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smile/クラッシュ―1

第二章   smile


「うーん。歌声は素晴らしいのだがねぇ……。もっと表情は優しくできませんか?」

この言葉を聞いたのは何度目だろうか。歌詠になったというのに、大手事務所などからのオファーは一切無く、こうしてオーディションやライブ活動を地道に行う毎日だ。

確かに、それほど有名な学校を卒業はしていないが、この現状はおかしいのでは? と思うこともある。周りの歌声を聴いても自分が勝っているとしか感じない。しかしながら、音楽業界は実力と実績、そして好感度だ。学校の知名度よりも、自分を売る手段が欠如していては仕方の無いことだ。

その結果、今日のオーディションもすぐに落選した。会場は他の街だったので、アンダンテへとバスに揺られて帰ってきた。チャンスの度に、無駄な金が消えていく。華やかな街中でバスを降り、肌寒い風が拭く中、寂れた街外れにある、家へと歩いて向かう。

落ちる原因はいつも同じだ。その先々で言われることは大抵、顔が怖い、表情が苦しい。同じ内容を違う言葉に化けさせてるいだけだから、始めて言われた頃に比べれば、もう傷がつくことに慣れてしまった。

 予想よりも早く終わってしまったオーディションの反省もあったので、家で練習を始めた。鏡を見ながら自分の表情をチェックする。けれども、そこばかり意識をしてしまうと、音程がどうも安定しない。不安定といえば生活面にも言えることだ。収入は、ライブハウスのバイトがほとんどで、ごく稀に、路上で歌っていると酔っ払った人たちが渡してくれる小銭なんかもある。

 そんな苦しい生活の中でも、歌うことが辛いだなんて思ったことは一度だって無い。人前で歌うことはもちろんだが、家で練習している間だって楽しすぎて時間を忘れてしまう。

 初めに私が「歌声」というものに意識を持ち始めたのは、物心ついたときからだった。その頃に「ソリュー」という金糸雀を音楽番組で見たときにその歌声に憧れてしまった。それが今の私の始まりと言っても過言ではなかった。学生時代もよく「一生懸命に歌うあなたは、本当に歌が好きなのね」と先生に言われていた。その言葉が今の私でもあるし、これからの私を支えていくものだと信じている。

 自分の思い出に浸っているとき、傍に置いていた携帯電話がバイブと共に鳴り出した。連絡先を確認するとバイト先からの店長からだった。

「どうしたんですか、店長」害された気分のまま電話に出る。

「お、その声の様子だと、今日のオーディションはうまくいかなかったようだな」

 その陽気な声を聞くと、なんて意地悪な人だ、と思わずにはいられない。「まあ、そう怒るな」と窘められても直す気などさらさら無い。

「今夜、暇だろ? 今日のライブで照明担当の奴が、体調不良で休みやがってよ。人手が足りないんだ。だから、来てくれない?」聞き馴染みのない甘い声が電話越しから聞こえてきた。

 甘い声はどうでもいいとして、今夜のバイトについてどうしようかと悩んだ。他の人のライブを見ることも勉強になる。さらに照明となると、扱うことのできる人も限られており、もしここで私が断れば、店長も頭を悩ますだろうと感じた。

「別にいいですけど」と私が言うと「オシ!」と店長は食いつくような言葉を出していた。

「弾んで下さいね、今月の給料」

 もちろん私も、タダで働く気などある訳が無い。電話越しの抗議を気にせずに私は電話を切った。


 バイト先であるライブハウス「ホーン」は歩いて二十分の街中にある。このライブハウスは若手の奏曲師や歌詠が多く足を運び、腕を磨こうと日々切磋琢磨している。このライブハウスに、多く若手たちが来る理由もちゃんとある。店長が昔、奏曲師に憧れていた頃があるらしく、その経験があるかためか、ライブを開催するための条件も緩くしているらしい。

ジャージ姿でライブハウスの前に着くと、中からドラムを叩く音や、ベースの重低音が体を劈いた。きっと、夜のライブに向けてリハーサルでもしているのだろう。

「こんにちはー」扉を開けて中に入ると、外で聞こえていた音の何倍もの量が、全身に襲いかかってきた。

誰も私のことに気づいていない様子だったので「こんにちは!」と、今度はこの部屋に溢れんばかりの声で叫んだ。すぐに演奏が止まったかと思うと、音響機器の近くにいた店長が、歩いてきた。その男性は、黒いサングラスに黒いシャツなど、全身を黒で揃えているというのに、なぜかスニーカーは白色だった。

「お、レミー、来たか。サンキューな。急に来てもらって」店長は、私を拝むようにしていた。

「まあ、暇なのは確かですからね。それよりも、気づいているなら、さっさと出てきてください。歌手の卵の喉を潰す気ですか? 店長」

「ああ? そんなの知らないよ。存在感が無いっていうのは、スター性が欠けている。あの程度の叫びで喉が潰れる? なら、歌手なんか辞めたほうがいいぜ」店長は先程と違った、迫力のあるドスの効いた声で話してくる。

