壱
喫茶店でのバイト一日目、今のところ姫子は順調にバイトをこなしている。
少し顔を出したところレジ打ちも出来てたし接客も良しで重箱の隅をつつく隙すら見当たらなかった。
やはり彼女の持つ適応力故ならではだろう。
それでも強いて悪いところを挙げるならば表情がやや強張っている気がするくらいなのと、動きがちょいとギクシャクして遠目から見ればロボットダンスでもしているかのようだ。
慣れればきっと大丈夫だろう。まだ一日目、気長にやればいいさ。
彼女がバイトを終えて帰ってきて俺は感想を聞いてみたら「別に普通」なんて簡単な言葉で終わらせてしまい寝室に入っていくという流れ。
その後姿はそこはかとなく活気が感じられた。
気のせいであってほしくないな。
それはそうと俺は姫子がバイト中に寝室の掃除をしていたのだが、俺の部屋から漫画本を持ち出したりしていたのは知っていたが俺の非常食として隠しておいたお菓子をいつの間にか持ち出して食べていたという新たなが事実が発覚。
それもかなりの量だ。
これらから姫子の食生活がかなり乱れているという事実も発覚したわけで、食生活の改善を頭に入れておいた。
お菓子はしばらく抜き、それに野菜も多めに摂らせよう。
布団は乱れっぱなしで寝室を見回すと女性が住んでいるとは思えない空間と化している。
誰が住んでいるか想像してみろと質問されたらだらしない男と答えたくなるだろう。
何故って? 俺ならそう答えるからだ。
だけど俺が掃除をすれば女性が住んでいても不思議ではない、そういう答えになる。
彼女にも少し掃除は意識させておきたいところだ。
「両親には連絡したの?」
翌日、ふと気になって俺は朝食を作りながら姫子に聞いてみれば首を横に振る始末。
「それより飯!」
「……ちゃんと連絡しろよ?」
「はいはい、解ったって!」
テーブルの角を箸で叩きながらそう言う姫子は随分と子供っぽい。
次からは母さんと一緒に朝食を食べさせれば少しはおとなしく待ってくれるかな?
まあ母さんが起きて朝食を食べる時間はかなり早いので彼女にも合わせてもらいたいが、難しいところではあるがね。
「ちゃんと、するわよ……」
最後は少々重みを含んだ言葉。
きちんと言葉どおり彼女は朝食を済ませた後にうちの電話を借りて両親へ連絡をするようで、電話の受話器をようやく持った。
「あっち行ってて」
「了解了解」
居間を出て、しかし扉を閉める際に少しだけ隙間を開けて扉の隙間から覗いてみる。
きちんと連絡はしているな、何か話してるがここからでは聞き取れない。
目が合うや姫子は眉間にしわを寄せて睨みつけてくるので俺は慌てて扉を閉めた。
それにしても親御さんはどう思っているのだろう。
もしかして行方不明や誘拐とか思われて大変な事になってたりして。
そんな不安を抱きながら電話を終えるのを待っていると、意外とあっさり姫子は電話を終えて「連絡したわ」の一言。
「どうだった?」
「一応、女友達のところに泊まってるって事にした」
怒鳴り込んでこられたら困るなあと不安にかられたのでこちらからも連絡したいが、女友達にされては困ったもんだ。
しかもわざわざ俺の携帯電話ではなく家の電話を借りたのは履歴に電話番号を残さずに俺からの連絡手段を絶っていた姫子は抜け目が無い。
「よかったら電話番号教えてよ」
「嫌よ、これ以上状況を変化させたくないわ。今が心地良いの!」
心地良いって言われてもなあ。
このままだと君のためにもならないし、両親を拒絶しても良い事なんて一つも無い。
何とか彼女の心変わりを誘う言葉を探すものの、姫子は既に寝室へ。
「まったく……」
――そう、溜息混じりの言葉で終えた朝。
教室の片隅で俺は朝の件を思い出すと更に溜息をついた。
「最近溜息多いな」
そういう浩太も、言下に溜息をついているのでそっくり言葉はそのままお返ししよう。
「いやあね、大鰐の奴なんだけどさ」
「何かあったのか?」
授業も全て終えて後はもう帰るだけなので、帰りながら話すとする。
「まったくね、馬が合わないつうか犬猿の仲つうかなんつうか……。彼女、本当にあの大鰐姫子だよな?」
「そうだぜ。ああ……俺もあんまり自信無いけど」
実は姫子の双子の姉ですとか言い出したら信じちゃうかもな。
「父さんの言う事は聞くのに、俺には明らかに態度違うんだよ。しかも言う事聞かないから注意したらローキックしてきやがったんだ」
