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聖なる獣とカゲの世界  作者: 機里
1/1

カゲの世界

「世界には大聖獣と呼ばれる聖なる獣がおりました。その獣たちは良き神に選ばれた、良き神と同じ力を宿す存在です。今もこの世界のどこかで、この三柱の獣は、私たちを見守っているのです」

 無数の花が辺り一面を覆っている。

 少女はそのまん中で、幼い妹に昔からずっと村に伝わっている伝承を語る。

「三柱の獣たちには、それぞれ役割が与えられました。命を与える力を司る一柱。戦うための力を司る一柱。発展させるための知恵を司る一柱」

「ねぇ、お姉さま。獣さんは、どんな姿をしているの?」

 妹は、姉の言葉を聞きながら一所懸命に想像を巡らせていた。

「ファミーユ。一番偉大な獣は、なんだと思う?」

「イダイ?」

「ええ、一番偉くて、一番すごいことができるってこと」

 ファミーユは考える。一番すごいことができる獣に思い巡らせる。自分の記憶をたどる。

 犬。猫。カエル。魚。知っている限りの獣の姿を想像する。獣であろう生き物を思い起こす。

「虫さん?」

 妹が真剣に考えて、出した答えに、姉はクスリと笑ってしまった。

「虫は獣じゃないわ。正解は、鳥。獣の中で唯一、大空を飛びまわることができる鳥。世界のどこにでも行くことができる自由な鳥。良き神に一番近づける鳥」

 姉は空を見上げる。妹もつられるように視線をあげる。遠く、上空には二羽の鳥が気流を生み出そうとしてか、獲物を狙っているのか、旋回を続けている。

「聖なる獣さんは、みんな鳥さんなんだね」

 そうよ、と姉は返事をする。

「続きを聞かせてお姉さま」

「ええ。三柱の神の力が弱まるとき、鍵を集めし者が現れ、停滞した世界を破壊する。そして、すべては一つになり、天は世界へと変わる」

「ていたい?」

「止まってしまうということ」

「世界が壊れちゃったらどうなるの?」

「どうなるんでしょうね。私もわからないの」

「私たち、死んじゃったりしないよね?」

「ええ、きっと。良き神はそんなことはなさらないわ」

 胸に手を当て、ほっと息を吐くファミーユの姿を姉は見やり、顔いっぱいに微笑みを浮かべた。

 妹との幸せな時間はこれからも、ずっとずっと続くと、姉は何を思うでもなく確信していた。


 二人はおしゃべりに興じ続けた。花畑のまん中で、日の光を浴びながら―――

 それは、ゆるやかな、しあわせ。

 ゆっくりと陽射しは傾き、停滞した世界は茜色へと変わっていく。

「そろそろ帰りましょうか」

「はい、お姉さま」

 二人は、花のかんむりを頭に乗せ、手をつなぎ歩き出す。

 花畑のあるこの一角が開けているだけで、二人の住む村までは、ずっと林に囲まれた細い山道が続く。そこには陽射しが、わずかしか入り込むことができない。

 怖いという気持ちまでは抱かないまでも、欠片ほどの不安が少女たちの心には浮上する。

 それは、ただ単純に、闇を怖れているということとは違う。この世界に住む住人にとっては、闇を怖れるだけの、大きな理由が存在している。


「少し、早く歩きましょう。暗くなる前に帰らないと」

 道程は半ばを越えた辺りで、姉はそう声をかける。

 妹は、無言で頷き、視線を太陽へと向ける。

 太陽は、尾根にぶつかり、頭の方だけを残し、ほとんどが隠れてしまっている。夜が訪れるまでそう時間はかからないだろう。その事実は、二人に恐怖を運び込む。

 半ば駆け足になりながら、二人は道のよくない山道を進む。妹の小さな歩幅を道程にかかる時間の考慮に入れなかったことを姉は呪いはじめていた。


 村の灯りが見え始めたころ、尾根から見えていた太陽の光すら世界には届かなくなった。

 ―――途端、世界は激変する。

 

