弐
新しい環境に対する緊張を引きずってから彼此一ヶ月。
そろそろ引きずりすぎて擦れて無くなってきたかななんて感じ始めた五月上旬のとある朝。
家を出る前に鏡に映る自分の姿を確認。
寝癖も無く格好悪い部分は無い、それなりに身だしなみは出来てると思われるがどうだろう。
ズボンは腰で履くよりも少々下げて、きちんと着こなすよりも些細な部分をだらしなくしてそこから滲み出る反骨精神の先にあるちょっとしたかっこよさを求めたほうがいいのか。
そんなどうでもいい思考を今日は脳内で躍らせてみる。
結局は何も変えずに学校へ行くわけなのだけれど、ゴールデンウィークという大型連休を終えたばかりの登校日というのは倦怠感が尋常じゃないもので、腰から下は錘でもつけられているんじゃあないかと思うくらいに足取りは重い。
学校までは遠くも無く近くも無い距離ではあるものの今日は遠く感じる日。
徒歩での登校にて十分か十五分程度か、それくらいの時間を費やす登校距離も一時間くらい掛かってるんじゃないかと腕時計に目をやって体内時計が麻痺している自分に気づく。
そんな中で考えるのは長いようであっという間に感じたこの一ヶ月の事。
新しい友達は出来るだろうか、勉強はついていけるのかという不安があったけど今の自分はというとクラスではそれなりに友人が出来ていて、勉強もそれなりについていけてる。
周りから見ればごく普通ではあるものの僕にとっては絶好調の一ヶ月ってとこだ、気分は最高だね。
同じ中学だった生徒が何人かクラスにいたのもあって馴染み始めた頃によく自然と構成されるグループ作りにも孤立せずに友人と共にグループを作れたので休み時間は暇をせずにいられそうだ。
昼休みは一人で寂しく屋上で昼食、そんな悲しい想像も回避出来て一安心。
美人で男子から好評を頂いている担任の夏木先生は僕とすれ違うたびに後ろから頭を撫でてきて可愛いねえなんて言ってくるのである意味では担任にも気に入られている。
頭を撫でられるのは好きじゃあ無いが僕の顔付きは男女共々頭を撫でたくなるらしい。
どうせなら男前の顔付きにして欲しかったが、こんな顔付きに生んだ親や遺伝子やらに文句を言っても今から男前の顔付きになるはずも無いのでどうしても変えたいというのならば整形してこいと極端な答えが出てくるがそこまではしない、結局は我慢である。
道中、いつもの小さな公園へ差し掛かる。
住宅街に紛れ込むようにしてあるその公園はブランコにベンチに砂場、それくらいしかなく少し歩けばもっと設備の充実した公園があるので、ここは朝からブランコに座って酒を飲んでいる人やベンチで将棋などしている人がいるくらい。
それも毎日様々な人達がここにいる。
今日はどんな人がいるかな? ちょっとした好奇心を引きずってちらりと横目で確認するのが朝の日課。
先ずはブランコで酒を飲んでいる男性、一週間前からずっとだ。
しかしスーツはシワ一つも無く落ち込んで酒を飲んでいるのではなく微笑しながら酒を飲んでいる。
良い事でもあったのかは知らないが仕事はどうしたのだろう、気になるけど聞きはしないが。
それ以外は特に変わらないか、と一瞥すると不意に視線が固定された。
女の子、ああ……女の子だ。
別に女の子という存在が珍しいわけではない。
特に怪しい動きとかをしているわけでもない。
彼女の行動はと説明文の提出でも求められたら原稿用紙一枚にこう書くだろう。
ベンチに座って空を眺めている、じっと何もせずに。
一行目に題名女の子、二行目に僕の名前、三行目にその一行で終わりだ。
年齢は僕と同じくらいかな。
年上にも見えるけれどそれは彼女の長い黒髪と一言で言うなら綺麗、麗しい、美しい、そういう類の言葉が似合う顔付きに、どこか大人びた雰囲気が合わさっていたからだろう。
服は私服のようだが随分とシワが寄っているし、サイズも些か大きめのような気がする。
普段なら足を止めずに通り過ぎるのだけど、今日は縛られたかのように足が止まった。
それにどこか見覚えのある顔なのだ。
大鰐姫子、ふと浮かび上がるその名前に僕は「まさかな」と独り言を暖かくも無く冷たくも無い空に溶かした。
腕時計に目をやり、一先ず今は学校へ行かねばと僕は再び足を動かす。
彼女が朝からこんな場所にいるのはありえないさ。
僕の知っている大鰐姫子は今頃充実した学生生活でも送っているに違いない。
だからこんな魅力的とは言えない公園に朝からいるはずが無いのだ。
