犬
犬がいた。
都会に面した閑静なベッドタウンの、人気のないちっぽけな自然公園。
そこに、ぐったりと地に伏せた一匹の犬がいた。見るからに弱りきったその犬は、鎖につながれたままだった。
近づく僕の足音に反応して、犬は顔だけをこちらに向けた。何かを訴えかけるような爛々と光る瞳の色が、余計に今にも死にそうに痩せ細った体を意識させる。
捨て犬だ。
三週間ほど前、野生化したらしい飼い犬が子供を襲うという事件があった。当然のことだが、すぐさま大がかりな野犬狩りが行われ、町中に罠が仕掛けられた。それらの罠は今も設置されたままで、まだ住民たちも警戒を解いておらず、皆ピリピリしている。この犬はそんな時に捨てられたのだ。
人のエゴは、ときに死よりも残酷な運命を生み出す事がある。この犬を捨てた飼い主の考えは、たぶんこうだろう。
「いま鎖を解いた状態で犬を捨てれば、町中に仕掛けられた罠や人の手ですぐに殺されてしまう。だから、人通りの少ない場所でつないでおこう」
信じたくないことだが、人はしばしばこういった間違いを犯す。つまりこの場合は、そういった状態で捨てられた犬がどうやって日々の糧を得るのか、考えもしないのだ。
あるいは別の事情があるのかも知れない。ここでひっそりと世話を続けるつもりだったのかも知れない。だが実際に僕の目の前で、死に瀕した犬がこうして横たわっている。僕は目の前の現状より、この犬をこの状況に追い込んだ人の浅はかさをこそ、悲しく思った。
と、僕はここで苦笑をもらした。
そんなことを考えはしても、僕自身もこの犬を鎖から解き放つことが出来ないことに気付いたからだ。
僕にできるのは……そう、コンビニで買って歩きながらかじっていたサンドイッチの残りを、犬にくれてやることぐらいだ。
多少の後ろめたさを感じながら差し出したサンドイッチを、しかしその犬は一瞥をくれただけで匂いを嗅ごうともしなかった。
「駄目だよ。何も食べないんだ、そいつ」
突然横合いから声をかけられた。見ると、いつのまにか十に満たないであろう少年が牛乳パックと深皿を持って僕の横に立っていた。
「でもミルクだけは飲むんだよ。ちょっとだけだけどね」
少年はしゃがむと、犬の頭を軽く撫でてから深皿に牛乳を注いだ。
犬は立ちあがって牛乳を飲み始めた。
「ほら。でもなんで何も食べないんだろ?」
少年はそう言いながらポケットから薄切りのハムを取り出して犬の鼻先に近づけたが、やはり犬は何の反応も示さなかった。
「やっぱりこれも駄目か……」
少年はため息をついて、ハムを深皿の縁に載せた。
それから少年は黙り込み、僕もそのまま犬が牛乳を飲む様を眺めていた。
しばらくして犬が半分以上の牛乳を残して再び伏せたとき、思いつめたように少年が口を開いた。
「このまま何も食べなかったら、こいつ、死んじゃうよね。どうしよう、首輪取ってあげた方がいいのかな」
「…………」
別に無視した訳ではない。正直なところ、何を言えばいいのか、答えに窮したのだ。
「うん、やっぱりそうしてあげようか」
少年は僕の沈黙を肯定ととったらしく、首輪を外し始めた。
やがて解放された犬は立ち上がり、黙って見つめる少年と何も言えずにいる僕に見送られ、ゆっくりと歩き出した。
それは頼りなく、今にも倒れそうな足取りだったが、同時に気高く、近寄りがたい雰囲気を有しているようにも見えた。
──そうか、あの犬が本当に欲していたものは、
同情の眼差しと憐れみの施しではなく、
激励の言葉と自由という誇りだったのだ。
「あいつ、一人で生きていけるよね」
身勝手な感傷にふける僕を、少年の声が現実に呼び戻した。
「うん、そうだね」
このとき、こう答えるほかにどんなことが僕に言えただろう。無知ゆえの判断とはいえ、少なくとも自分で考え行動した少年に対して、全てを理解しながら決断すら出来なかったこの僕が?
僕にはこう答えることしか出来なかった。
「そうだね、きっと大丈夫だよ」
たとえこの先、あの犬を待ち受ける運命がどんなものなのか、容易に想像できるとしても。
僕にはそう答えることしか出来なかった。
数日後、とある道の端で、あの犬がただの肉の塊と成り果てているのを見つけた。
力尽きて餓死したか、それとも毒入りの餌でも食べてしまったか。ただ予想通りの現実だけが、そこにあった。
そして、その死に顔が最期に何を語っているのか──
犬ならぬ人の身の僕には、分からなかった。