「知っていますよ、そんなこと。もう耳タコです」

「そりゃそうだ」

 店長はニッと笑って、ステージの方を向いた。ステージを眺める店長の横顔は、少しだけ明るく見えた。照明がちょうど当たっているからだろうか? 私も同じ方向を見ると、若い男性四人組が色々と話し合っている。ああしろ、こうしろと、口喧嘩のようなやり取りが遠目から見ても分かる。

「俺、好きなのよ。このバンド。演奏とか歌唱力とかは発展途上中だが、彼らが持っているエネルギーはここ一番だね。それだけで戦っている雰囲気がプンプンしてくるんだ。これが、若さだよ。ロックだよ」店長は満足気に頷く。

「は、はあ…」

 今日の照明は気合を入れなければいけないと分かった。こんなに店長が肩入れしているバンドで仕事に失敗でもしたら、給料が減らされてしまう。そしたら、今でも苦しい生活がさらに苦しくなってしまう。

「後、今日、彼らはゲストを呼んでるからな。最近、アナリーゼの、ほら、お前が卒業した学校あるだろ? そこ出身の女性シンガーなのだが、あの四人が俺に満場一致でオススメしてきてな。しょうがないからオープニングアクトとして呼んだ。だから、先輩として何かアドバイスでもしてやれ」

「嫌です。私にそのような余裕はございません」

 嫌味ったらしく言い放ってやった。一応、私は今日、オーディションに落ちている。そんな立場で他人にアドバイス? ありえない。毎年、有望な歌詠や金糸雀が現れる世界なのだ。わざわざライバルを増やす必要性など無い。こんな甘い考えだから、音楽で食べていくことをこの人は諦めたのだ。

「そう言うなよ。話によると、今日始めてライブハウスで歌うらしい。今日は奴らだったから、男性ばかりのスタッフだし、緊張ほぐしのためにもさ、な?」

「そう言われても」と私はお茶を濁す。早くデビューしたいし、緊張を解く方法なんて自分で探せばいい。第一、私だってそんな方法があったら知りたいくらいだ。

「今日手伝ってくれる御礼として、晩飯を奢ろうかと思ったが、これを引き受けてくれないと…奢らないよ」

 店長はニヤッと笑って、私をサングラス越しからしげしげと見ている気がした。ここで、了承してしまったら、給料が夕食となって一瞬で消えてしまう。

「ご飯よりも、お金がいいです!」

「あ、うちは特別手当みたいな制度なんて無いから。給料は出ないぜ」

「う、嘘でしょ…」

「本当」店長は間髪入れずに言ってのける。

 二人の間に生まれる沈黙。ステージ上の四人の声もタイミングよく消えていた。

 私は、店長にわざわざ聞こえるように溜め息をつき、「分かりましたよ! やればいいんでしょ!」と投げやりに言った。

「おう。それじゃ、今その子、控え室にいるから。頼んだぜ」

 そんな私の意にも介さず店長はそう言い残すと、ステージに走って行った。綿密に打ち合わせでもするのだろう。私は、その子がいる控え室に体の方向を向けた。

 このライブハウスのステージの脇には扉がある。この扉を開けると、一本道の廊下があり、その道を少し歩いた左側の部屋に、控え室がある。私もここでライブをする際は、本番を迎えるまでこの部屋でのんびりしたり、喉の調整をしたりと、様々なことをしている。合同ライブをする際には、共演者と語らう場としても有効に活用している。

「そういえば、名前を聞いてなかった」

 控え室のドアノブに手をかけたとき、ふと気づいた。どんな顔をして入ればいいのだろうか。はたまた、彼女に対する第一声をどうするべきか。全てがノープランだ。

 ヤバイ。これは非常にまずいぞ。体全身に、冷たい汗が伝わる。それに呼応するかのように硬直した体は自然と力が入る。

「あ、もう出番ですか?」

「ウオッ!」

 不意打ちだった。まだノックもしていないというのに、その少女はいきなり目の前に現れた。

 少女の頭の天辺は、私のちょうど胸の辺りにあった。肌はまだまだ艶々で、夢を見る瞳の輝きは駆け出しの頃の私を彷彿とさせた。今日のライブとは正反対の白いワンピースに身を包まれ、凛とした瑞々しさはまだ世の中を見ていない子どものそれだった。

「わ、私が来たことによく気がついたわね」

「ドアノブが、そう言っていましたから」

 ん? 何を言っているのだ、この娘は? これが近頃テレビで流行っている不思議ちゃん、というやつなのだろうか。

「ド、ドアノブが喋るの?」

「ええと、ちゃんと言うと、音がした、というのが正しい表現だと思います」

「そ、そうだよね…」

 独特な雰囲気にもう飲み込まれてしまっていたのだろう。投げ返す言葉も、投げようとする言葉も、すべてこの娘に操られているようだった。

「私は今日、照明のスタッフとして来ているレミーよ。とりあえず、ライブまで時間があるし、少しの間、話でもしない?」

「はい。いいですよ」

その少女の微笑みは、この世のものとは思えないほど、儚かった。

それからの時間は、私が質問をし、その娘が答えるという形で時間が過ぎていった。本来ならば、向こうの質問を引き出し、私がアドバイスをするのが理想だった。しかしながら、それはあくまで理想。現実にはならないことが殆どだ。