少しは気になるがどうであれ、話しかけて別人だったらなんだか恥ずかしいので動かした足を止めるのもしはしない。
もやもやした感情を纏いつつも僕は暫し歩いて学校へ到着。
灰色の校門に灰色の校舎、地味さならどこにも負けない平輪中央高校、またの名を平凡学園、でもこの名は禁句。
名門校のようにエレベーター付とか学校内に有名な飲食店があったりとかは正直羨ましいが特に望んではいない。
階段の手すりは所々傷んでいてたまに何かが手に刺さるし、学校で飲み物食べ物が帰る場所は品数の少ない購買のみ、これといって良い部分は無いが酷いとまではいかないのでそれなりに住めば都。
文句があるとしたら僕の向かう教室は三階の一番奥、毎朝教室へ向かうのが疲れる。
多少息が荒くなりつつも三階へ到着。
軽く深呼吸した後にて廊下を歩くや、後ろから頭を撫でられた。振り返るまでも無く僕は「夏木先生、止めてください!」と声を出す。
振り返ると逃げる夏木先生の姿ときた、それでも教師かと更に文句を背中へ叩きつけたいがちらほらと生徒達が歩いているのを見ると、声を出して注目の的になるのは避けるべきなので僕は溜息をこぼして教室へ。
教室を一瞥して状況確認、クラスメイトは数人程度のみ。
他はそれぞれ部活の朝練があったり、そんでもって一部の連中は遅刻か何とか間に合うのかという境界線を跨いでの時間帯に来る連中だったりで朝の集まりは悪い。
僕はというとそのどちらでもなく、部活動は面倒なので入っておらず、遅刻で怒られるのも嫌なので早めに登校している。
時々クラスメイトは聞いてくる、どうしていつも早くに来てるの? と。
苦笑いで僕は早起きな人間だから自然と登校も早めになっちゃうんだと答えるが実のところ、入学して間も無くの頃に一度だけ寝坊をして遅刻をしたのだが、その時は夏木先生に頭を撫でられながら説教されたのだ。
子供扱いされているようで我慢我慢と心の中で呟きながら僕はもう二度と遅刻しないと誓った。
それ以来、僕は登校時間を修正して無遅刻を継続できているが夏木先生は朝によく廊下をふらつき始めて結局僕は頭を撫でられている。
しかしこうして早々と登校してみるのも悪くは無い。
静謐に包まれた教室内、朝の陽光が窓から射し込み、窓を開けると心地良い風が肌を撫でて後ろに流れていく。
窓側の席で良かったと本当に思う、そして一番後ろの席なので教師にあまり当てられなくて授業中は気楽だ。
「おはよ、今日は一段と早いな」
外を眺めながら風に当たっていると声を掛けられる。
「別に早く来たいんじゃあ無いんだけどね」
声のした方へと顔を向けると友人である浩太はにこやかな顔でいた。
浩太も僕に負けず劣らず登校は早いほうだと思うよ。
浩太の席は僕の前ではないが、彼がそこへ着席。
それには理由があり、鞄から一つの板を取り出して僕の机にそれを置いた。
木製の将棋盤、それもかなり年季が入っている。
「ささ、やろうか」
毎朝僕達はこうして暇を潰しているわけだ。
ちなみにお互い将棋についてはまったく知識は無い。
攻め方も解らなければ守り方も解らない。常に独学。
戦績はというと僕は浩太に一度も勝った事が無く、浩太曰く僕は守り方が駄目とか言うが改善しようにもどう改善したらいいのか解らない。
「そろそろこれ、取替え時じゃない?」
この将棋盤は浩太と共々小学校からの付き合いだ。
つまり相当長い間使用されている。
彼とこれまでの日々を思い返すと素晴らしき友達って言葉が思い浮かぶが、将棋盤は素晴らしき道具ではあるものの成長する僕らとは違い劣化していくわけで。
悲しいけどこれが現実。
「愛着が沸くとなかなか取り替えられなくてな」
解らなくも無い。
そうして話を終えて勝負再開、生徒が徐々に教室へ入ってきた頃には決着した。
もちろん僕の負けだ、悔しいなあ……。
「今日は攻め方も駄目かな。こう、駒の気持ちになってだな」
「うるさいよもうっ! 駒の気持ちって何さ!」
そんな僕を見て笑いながら浩太が自分の席へ着席すると同時にチャイムが鳴り、今日の授業が始まった。
「そういえばさ、こっくりさんがまた出たんだってよ」
授業が始まるとすぐに浩太と小声で会話するのがお約束。
仲の良い奴と席が隣同士だと授業的には良くないけど、退屈な授業を真面目に受けるかと聞かれたら僕はこっちを選ぶね。
「こっくりさんが出た?」
「あれ? こっくりさん知らないの?」