 ここは、二つの世界が重なりあった世界。

 良き神と悪しき神が対立する世界。昼は良き神の世界であり、夜になれば悪しき神の世界になる。

 尾根の先から、黒のヴェールが伸びてくる。それはまるで生きているような動きを見せながら、空を覆っていく。ほどなく、世界は闇に覆われた。

 少女たちの周りも自分の手を伸ばす先までしか見えないような暗闇に包まれた。村の灯り以外は、黒い霧が出ているように不鮮明で、輪郭がなくなってしまったかのようだ。

 その絶望への変貌を、少女たちは茫然と見届けてしまった。この時間も止まることなく足を進めていれば、この後の悲劇は起きなかったかもしれないというのに。

「カゲがきちゃうよ」

 妹がおびえた声を出す。

「走りましょう!」

 つないだ手は、小刻みに震え、お互いがひどい緊張の中にいることを如実に現わしていた。

 しかし、その判断は少しだけ遅かった。

 世界は完全に、闇の世界のものになってしまった。カゲの世界になってしまった。悪しき神が護る世界になってしまった。


 ここは、人が住む世界ではなくなった。


 昼には形を潜めていた夜の住人が、のっそりと姿を現す。

 それは、無形の怪物とでいうべき者だ。

 どろどろと、形をもたない肉塊が姿を現す。どこから現れたのか、駆ける少女たちの視界のあちこちで粘性の何かがむっくりと形を成しはじめる。

 できてくる形は様々だ。人型のものもあれば、獣のようなものもある。

 そのどれもが、昏い色をしている。だというのに、この闇の中でも、はっきりとした輪郭を捉えることができる。

 その内の一体が、少女たちを見つけた。怪物の相貌は落ちくぼみ、瞳の場所を確認することができない。

「おねえさま、おねえさま!」

 その気配を察したファミーユが、姉を呼ぶ。

 姉には、それに応える暇はなかった。村にまで逃げてしまえば、怪物たちは寄ってこない。怪物たちは灯りのある場所には入れない。

 緊張と怯え、そして恐怖。二人の少女は、外の闇と、内からも現れる暗い感情に呑まれていく。

 咆哮が聞こえた。

 びりびりと肌を震わせる振動が伝わる。咆哮と言っても声はない。いや、それは正確ではない。怪物の咆哮は、光の世界の住人には聞こえないだけである。

 姉の足は今にも、もつれそうだった。恐怖からなる緊張は、体中に伝播している。自分のものであるはずなのに、体は、思うように動かすことができなくなっている。

 それはまた、妹も同じだった。幼いからこそ、また、生まれて初めてこの異形のものを目撃したからこそ、姉以上の恐怖が少女を襲っている。

「怖いよ、こわいよ、恐いよ。こわい、よ―――」

 知らぬ間に、ファミーユは呟いていた。呟いていることすら、自分では気づいていない。

 姉も、引いている手に力を込めるくらいのことしかできない。

 手に力をこめられた妹は、その痛みに、さらなる恐怖を立ち上らせる。

 姉は、そんな妹に気づかず、ただ、足を前に伸ばす。

 咆哮した怪物は、くぼんだ相貌を一度だけ紅く光らせて、二人に向かって駆けだした。

 幼い少女たちの速度は、怪物と比べてあまりにも鈍重だった。

 瞬きの間に少女たちの背後に、その怪物は詰め寄った。

 村の灯りが届く場所まで、後数十歩の距離。その距離が、今、絶望的に遠い長さだった。

 再び、怪物は咆哮する。その咆哮の意味は、餌にありつけることへの歓喜なのか。夜の世界でしか生きられないことに対する怨嗟なのか。

 姉は、もっと早くと、地を強く蹴った。そうすることが、少女の最善だった。いや、それ以外にできることはなかった。妹を守るためにも、足を前に進めるしかなかった。ここで、足を止めてしまうことは、自分だけでなく、妹の命をも奪ってしまうことになるということが、怖ろしかった。

 だが、そんな気概を守ることすら、怪物は許さなかった。

 無慈悲に無感情に、鉤づめの形をした黒い腕を横に薙ぎ払った。

 衣服がはためく。少女の手が、ぶるんと揺さぶられた。

 右手にあったはずの感触が消える。そのことに少女は絶望を覚えた。

 恐る恐る右手を見る。

 それは、不幸中の幸いだったと言えるのかもしれない。夜の世界で何もかもが薄くぼけて見えていたおかげで、少女はその決定的な瞬間を直接見ることはなかったのだから。

 いや、もしかすると、きちんと見えていた方が少女にとっては幸せだったのかもしれない。

 右手の先、少女が握っていた妹の手は、綺麗にそのまま残っていた。ただし、残っていたのは腕だけで、そこから先は闇に呑まれていた。いや、正確に記すならば、そこから先は、ちぎられ、えぐられ、飛ばされて、少女の右後方に鈍い音を立てて落ちたのだ。

 芋虫が這うような音が聞こえる。何か奇怪な生き物が喋っているような声が聞こえる。

 それは、少女の幻聴なのか、それとも右腕と断絶された妹が発した音なのか。

 少女は、走った。現実を忘れるために。

 怪物は、少女を追いかけるかのように思えた。だが、怪物は、一度の跳躍で少女を飛び越え、切り離された妹のところへ着地した。衝撃で砂埃が舞ったのか、少女の元に土の匂いとそれに混じる微かな金属の臭いが届いた。