その中から分かったことは、その少女の名前がルトリで、十八歳だということ。そして、今回このライブに呼ばれた理由が、少女のいた音楽専門学校の卒業生(つまり、私の後輩になるわけだ)があのバンドであり、学校に遊びに行ったときにちょうど音楽の時間だったらしく、その声に惚れ込み、先生に出演を頼み込んだ、ということだった。

「見知らぬ人たちの依頼を、よく引き受けたわね。」

「先生の半ば強制ですよ」

 ルトリは、テーブルの上に用意されていたお菓子に手を伸ばす。私もチョコレートを手に取り、口の中に入れる。苦味と甘さが口いっぱいに広がる。

私は、お菓子を頬張るルトリの目をじっと見つめた。ルトリの動作が止まったかと思うと、一秒を数える間もなく、汚れた床に目線を逸らした。

「ええと、レミーさんに嘘はつけませんね。本当の理由はですね…」

「理由は?」

「卒業試験が免除になるとのことだったので、このお話を受けました」

 ちゃんと話をしてみれば、まだあどけなさが残る少女だ。大人の甘い話を真に受けて、

「それで、ルトリはこれからどんな風になりたいの? あの学校に通っているということは、大きい事務所から声がかかることはほとんど無いと考えていたほうがいいわよ。これは、卒業生としてのアドバイスだから」

 私は冗談交じりでも、自分が今言った言葉に嘘は何もないと知っていた。その代表例が私であり、あのバンドだ。なにも知らない少女には酷な話かもしれないが、ここで現実を知っておくのも悪くは無い。私はそう考えていた。

「そうなんですか」

 当の本人、ルトリは何も動じていなかった。さらに、それに付け加えるように、

「でも、私には関係ありません。私は、どんな事務所であろうと、たとえ事務所に入れなくても、音楽で人々の心を癒したいんです! それは、今も昔も変わりません」

 強い決意を、それは力強く語ってきた。その唐突なタイミングに、私は何も言うことができなかった。現実を教えたつもりが、それを溢れんばかりの輝きを持つ夢ではね返してくる。若さというのは、こういうときに武器になるのだと新ためて感じた。

「誰か来ますよ、レミーさん。遠くから足音が聞こえてきます」

この娘のタイミングは、何故こんなにも私を脅かすのだろうか。

「そ、そうよね。私も微かに聞こえるわ」意地だ。見栄だ。嘘だ。

「この特徴的な足音は…店長さんですね」

 きっと、ライブの最終確認のために私を呼びに来たのだろう。そろそろこの場を後にしなければならないらしい。

「今日のライブ、楽しみにしているからね。頑張って」

「ありがとうございます」

 丁寧にお辞儀をし、私の顔を見たルトリのその笑顔は、とても力強かった。


「どうだった、今日のライブは?」

 私は、約束通り? 店長行きつけのお店で夕飯を奢ってもらっていた。店長は、小さいおちょこに入った、琥珀色に輝くテキーラを一気に飲み干した。私は何も言えずに、ただただ苦笑いを返す。

「あれは…凄かったな。バンドの連中も、あの娘の雰囲気にすっかりと飲み込まれていたな」

「そう……ですね」その一言を振り絞るだけで精一杯だった。

そう。それはたったの十五分間だった。


凛とし立ち姿

透明に近い青のワンピースが、あの空間を空にした

 そして、優しさも切なさも全てを包み込んだ歌声

 鼓膜から浸透してくる雫が目から溢れ、自然と目を瞑る

 心は空を優雅に泳ぐ渡り鳥のような気分になる

そして曲が終わる頃には

私たちは、新しい世界にたどり着いていた


「で、どうよ? あんなもん見せられたら、そろそろ歌で食っていくことも諦めたくなってきただろ?」

 店長は冗談みたいに笑い、くわえた煙草に火をつけた。

「そう、ですかね……」

「おいおい。珍しく弱気だな」

 弱気になりたくてなっているわけじゃない。逆に、「若い娘からパワーをいただきました!」といった具合に強がっていたい。

しかしながら、それはルトリから吸い取られてしまったのだろうか。全くと言ってそんな気分にはなれなかった。そんな私の頭の中で廻り続けている言葉はただ一つ。

 才能。

それが全てだ。あの煌びやかな世界に入るためのチケット。努力なんかで超えることなどできない絶対的な壁。どうやらこの日がその分岐点だったらしい。自分でその時期を決めようと思っていたというのに…。

「そうか……辞めちまうのか……寂しくなるな」

 店長は咥えた煙草を口から離し、上を向いて息を吐いた。煙はゆらゆらと天井に向かって昇っていく。しかしながら、その煙は、天井目前で散り散りとなって消えていく。

 ああ、私みたいだなぁ。

 背もたれに寄りかかって、私は感傷にひたすら溺れた。すると、いきなり店長が立ち上がり、ポケットからクシャクシャの紙を取り出し、派手に音を出して机に置いた。

「まったくなんなんだ? その未練タラッタラの表情は。最後にこのオーディションでも受けて、それでも駄目だったら、すっぱり諦めろ! いいな!」

 その後も店長はそっぽを向いて独り言を呟いていた。私は、クシャクシャに丸められた紙を丁寧に広げ、その内容をゆっくり追っていく。

 集え! 夢見る若者たちよ! その大きな夢を叶えよう!

