私をチラッと見ただけで何も言わず、私もその空気を察知してか、緊張して何も話しかけられなかった。
そして、エレベーターは私たちが待つ階に着いた。ドアが開くと中には誰もおらず、ソリューさんは躊躇も無く入っていく。
私はソリューさんのマネージャーが先に私を入れてくれたので、また憧れの人の隣にいることができた。デジタル表示の数字が一つずつ下がっていく。私の前では、二人のマネージャーが談笑をしている。
右にいるソリューさんは微動だにしないで前を見続けていた。当然私はその圧倒的な雰囲気に飲まれて、何も話しかけることもできないでいた。笑顔が売りの私でも、元の性格が明るいわけではない。
間が持たずに、私は今何階にいるかを確認した。横目にソリューさんが映るも気にしないで見ると、まだ乗り込んだ階から一つしか下がっていなかった。
まだ着かないのか。これが今の私の正直な感想だった。
喉が渇いていき、手汗が滲んでいく。私は俯いてその夢みたいな時間は、耐えるという言葉になって私に圧し掛かっていた。
私にとって重かった空気が晴れていく、そんな小鳥のさえずりの様な音がエレベーター内に響いた。
これで解放される。鼓動がどこか大人しくなっていた。
前に立つマネージャー二人がドアを抑え、秋にソリューさんが降りた。それに続いて私も降りると、ソリューさんがこちらを向いて立っていた。
前髪は長くて表情は見えなかった。ただ、何か口角が上がっているような気がした。
きっとマネージャーを待っているのだろうと私はその横を会釈して通り過ぎようとしたとき耳元に風が吹いた。
「調子に乗るんじゃないわよ」
低くて冷たい氷柱なような声が私の心を貫いた。
その番組の出演は終えてどれくらいの時が経っただろうか。出演したこと以外は何も覚えていなかった。仕事は全てキャンセルし、家に長い間引き篭もっていた。
テレビは売った。見るのが怖くなっていた。
会社から電話がかかってきても出なかった。何を言われるかわからなかった。
外にもほとんど出かけなくなった。人に会うのが怖かった。
時が経つのも忘れて床に座って窓から遠くの景色を眺めることしかしていなかった。いや、それしかできなかった。
手元に置いてあったチョコレートを口に運ぶ。苦い味だけが口いっぱいに広がった。
それに呼応するかのように、ソリューさんの一言が頭の中で再生される。こういった類の記憶は消えないものなのかと私は呆れて笑うことしかできなかった。
ガコン。
何かが落ちる音が聞こえてきた。何もしたくないが、家の中に何が入り込んだのか確認しなければいけないと思った。
私はゆっくりと立ち上がり玄関に向かった。そこには、茶色の大きい袋が一つ無造作に床の上に落ちていた。
それを拾い上げ、私は注意深くその茶封筒をあけた。前来た茶封筒には剃刀が入っていたことに気づかずに開けてしまい、危うく怪我を負う羽目になった。
開け終えて中身を確認すると、そこには剃刀ではなく、一枚のCDと白い紙が入っていた。
それはアネロの『Alchemy』だった。
これが何を意味しているのか分からなかった。ジャケットに映っているのは、見覚えのある少女とはかけ離れた煌びやかな女性。これを送ってきたその真意を私は知りたかった。
そして、CDと一緒に入っていた知り紙に目を通す。そこには、『待っています。 ルトリ』と直筆で書いてあった。
何が『待っています』だ! 上から私を見るな!
声に出していたかは分からない。でも、体中を私の声が駆け巡っていた。
もう嫌だ。どうすればこの暗闇から抜けだせるんだろう。
私が私としていたものは何だったっけ?
綺麗な透明のビニールに包装されたCDを見つめる。
そこには、穏やかな微笑みを浮かべる私がいた。
「申し訳なかったな、レミー」
「ど、どうしたの? 突然」
夕日が傾き紫色に染まる空の下、私と夫は公園にある大きな木の下のベンチに横に並んで座っていた。奥のほうでは、小さな男の子が無邪気に走り回っていた。
「うちの宿を広めるためにはあれしか方法がなかったんだ」
「何よ今更。だいじょうぶよ。何かも分かった上で私は了承したんだから」
私は微笑んで律儀に頭を下げる夫を見下ろした。寂しくなった頭の天辺が過ごしてきた日々の長さを語っていた。
「でも、よく了承してくれたな。あんなにも嫌っていたのに」
夫は茜色が残る空を見上げた。何かを考え、推理しているような横顔に見えたが、実際には何も考えず私の答えを待っているのだと分かった。
「そうね……ケリを着けたかったのかもしれない。憧れていた世界に入って、いつの間にか自分を見失って……。そこから私自身を取り戻すためには、きっと、逃げたり忘れるたりするだけでは駄目だったのよ」
「そうか」
夫は優しい表情を私に向けた。
「それに?」
「それに?」
「あなたがつけてくれた名前ですもの」
私は微笑んで彼に言った。
「でも、俺はハラハラしたんだぞ」
「どうして?」
「俺は経営者である前にお前の夫だ。それを忘れないでいて欲しいな」
夫は、男の子がいる方向に顔を向けた。私はその横顔を眺めながら、穏やかな気持ちに身を沈めていた。
あの頃の自分だったら、今の状況なんて思いもしなかっただろうな。
今の私がこうしていられるのも、この人のおかげであると感じていた。音楽を聴きたくなかった私のことを思ってライブハウスの運営を止めたり、それとは関係の無い宿屋を経営したり、子どもを育てたり……。全てが私に向けての優しさだ。
「一つ聞いても良いかしら?」
「なんだ? 急にかしこまって」
「どうして、あの名前にしたの?」
夫はハッハッハと笑った。
「よく、俺はあの店でおちょこで飲んでいたろ?」
「ああ、テキーラでしょ?」と言うと彼は首を振った。
「アレはな、ただのジュースなんだよ。俺は酒が苦手でね、格好をつけるためにあんな風にしてな。あそこのマスターも快く受け入れてくれたよ」
私はただただ唖然としていた。
「で、『芸名をつけてくれ』とおまえに頼まれた時、オーディションを勧めた時を思い出してな。そういえばジュース飲んでたよなーって。それで、文字を書き起こして、これでいいじゃん! ってなってあの名前にしたんだ」
私の芸名がそんな理由だったなんて……。くだらないやりとりを、この穏やかな時間の中で過ごすことができている。振り返れば、こんな幸せがやってくるなんて思いもしなかった。
「さて、やりますか」
夫はそう言うと、私と反対側に置いてあったトランペットを取り出した。それをゆっくりと口に近づけ、夫はチラッと私を見た。得意げな表情はあの頃から変わらない。私は笑顔で答えた。
公園の向こうから空き缶の転がる音が聞こえた。