 また、怪物の目が紅く輝く。その光は先ほどとは違い、淡く光続けている。

 その小さな光のせいで、少女は見てしまった。

 おぼろげな映像ではあったが、そこに映し出されていたものに、少女は絶句する。

 薄い紅の映像。腕のない人形が、林の傍らに仰向けで倒れている。顔は驚いた様子で少女を見ている。

 怪物が人形に覆いかぶさっているせいで顔以外の部位はほとんど見ることができない。

 怪物は頭部をしきりに上下させている。その動きにあわせるように、人形の顔が赤く染まる。

 生々しい水音、怪物の息遣い、そして、少女を呼ぶ声。

 それが、今、少女に聞こえるすべての音だった。


―――タスケテ タスケテ タスケテ―――


 聞きおぼえのある声が、自分に懇願している。縋っている。

 しかし、少女には、遠すぎた。大好きなそれが望む願いを叶えてやるには、すべてがなさすぎた。

 だから、少女は聞かなかったことにした。自分を無機物だと決めた。そうすることでようやく少女は、それから目を離すことができた。

 目の前には、村の灯りが差し込んでいる。

 たった二歩で、少女は救われる。

 少女の背後には、怪物がひしめている。エサを逃すまいと手を伸ばしている。

 だが、少女はその二歩をなんとか歩き切った。途端、何かが焼ける臭いがした。鼻の奥がツンと刺激される。その臭いに目まいを覚える。

 勢い余って光の中に飛び込んだ怪物の手が湯気をあげている。手は、現れてきたときと同じように軟体の何かになったかのように、ぐねりぐねりと歪み、泡立ち、とろけていく。そして、ぼろぼろと崩れ落ちていく。形を無くし、存在を失くしていく。

 怪物は聞こえない声を発し、失ってしまったことを嘆くように、天を仰ぎなくなった腕を掲げた。そして、泡立ちは他の部位にも伝播したのか、怪物の体すべてが、膨らみ、縮み、伸縮を繰り返し、やがて爆ぜた。

 少女の目の前には、涙を流しながら少女を抱きしめようとする両親の姿があった。

 少女は、両親の腕の中に飛び込んだ。自分を絶対に護ってくれる存在に掻きついた。

 全身から力が抜けていく。少女は両親に身を預けた。

 しかし、その少女の背中に爆ぜた怪物の肉塊が、張り付いた。

 瞬間、少女は激痛を感じた。体の内部にまで届くような熱が感じられた。一呼吸の間に、焼かれ、爛れ、侵された。背中から骨髄までを一度に熱に晒された。

 悲鳴を上げようと口を開けたはずなのに、少女の口は酸素を求めて水面で喘ぐ動物のようにパクパクと息を吸った。少女の意思とは関係なく、両親の手の中で少女は、壊れたおもちゃめいた反復運動を繰り返す。

 それをなんとか宥めようと両親は力をこめて少女を抱きしめる。背中についた黒い肉塊をはぎ取ろうと試みる。だが、肉塊は少女と融解をはたし、簡単に取ることはできなかった。


―――タスケテ タスケテ タスケテ―――


 少女には、その声だけが聞こえていた。一度は掻き消したはずの雑音が、ずっと頭の中で繰り返されている。

 一度、安堵したからだろうか。少女は、妹を失ったという事実を受け入れた。

 どうして自分は、自分を殺してでも妹を助けることができなかったのか。どうして自分は、妹の声を無視してしまったのか。そうしたことで、妹はどれだけの絶望を味わっただろう。

 怪物に襲われ、手をもがれ、それだけでも十分な絶望を味わったはずなのに、自分を唯一助けることができた存在に忘れられたという、救いをなくした絶望を妹は味わったはずだ。


―――タスケテ タスケテ タスケテ―――


 それは、呪いのようだった。何度も繰り返される救いを求める声は、少女の心を痛めつける。ゆっくりと締めあげられていくようだと、少女は感じた。

 両親に抱かれる温かさを感じながら、背中はじゅくじゅくと焼かれ、心は呪いによって責められていた。少女は、今自分が守られているのか、死のうとしているのかも定かではなかった。また、それを何かだと認識するだけの力も残っていなかった。だからこそ、少女の記憶には、この時の出来事が、ありありと刻まれることになる。

 落ちてきたのだ、鈍い音を立てて。

 ずっと、「タスケテ」という言葉だけしか聞こえなかった、彼女の聴覚に、鈍く重そうな音が拾われた。それはちょうど、両親の真後ろの方角だった。視界の真正面に落ちてきたのだ。

 赤い塊だった。美味しそうな肉の塊だった。美しい鮮血が、間欠泉のように定期的に噴き出していた。そのリズムを少女は知っていた。その脈動を少女は知っていた。

 混乱した頭の中で、その肉の塊を判断する能力も少女からは失われていた。だから、まじまじとその鮮血の動きを観察していた。いや、目が離せなかったのだ。両親の温もりも背中の痛みも、心の重みも忘れてしまうくらいに、その肉の塊に、目が奪われた。

 肉の塊は、その鮮血を、今一度大きく噴き上げた。クラジの潮のように空に立ち上る。赤い雨が降り注ぐ。そして、ゆっくりと肉の塊は回転した。

 そこに目があった。ずっと知っていた目。どこか親しげな目。自分が大好きだったものの目。

 自分が見捨ててしまった妹の目。

 少女は、すべてが真っ白になってしまったと錯覚した。意識は、少女の心が死んでしまわないようにと、断絶を選んだ。

 幼い心には、耐えられない。見捨て、殺され、食われ、ただの肉塊になってしまった最愛の妹のことを、一度だって、美味しそうだなんて思ってしまったことに。

 少女は意識を失った。白から黒へと暗転する。世界は幕を閉じた。



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