 ああ、胡散臭い。地雷の臭いしかしてこない。受けに行く前にもう諦めようかな。

 そんな一抹の不安を感じながら読み進めていくと、この会社は大手レコード会社の傘下企業であることがわかった。心に小さな灯りが灯ったような気がした。

「最後の思い出としては小さい場所かもしれないけど、私、行ってきます」

 無理矢理にでも笑って見せた。店長も、その言葉に反応したのか、こっちを向いてグッと親指を立てた。

「その笑い顔、最高だぜ! きっとお前に不可能なことなんて無いかもな!」

 店長はそう言って、ビンの中で琥珀色に輝くテキーラを高々と持ち上げた。

 それは私の笑顔が他人に褒められた、最初の日だった。

第三章   クラッシュ


作業に没頭しているといつの間にか家の中は寝静まっていた。夜通しで集中していたためか、喉の渇きに気づいたのもそのぐらいだった。足音を立てないように下の階へと移動しコップに水を汲もうとシュタンは蛇口に手をかけた。

「朝、早いのね」

いきなり、穏やかな声が背中から聞こえてきた。シュタンは汲んでいた水を思いっ切りこぼしていた。

「ジュイスさんも早いんですね」

「年寄りは早く目が覚めてしまうものですよ。さあ、こちらに座ってお話でもしましょうか」

「は、はあ」

もう一度水を汲み、仕方なしにジュイスの向かい側に座った。カップを置く音が部屋全体に響くほど家の中は静まり返っている。ジュイスの前にある空っぽのランプの中を火が優しく灯した。

「さて、何からお話しましょうかね。いろいろ聞きたいことがあるのよ」

「まあ、何でもいいですよ」

「じゃあ、大きな荷物について聞いてみましょうかね。『音の整備士』に必要なものは工具箱。それなのに、大きな荷物を背負って行動しているわよね。どうしてかしら」

「あれは言ったじゃないですか。自分の趣向だと」

「そんな嘘、吐かなくていいのよ」

 ジュイスはランプの光に照らされ、その座っている様子には柔らかさが溢れていた。それとは反対に、シュタンの体は少しずつ硬くなっていく。

「いや、嘘ではありませんよ。第一、どうして嘘など吐かなければいけないのですか?」

「それは、あなたが慎重深い性格だからよ。他人に嫌な思いはさせていないか、信頼できる人なのか。それら全てを、あなたは熟考して判断していたわ。レベンちゃんがすぐに人を信じるせいかもしれないけど」

 シュタンはグラスの半分ほどの水を一気に喉に通した。全てを飲み込もうとする喉の音が、自分の首を絞めているような気がしたならなかった。

「ジュイスさんの性格判断は正解です。ただ、それが何を意味しているのですか?」

 ランプの火が揺れた。ジュイスの表情もどこか変わったような気がした。

「簡単よ。整備士の人たちは、会社に就職するか自分の店を持つもの。慎重な性格なら、きっと就職するでしょう。それなのにあなたは、そのどちらにも当てはまらない。そして、その道具。どんなに荷物を多くしても、片手と背負うほどにはならないわ」

シュタンはもう一度水を口の中に含む。まっすぐに伸び出したランプの炎を見つめる。あの荷物についてはもう話してもよいと考えていたが、なぜかしら話したくない気分にシュタンはなってきた。

「様々な想定をした結果です。失敗はしたくないので」

「あなたほどの人が失敗なんてするのかしら。久しぶりのトランペットの整備でもしっかりこなしていた様子でしたけど」

何故知っているのか、あの時確か下の階で寝ていたはず……、その理由を今すぐにでも聞きたいと思ったが、今の会話の主導権はジュイスにある。今この流れを止める発言がシュタンにはできなかった。いや、言わせなかったのかもしれない。

「……あの中身についてもうご存知ということですか」

「ある程度は、ね」

ジュイスはやさしい微笑を変えない。この部屋を照らしているランプの炎が少しだけ揺れる。ジュイスからの静かな威圧感を感じてしまったせいか、シュタンは口を開かざるを得ない状況になった。