「あの紙に書いてやるものなら知ってるけど、出たっていうのは紙から出たの?」
会話をしているながらもお互い、視線は黒板に。
「いやいやそれじゃないんだよなこれが。なんかさあ、この町にこっくりさんって呼ばれてる奴がいるらしくてな」
「へえ、なんか怖そうだ」
「怖いってもんじゃあないんだよなこれが。そいつに目をつけられたら終わりだって話なんだよなあ」
目をつけられたら終わり、ね。
こういう具体的ではない部分が噂に尾ひれがついたんだなと僕はよく思う。
「南奥高は今生徒会選挙やってるじゃんか。それで生徒会長有力候補がいたんだけど、そいつ昨日に号泣しながら辞退するって言ったらしいんだよな」
南奥平輪学園高等学校、南奥高やら南学やら呼ばれているその高校はこの街のマンモス高として知られている。
校舎や敷地はかなり大きく広いし生徒の数はもはや軍団。
生徒会選挙は朝から演説するくらい激しく、詳しくは知らないが何やら普通とは違う選挙らしい。
「そんでこっくりさん許してくださいって言いながら学校から出ていったって話よな」
「へえ、そりゃあ怖い話だ」
よほど話したくてうずうずしてたようで、僕の感想を聞くと浩太はにやりと嬉しそうにしていた。
「こっくりさんて何者なんだろうなあ? なあ?」
「僕に聞かれましても」
そりゃそうか、と話は終わり。
既にびっしりと文字が書かれた黒板を見てお互い遅れがちであった授業にようやく取り組んだ。
授業に関しては好き嫌いは無いが、嫌いというか苦手な授業がある。
それは国語の授業で、国語に関しては内容が理解できないとか漢字が難しいという苦手ではなく、担当の先生が夏木先生であるという苦手。
今週は毎日授業の始まり五分間は漢字の小テストを行っている。
夏木先生は見回りをしつつ、僕の傍に来ると頭を撫でて通り過ぎるのがお約束。
小テスト中では声も上げられる睨みつけるという無言の訴えで反撃するがそんな僕の様子すらも夏木先生には微笑ましいのか、もう一度引き返して頭を撫でて逃げていく。
その行動は実にさりげなくでクラスメイト達に気づかれないほどである。
そのために僕は夏木先生の愚痴を友人達に言ったところでそんな事あったの? と首を傾げられるだけなのだ。
これは経験済み、だから今後一切友人達に愚痴は言わない。
自分で解決しよう、とは思いつつこうして頭を撫でられているのだがね。
なんていうか、悔しいなあ……悔しいです!
そんな悔しさは今日の授業全てが終わるまで引きずりつつ、放課後には開放感で気分は晴れていった。
帰りは浩太と帰宅。
割と親しい生徒は部活動に励んでいるので必然的に帰宅部所属の僕らは二人で帰宅なのである。
岐路は途中まで一緒というか浩太の帰路に僕が合わせて帰るようにしている。
一人で帰るよりも話し相手がいると退屈しないので多少の回り道など構わない。
それほど浩太の家とは遠くも無いしさ。
いくつかある話題を頭の中で選択中にて、一つ気になるものを僕は言葉にした。
「大鰐姫子って憶えてる?」
「ああ、憶えてるよ。むしろ忘れるほうが難しいぜ、まだそう何ヶ月も経ってないじゃねえか。でもそれがどうかした?」
そりゃあそうだ。
思い返せば記憶はまだ真新しい。
彼女と同じ教室にいたのは僅か二ヶ月前だしね。
「今朝に近くの公園で見た気がして気になってね」
見た気がしたというだけで本人かは定かでは無いが。
「それは無いんじゃないか? あいつは南奥高だかに進学したんだろ? 今朝その学校の生徒なら見たぜ?」
ですよね。
「じゃあサボり?」
「それも無いだろう」
中学の卒業式で無遅刻無欠席として表彰されていたのは誰だよ、と言下に付け足されて彼女だね、と僕は答えた。
「あいつはきっと南奥高でも一目置かれてるはずだぜ、だから公園にいたのは別人だろ」
そうだね、きっとそうだ。
想像するだけで既に委員長に就いてクラスをまとめ上げる彼女の姿が浮かび上がる。
それほどの手腕を持ち、自然と人望も集まっていくのだ。
まさかな、と少しでも考えてしまった自分が憎らしくすら思う。
心のどこかで彼女も少しはひねくれたところがあるんだなとか思って微笑みたい自分がいたのかもしれない。
浩太と分かれて僕はいつもの帰路へ。
公園を通りかかり足を止めて辺りを一瞥してみるものの人影は無し。
きっと別人だとは思うもののもっと近くで見て別人だとしっかり判断したかったが、いないものは仕方が無い。