女性のローキックならそれほど痛くはなさそうだが何故だろう、姫子がやったとなると恐ろしく痛そうに感じた。
「それに接客は悪くないのに時々皿洗いに逃げるんだよねえ。洗う皿も無いのにコップ一つをずっと洗ってたりしてさ。無駄に綺麗なコップ出来上がるんだよ」
接客は好きじゃないのかな。
「接客頼むって言ったらローキックだよ? どう思う? 俺何か悪い事言った?」
「いいや、お前は何も悪くない。悪いな、厳しく言っておく」
暴力は良くない、良くないよなあ。
働かせてもらっている側なのにさ。
姫子は今日も確かバイトだ。
今日は俺も喫茶店に行ってそこで話そう。
浩太にその事を伝えて俺は喫茶店へ帰路を変更した、喫茶店で彼女を待ったほうがいい。入れ違いになったりしたら結局喫茶店に行かなくちゃならないし。
「今日も多いな」
喫茶店は相変わらず繁盛としか言いようが無い人の多さ。
「おかげで俺も大変さ」
空いていたカウンター席に座って俺はコーヒーを注文して姫子を待った。
それからしばらくして四時半頃か。
姫子は寝癖がついたままの状態で店にやってくる。
服装もだらしが無くしわが寄って女性らしさはここへ来る道中にでも落としてきたのだろうか。
よかったら俺が探しに行って彼女の女性らしさを見つけて装着させてあげたい。
着替えも折角用意してきたのに、さてはさっきまで眠ってて慌ててきたというんじゃないだろうな。
つうかあくびしながら店に入るのは駄目だろ。
「姫子、ちょっといいかな」
「なんでここにいるの? それにちょっとって何よ、これからバイトなのよ私は。ちょっとは何秒なの? 何分なの? 何時間じゃあないでしょうね?」
「時間は取らせないからさ」
「なら、今日アイス買っておいて」
アイスくらいならいいだろう。
俺は承諾して彼女を外へ連れて行った。
言いたい事はたくさんある、ありすぎて何から話せばいいのか悩むくらいだ。
でも今はバイト前だし、ある程度は割愛だ。
重要な部分だけを話しておく。
「浩太とは仲良くしろよ、あいつのおかげでここでバイトできてるんだからさ。それに接客避けてるんだって? 接客は悪くないって聞いたけど」
「だって……南奥高の生徒がいると……」
なるほど、そういうわけだな。
「ウザすぎて殺したくなっちゃうお」
それは仕方が無い……とはならない、絶対に止めろ。
てか語尾の“お”って何?
殺したくなるのは置いといて、そういう気持ちはかなり長考した結果、殺すとまではいかないけど気まずさなら解らなくも無いので考慮してはあげたいが、それには浩太の協力が必要だ。
「南奥高には浩太が対応するようにすればいい。ただし、君から言いなよ」
不服そうに下を向いて頬を膨らます姫子。
ちらりと俺を見た解ったわと一言、あんたが浩太に言ってくれたらなあとかいう副音声が聞こえてくる。
もちろん、俺はその副音声を無視。
さあ中に入って言おうね、と催促すると彼女は重い足取りで中に入った。
これにて一件落着……になればいいなあ。
母さんは確か今日は遅くなるって言ってたので夕食はまだ作らなくてもいいし、時間は少々持て余してる。
中に入ってゆっくりしているとしよう、彼女の働き振りでも観察しながらね。
カウンターの隅に一席だけ空いていたので俺はそこへ着席。
注文してすぐくるコーヒーは香ばしい香りが湯気に乗って鼻腔を撫でてくる。
その香りを数秒ほど味わい、俺は黒に茶色が渦を巻くような色合いのコーヒーを喉へとゆっくり少しずつ通した。
相変わらずここのコーヒーは美味い。
ほどよいこくのある苦さが思わずケーキでも注文したくなる。
俺はこの味をじっくりと味わうべくミルクや砂糖は入れない。
ブラックは苦いと敬遠する人がいるけど是非この店でブラックを飲んで欲しいものだ。
ほっと一息していると、耳を劈く音が奥から聞こえた。
何か物が割れる音、聞いた印象からして皿が割れる音に類似している。
よく見ると店内には浩太と姫子の姿は無し。
新たな注文も無く落ち着いた状況のようなので支障は無いが、二人がホールに居ないのが気になる。
辰夫さんは横目で奥の扉に目をやっていた。
それは洗い場の扉で、音もそこからだ。
「見てきましょうか?」
マスターがこの場から消えるのは些かまずいので、どうせコーヒーしか飲んでいない暇人の俺なら手が空いている。