「ええ。御察しのとおり、あの荷物の中にはギターが入っています」

「あら、そうなの」

ジュイスはおどけてみせる。シュタンはどこまでがジュイスの本当なのかが、分からなくなっていた。

「やはりあなたは『音の奏曲師』なのね」

『音の奏曲師』。音を奏でることの技術、愛情、情熱を認められたものだけが得られる称号のようなものである。

これは『音の整備士』とは少し違った種類の資格となっている。

『音の整備士』は医師や教師などが持っている「免許」の種類に入っており、その免許を持っていなければ、その仕事はできない。

だが、『音の奏曲師』はコンピュータ関係の資格のように、就職する際に有利になるという利点を持つこと程度しか効力は持っていない。

故に、『音の奏曲師』のような資格を持っていようとも持っていなくとも、その職につくことはできるのである。

「ただ、その資格を持っているだけです。いつもは楽器を直す『音の整備士』として生計を立てています。好きな音楽を奏でて、それで生活できるなんて、現実的じゃないですよ。それで生きていくと決めた友人もいますが……自分にはその考えだけには行き着かなかった。ただそれだけの話ですよ」

シュタンは口角を上げた。今までに聞いたことも無いような音が、口の奥から鳴った。

「でも、演奏することは好きなのよね」

「ええと、それは……」

曖昧な返事を返した後、シュタンはそのまま黙り込んでしまった。沈黙が音も無く二人のいる部屋に佇む。

「でもレベンちゃんは、それで納得するのかしら」

ジュイスは沈黙をたしなめるように優しい声で話を切り出した。シュタンもその声にうつむいた顔を上げた。ジュイスは微笑んでいる。シュタンはその見えない瞳にどんどん吸い込まれていくような気がしていた。

シュタンは水をグイッと飲み干すと、体が少し汗ばんでいるのに気づく。無くなったコップに水を満たそうと、立ち上がって台所へと向かった。勢いよく水を出し始めると、水が跳ねる音と違う音が微かに聞こえてくる。しかし、勢いよく出した水のせいかすぐにその音はかき消される。

「ジュイスさん、何か勘違いをしてはいませんか。レベンは俺と一緒にいるただの変わり者ですよ」

水を止めると同時に、また何かの音がした。シュタンは気にも留めずに座っていた位置に素直に戻る。

「あの優しさと透明感を持ち合わせている声を持つ人、今まで出合った中では一番の印象を持ったわよ」

「一体、何を言っているのですか」

「今に分かるじゃない。あなたが一番知っているように」

 ジュイスの目線がシュタンから外れた。ふとその目線につられてその方向を見てみると、時計があった。もうすぐ五時を指す。

「あなたは、何者なのですか」

「長い間生きていると、いろいろなことが分かってくるものなのよ」

ジュイスはそう言ってランプの中で灯り続けていた火を吹き消した。一瞬であたりは薄暗くなるが、もうすぐ夜明けが近づいている。すぐにでも部屋を太陽が照らしてくれるだろう。その光を迎える歌が語りかけてきた。


月は海に眠りを告げて

星は砂の欠片となる

風は旅の行く先を伝え

太陽は道を世界に照らす

時は満ち 零れた雫よ

光をここに 光を傍に


「祈りの唄」

 それは、『歌詠』と呼ばれる資格を持つ人々が歌う聖歌。毎朝五時になると、その歌を本部の方角に向けて歌うことが『歌詠』にとっての義務になっている。

そして、今。その唄がこの世界に広がり始めた。

「レベンちゃんの歌声……とってもキレイね」

 ジュイスは眼を瞑って、その歌声に耳を傾けていた。ただその音に身を任せるようにして。その様子は、風に揺れる柳のような静けさを身に纏っているようであった。

シュタンはその様子をじっと見つめていた。

「そこまで、自分たちについて分かっているのならば、何を自分たちに求めるのですか」

 聖歌が続く中、シュタンは少し語気を強めて言ったものの、ジュイスは目を瞑ったまま動かなかった。表情は緩んだまま、うっとりとしている。

「あの……」

 ジュイスが気にかける様子は見えない。シュタンは話すことを諦めて、聖歌が終わるその時まで耳を澄まして待つことにした。

 しばらくすると、小鳥の声が聞こえてくる。時間が早く過ぎていく気分にとらわれていたが、時計に目をやると、五分程しか針は動いていなかった。ある意味タイムスリップに成功したような日の出が少しだけ眩しい。

「私が、あなたたちに求めていることよね」

 ジュイスはいきなり声を出した。朝日に目を細めていたシュタンはいつもの眼の大きさに戻して、ジュイスの方を向いた。

「やはり、何かあるのですね」

「ええ、もちろん」

 シュタンはゴクリと唾を飲む。

「奏曲師であるあなたと、歌詠のレベンちゃんに、明後日……もう明日になってしまうのかしら。この街で開催されるコンテストに出て欲しいの」

「コンテストですか……」

 シュタンは自分にしか聞こえない舌打ちを打った。

「あら、嫌なの? コンテストが終わるまではもちろん私の家で過ごしていい条件なのだけど、駄目かしら?」

 まただ。また見透かされている。

 今、表情に出てしまったのだろうか。はたまた、口の奥の奥の奥のほうで鳴らした舌打ちが聴かれてしまったのだろうか。シュタンはまた身に覚えの無い汗を体全身に作り出していた。

「しかし、最近はあまり楽器も弾いていないので、たとえコンテストに出たとしても、レベンに恥をかかせるだけです」

 シュタンは髪の毛を左手で触った。

「だから、出るつもりは……」

「呼んだ、シュタン?」

 朝の勤めを終えたレベンがシュタンとジュイスのいる部屋に入ってきた。レベンはいつもこの勤めをサボっていたため、目の下には隈ができていた。もともとレベンは色白の肌なため、隈は特に目立って見えた。

「いや、別に」

「でも、名前を呼ばれた気がしたんだけどな~」

 それは当たっていた。レベンは本部で音楽を学んでいた頃から、他の人よりも耳がいいと評判になっていたため、さっきの会話は玄関から家に入った部分から聞き取れていたのだろう。

「レベンちゃん、コンテストには興味はあるかい?」

 ジュイスはシュタンに向けてではなく、レベンに向けて何の脈絡もなしに言葉を送った。レベンは間髪いれずに、

「はい!」

 と本能の赴くまま答えていた。

「今、シュタンさんにそのコンテストに出場してみては、と提案したところなんだよ。コンテストが終わるまではこの家にいてもいいという条件でね。」

「シュタン、これはもう出場するしかないよ! というか、私はもう出場すると決めました。シュタン、この決心はあなたでも止められないわ!」

 決心と言うほど大それた事でもないのに、レベンは根拠がどこにも見当たらない自信満々の表情をシュタンに見せつけていた。

「しかしだ、俺の家の家賃の支払いが明日までということをお前は知っているはずだ。家主はその期限を守らないと……どうなるかお前も知っているだろう?」

「そんなもん、電話でもして先に謝っておけばいいのよ!」

 真っ当な理由ではレベンという名の城壁は崩すことができないなと、シュタンは悟った。

「レンタルしていたDVDを返さなくては」

「シュタンの家にはテレビが無いでしょ!」

「明日、デートがあるのだが……」

「シュタンの決め文句『今日、用事があるから無理』で押し通しなさい!」

「本部の呼び出しが確かあったような……」

「ジジイどもの話なんかに耳を傾けるな! 今を動かしているのは私たちよ!」

「家庭菜園の野菜が心配なのだが……」

「あなたの愛情が詰まった野菜なぞ、動物は食べない!」

 シュタンの様々な角度からの攻撃を喰らったとしても、レベンは動じない。この城壁は今の自分では崩せない。シュタンは悟りすぎて、頭が痛くなった。

「……仕方ない。その条件、承りますよ」

 シュタンはジュイスのほうを向いて呟く様に伝えた。ジュイスの表情はいつも通りの微笑だ。レベンはシュタンの後ろで「よっしゃーーーーーー!」と喜んだ。

 これはただの依頼という枠組みで受け取ってしまえば問題ない。そう、今回大切なことはコンテストで優勝することではなく、コンテストに出場し、そこでレベンが歌う。ただそれだけが依頼人の望みである。シュタンは自分で自分に言い聞かせた。

「ちなみに、優勝商品は何ですか?」

 レベンはシュタンのことはお構いなしにジュイスと話を進めていた。しかも優勝する気が漲っているという厄介な状態を引っさげてである。

「たしか……『金糸雀(カナリア)』になるための権利、だったかしら」

 二人は目を丸くした。すぐに沈黙が訪れる。ジュイスは微笑を崩さない。

「今、何とおっしゃいましたか?」

「『金糸雀』。それが……何か?」

「あの……なぜ、そのような大きいコンテストがここで行われているのですか?」

「さあ、それは知らないわね。私も偶然、チラシで知っていただけなのよ」

 シュタンはアンダンテで『金糸雀』を発掘するようなコンテストが行われているという事実は一度も聞いたことが無かった。これはレベンもそうなのだろう。自分と同じ反応をジュイスに見せている。

 そもそも『金糸雀』というのは、「歌詠」の資格を持っている人の中でも、その能力が極めて高い人しか選ばれない特別な職種だ。つまり、本部を卒業する頃には『金糸雀』になる人というのはというのはほとんど決まっている。「歌詠」と呼ばれている者も、その名は言ってしまえばただの資格と変わらない。

 しかし、この手のコンテストはかなり大きい規模で行われているため、その時期になれば本部に依頼を見に行くときに嫌でも耳に入ってくる。しかも、レベンは一応、歌詠の資格を持っているため、コンテスト関連の話には鋭敏であるに違いない。しかし、そのレベンが知らないとなると……。

「大丈夫かい? お二人」

 ジュイスが話しかけると、二人は我を取り戻したように頷いた。しかし、未だにジュイスの話は受け止められずにいる。

「それじゃあ、朝ごはんにしましょうか」

 ジュイスは変わらない微笑と声の優しさに包まれながら、朝日は窓の入り口を通って部屋を明るくした。


 トーストの香ばしい香りが部屋に行き渡る頃には、三人が座るテーブルの上には、鮮やかな黄色でこちらを見つめる目玉焼きや、少し体に悪そうな鮮やかなピンク色を挺したベーコンが並んでいた。

「いただきます」

 三人は声をそろえ、ほとんど同時にトーストを頬張った。

 サクッ。

 音はおいしそうに部屋中に響き渡った。今更ではあるが、この部屋の構造は音の響きを尊重しているため、どんな小さい音だろうと、共鳴してしまえばこの部屋にいる人の耳に自然と入ってきてしまう。