「すまないね、頼むよ」
俺は席を立って洗い場の扉をそっと空けて中の様子を窺った。
奥に人影が二つ、浩太と姫子に違いない。
何か話し合っているようだが、ここからでは聞こえないな。
どうしよう、話に入るべきか。
床に散らばった皿をそのままにして話し合っているところから雰囲気は重く感じられた、何やら波乱の予感。
「いっぺん死ねボケカス!」
すると姫子は怒声を上げて浩太にローキックをかましていた。
俺と目が合うも彼女は視線を逸らして裏口へ。
何があったのかと痛みに悶絶している浩太に問うよりも今は彼女を追いかけるとした俺は、すぐさまに彼女の後を追って裏口から出て辺りを見回した。
それほど遠くには行っていないとは思うが、ここは住宅街で脇道横道小道の三拍子。
既に角を曲がってしまったようで彼女の姿は発見できず。
焦燥感が身体を動かせるが、よく考えてみたら姫子は俺の家から喫茶店までのおよそ徒歩で十分の距離ですら息を荒げる体力の無さ。
そんな彼女が走ったとなるとすぐ近くで疲れてるはず、身体は鈍りに鈍ってるであろうしね。
そんなに急がず俺は先ず自宅へ向かった。
玄関の扉を開けるも姫子の靴は無し、家には帰っていない。
となると……。
公園に俺は向かう。
姫子が行きそうな場所、想像すると公園が浮かび上がる。姫子と久しぶりに会った場所、面白みなど時間と共に消えうせてしまったような公園。
そのベンチに、姫子はあの時と同じように座っていた。
俺もあの時と同じように視線を奪われ、溜息をつく彼女につられて溜息。
そっと彼女の傍へと歩み寄り、声を掛けてみる。
「やあ」と一言だ。
歩いてたら偶然見かけたので声を掛けてみたのと同じような口調で、何も見なかった、何事も無かったかのように。
「隣、いい?」
「全力でお断りします」
「……わかった」
俺には目を合わせず、拗ねているのが見て解る。
「バイト、嫌なら辞める?」
いつでも辞めれるわけではないし人手は足りない、それでも姫子がバイトで嫌な思いをし続けるのならば辞めるのも仕方が無い。
「別に、嫌じゃない。でも……」
その後の言葉は予測できる。
俺は言葉を拾って繋ぐ。
「浩太とうまくやっていけない?」
姫子はこくりと頷いた。
「それに、バイトは続けたいの。お金が必要だから」
「必要? 何だ、何か欲しいものでもあるのか?」
「……色々とね」
いつもよりも低い声、一呼吸置いたのは大事な理由があるのを隠しているように感じられる。
金が必要、ね。
何に必要かが知りたいな。
非行に走られたら困るが、よく考えればわざわざ非行に走るためにバイトもありえない。
だがお金を持って街から出て行ったりとかされたら捜索願とか出されて事態は大変な事に発展しかねない。
給料日にでもこっそり尾行してみるか。
「ならしっかり謝ってまたバイトしようぜ」
「……そう、ね。頑張るわ」
「前に洗い場手伝った事あったから、今日は俺も手伝うよ」
「でも、どうしてそんなに私に構うの?」
どうして、か。
特に理由は無いのかもしれない、自分でもよく解らないけど、独り立ちさせようと決めたのも中学時代の君が眩しくて、あの頃の君をもう一度見たいからかな。
その他にも理由はいっぱいあるさ。
君が気に入った、それも理由になる。
君が可愛い、綺麗、それも理由かもね。
どうしての答えなんて全てを一つに説明するには時間が掛かる。
だからここは簡単に終える理由の代表を一つ選ぶとした。
「ただの気まぐれだ」
代表の活躍は彼女の表情から見て解る。
それなりに納得したようで笑みが見られた、良い働きだ。
「そう……あの、ね? その……」
体中もじもじさせるその仕草、とっても心がくすぐられるような気分を得るね。
あの大鰐姫子がもじもじしてるぜって中学時代のクラスメイトが誰か居たら報告したいくらいだ。
「……あ、ありがと」
誰か俺の頬を抓って今は夢か現実かを教えて欲しい。
お前らしくないぞ、ああ、そうだ。
ここはありがた迷惑! とか俺を罵倒して店に行くのがお前だろ。
素直に感謝してくれるなんて、嬉しくて困るじゃないか。
「お前らしくない」
「い、今のは聞かなかった事に!」
「無理だ」
「も、もう! ほら、行くわよ! はい加速加速!」
でも言下に言葉をぶつけてきて噂のローキック。
それ加速じゃなくて打撃だ。
手間のかかる娘を世話してる気分だけど、悪くは無い。