「今、こうやって食べていますけど、クスナは待たなくていいのですか?」

「いいのよ。あの子はいつも朝が弱いの」

「そ、そうなんですか」

 ジュイスはパンを頬張る。それを見て、シュタン、レベンの順番にトーストを頬張る。

「ああ、うまいな」

 トーストに持っていかれた水分を、並々に注いであるミルクで補充していく。飲み終わった後には、思わず笑顔がこぼれた。

「シュタンの笑顔は慣れない」

 不意に、レベンはボソッと呟く。

「聞こえているぞ、レベン」

「あれ? 耳悪いんじゃなかったかな?」

「お前と比べれば、な」

「この地獄耳」

「この部屋の構造の恩恵を受け取っただけだ。俺の特異性質じゃない」

 ジュイスはこのやり取りをいつもの微笑で見守る。

 朝食を食べ終えた後、ジュイスとレベンは後片付けのために台所へ、シュタンは二階の部屋へと向かった。手伝いはいらないと言っているジュイスに対して、その意見をはね返すレベン。しかし、そのやりとりは嫁と姑のようなギスギス感はどこにも無く、そこにあるのは、ほのぼのとしたやりとりである。

「いいのよ。気を使わなくて」

「今日は譲れません!」

 朝の妙なテンションがまだ残っているレベンにとって、ジュイスのやさしいお願い事など、お茶の子さいさいである。

「しかたないわね」

 困ったような言葉の使い方をしたが、微笑を崩さず、その言葉も少し明るさが加わっていた。

 しばらくの間、汚れた食器を洗いながら、ジュイスは口を開いた。

「そういえば、この後、出かけるのよね?」

「シュタンの用事があるので、まあ」

 洗い終わった食器を拭きながら、レベンは答える。

「なら、そのついでにコンテストの参加登録でもしてきたらどう? たしか……第三地区で受付をしているはずだわ」

「シュタンに言っておきます!」

 生き生きとした表情になっていることに気がついたレベンの顔は、一瞬で紅潮した。

「いいのよ、恥ずかしがらないで。嬉しいときは、興奮してしまうものよ。人間なんだもの。仕方が無いことよ」

「そ、そうですよね」

 うまく取り繕った感じで、この会話と片づけを即刻終わらせ、この恥ずかしさと高揚感の行く先へと早く行きたい。字面のとおり、心躍るレベンの心臓。笑みを我慢できるはずも無い。

 シュタンが、トランペットと帽子を持って下の階に戻ってくると、レベンが背もたれのあるイスに座っているにもかかわらず、背筋をピンと張って、チョコンと座っていた。しかもなぜか、小刻みに震えている。部屋を見渡してみると、ジュイスの姿は無かった。

「落ち着かない様子だが……まあ、いいや」

「いやいや、そこは理由を聞こうよ~。ねぇ、そこはやっぱりちゃんとさ『どうしたんだレベン?』的な言葉が欲しいんだよ~」

 テンションの高いレベンは面倒である。通常時だったなら、「いちいちいいじゃない、そんなこと」と言うはずなのに……。シュタンはそう思わずにはいられなかった。

「それじゃあ、お言葉に甘えて。どうして、小刻みに震えているのでちゅか? レベンちゃんは」

「き、気持ちが悪いわ、シュタン! このハイグレードなレベンちゃんでも、対応しきれるか分からないわ! もう、脳がシュタンのゴキブリのような気色悪さで壊れないか……心配よ!」

「それは結構なことだ」

 シュタンはギラリと目を鋭くして、持っている帽子をかぶり、出かける準備を整える。

「早く行かないか? お前の茶番に付き合っていると」

「そう、簡単なことだわ。私が『可憐』を通り越して『妖艶』となるのでしょ」

「そ、そんなことがあるか!」

「わかったわ! 妖艶をも通り越して、世界四大美女の仲間入りを果たすのね!」

「お前が仲間に入ったら、続々と入居者が増えるな」

「シュタン…惚れないでね」

「どこまで幸せ者なんだ、お前」

「えっとね……」

 レベンは人差し指を天に向けて突き刺し、その指をぐるぐる回転させる。そして、その回転が終えると同時に、言った。

「青天」

「美女が言う言葉ではないな」

「まあ、いわゆるどんでん返しよ」

 レベンは右手の人差し指をシュタンに突き刺す。

「何も始まっていないのに……か」

 レベンは突き刺していた人差し指を今度は立てて、シュタンの目の前で指を振って、止めた。

「いいえ。私がシュタンより偉い立場にいる、ということがどんでん返しよ」

 その直後、シュタンは堪えていた笑いを思う存分吹き出した。レベンは何が起こったか分からない表情を向けている。

「お前が俺に向けている気持ちと、俺がお前について考えていることには大きな違いがあるらしいな」

 レベンは目を丸くしてシュタンのことを見ている。シュタンはその目を気にせず、ひたすら笑い続けた。

「やっぱり、シュタンが笑うと気持ち悪い……いや、違う。ええと……分かった。イライラするんだ」

 少しずつシュタンの笑いが収まる頃には、今度はレベンの怒りが沸々と表情に表れていた。

「あらあら、何だか賑やかじゃない」

 ジュイスがいつもの微笑みを振りまきながら二人に近づいてきた。二人の顔は一気に赤く染まっていった。

「いつからそこにいたのですか?」

 シュタンは少し声が上ずっている。ジュイスはいつもの微笑を崩さずに口を開いた。

「ずっとよ」

「『ずっと』って、どの辺りからスタートしたんですか?」

 間髪いれず、レベンがジュイスに言葉を投げかける。

「まあ、いいじゃない。気にしていいことと、気にしなくてもいいことがこの世界には溢れているのだから」

「でも、気になることもたくさんあります!」

「ううん……そうね……」

 ジュイスが斜め上を見上げながら、手で顎を触り始めた。

「よくやった、レベン」

「ふふん、こんなの私にかかればお茶の子さいさいよ」

 二人が顔を見合わせていると、ジュイスは微笑を二人に向けていた。

「本当に二人は、似ているわよね」

「何を言っているのですか?」

 しかめっ面を作ったシュタンが、低い声で聞いた。ジュイスはシュタンの方を見る。

「ただの感想よ。私の感想」

 そう言い終えると、今度はレベンのほうを向く。レベンは思わず身構えていた。

「気になることがあるなら、無くなってしまう前に、答えを探したほうがいいわよ」

「私が正しい……ということでいいんですか?」

「正しいかは別にいいのよ。レベンちゃんが進みたい方向に進めばいいと伝えたかっただけよ」

「は、はい」

 うまくやり込められているな、とシュタンはなぜか緊張気味のレベンを見ながら思った。

「でもね、いつも答えが出るとは思わないでね。今回の私の返答のようにね」

 レベンは次の言葉を探したが、どこにも見当たらなかった。

「残念だったな、レベン」

「あなたも忘れないでね」

 ジュイスはすぐにシュタンに言葉を伝えていた。シュタンは「は、はあ……」と言うだけで精一杯だった。

「残念だったわね、シュタン」

「真似するな」

「まあ、いいじゃない」

「今度は私かしら」

シュタンだけは不服そうな顔をしていたが、ジュイスはいつもの微笑でレベンと笑い合っていた。

「それで、これからお二人は何をするつもりかしら?」

 ジュイスはいつもの微笑と口調で聞いた。シュタンとレベンは少しだけジュイスの気持ちについて読み取れてきているように感じた。微笑の角度が少しだけ違うような気がした。

「そうですね……」

シュタンがこれからの用事について話そうとしたその時だった。

「コンテストの参加登録をしてきます!」

 レベンの突然の発言にシュタンは少し驚いたが、一度「コホン」と咳払いをした後、表情を元に戻した。

「まあ、一つはそれですね」

 シュタンは表情を変えずにつづけた。

「もう一つ用事がありまして、参加登録の前に、トランペットの部品を見てみようかと思います。早くクスナに渡したいですし」

「ええ~、先にしようよ、参加登録」

 コンテストのことになると、猪突猛進モードに入ってしまうレベンがその威力を存分に発揮しだした。

「参加登録は第三地区でやっているんだ。そこに行くまでに何件か寄っていこうかと考えていただけだ。誰も参加しないとはいっていない」

「でもなぁ~」

 レベンはまだ納得いかない顔をしていた。無意識の内に「むむむ」と声に出してしまっているのが聞こえてきた。

「昼飯は、お前の好きなやつでいいぞ」

「そ、その手できたか……ちょっと待ってて」

 そう言ってレベンは、部屋の隅へと歩みを進めた。どうやら何か独り言をずっと呟いている様子であった。そして、たまに上を見上げては目を輝かせて、また独り言を呟きだした。シュタンは肩をすくめながらジュイスと目を見合わせて、その様子を笑っていた。

 一分後、レベンがシュタンの元へと戻ってきた。

「いいでしょう、その権利をずっと行使できるということで、手を打ちましょうか」

「『手を打ちましょうか』じゃない。その権利は本日限定だ」

「いやいや、何を言っているのかな、シュタン」

 レベンは手を顔の前で横に振り、真顔でシュタンに迫った。

「お前は俺が言いたいことを先に言いやがるな」

「まあ、私は天才だからね」

「ある意味な」

 レベンは顔を歪め何か言いたげな様子だったが、シュタンはレベンがいる方向とは逆の方を向いて、帽子をかぶった。そして、ずっと持っていたトランペットを袋の中に入れた。シュタンお手製の楽器袋である。

「さっさといくぞ、レベン」

「まだ、話は終わっていな~い!」

 レベンの言葉がシュタンの耳に行き着く前に、シュタンは玄関のへと向かい、ドアの閉まる音が部屋にまで響いてきた。

「ということで、ジュイスさん。夜までには戻ってきます」

ジュイスはいつもの微笑で頷いた。

「では、行ってきます」

 レベンは本日二回目の玄関のドアを開いた。


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