肆
三日間の停学は都合よく言い換えるなら三連休。
ただし自宅で過ごさねばならないためにやる事が無い。
ゲームもそんなに好きじゃなく、漫画本も最近は全然買ってないから読み飽きたものばかりだ。
一日目は居間でごろごろしていたが退屈すぎてある意味では辛かった。
しかも姫子は俺に気を遣ってきて何だか変な感じ、そわそわっていうのかな? そういう動作で俺が飲み物を取ろうとすれば取って渡してくれて、それはそれでいいがなんだかリラックスは出来ない。
残る二日もこの調子で過ごすのもなと思ったので宗助に会いに病院を訪ねて探したいところだが、外出禁止と釘打たれては後ろめたい。
何より腫れが住み着くこの顔では外に出るのも抵抗がある。
今日は祝日のもあって学校は休み、ならば外に出たら誰かと遭遇する可能性も考えられる。
けど宗助と姫子との関係が気になってしょうがない、南奥高の生徒達の話を聞いてからその気持ちがかなり高ぶっている。
夏木先生は俺が頭を打った際に痛めた首筋に湿布を貼っていたのを気がかりにしていて、病院に行くくらいの外出なら大丈夫と言っていたから、それを理由に外出するくらいなら大丈夫といえば大丈夫。
飯の買い物にも行きたい、思い切って外に出てみるか。
「どこ行くの?」
「買い物」
病院に行くとか言ったら無駄に気を遣わせてしまいそうなのでここは買い物と言っておく。
「わ、私が行く!」
らしくねえなあ。
いつもなら「お菓子でも買ってきて」とか「アイスが食べたい」なんて言うくせにさ。
「体力の無いお前が買い物袋を家まで運べるか不安だ」
「それくらい運べるわ!」
運べるかもしれないが、不安。
「バイトは何時から?」
「今日は昼からだけど……」
「なら家にいろ、何かあって遅れちゃまずいだろ」
現在の時刻は朝の十時半前、買い物を任せたらかなり急がせてしまう。
まあ病院に行くっていう目的があるから任せるつもりは無いのだけれどね。
「一応冷食もあるから、俺が遅かったら悪いけど冷食食べてくれ。レンジでチンは出来るだろ?」
「み、見縊るな!」
すげえ見縊る。
帰ってきたら電子レンジ壊れちゃったのーとか言うなよ。
「たとえ出来なくたってエロゲーやあんたの受けを妄想するだけでご飯三杯はいける」
「やめて!」
なんとか外出出来たものの、もしあいつが妄想してご飯を頬張っている姿を想像すると溜め息が出てしまう。
最近は特にあいつの部屋からは不気味な笑い声が聞こえるわ、時々妙な叫び声もあげる。
よく聞くのは「キター!」とか「モエー!」なんていう叫び声でどうにかならんのかと文句は言いたいものの言いに行ったら行ったで下手に何か見たらちょっと後悔しそうなので言えずにいる俺。
そんな事を考えながら黙々と歩いてバス停へ。
平輪中央病院前行きのバスは今から五分後、か。
ベンチに座って俺はバスを待つことにした。
――んだけど。
「ここはどこかな? あれ? 顔が酷い!」
ベンチに座ってきたのは奏だった。
顔が酷いのは傷の事だよな、俺の顔が不細工でそう言ってるんじゃないんだよな。
「……お前さ。いや……いいや」
また病院から抜け出してきただろ――そんな質問などする意味がない。
「君を見かけた、いつだか会った気がしたから君についていけばここがどこか解る気がしたの」
自信満々に奏は腕を組みながら言う。
お前ならたとえ登山中に遭難しても笑顔で山を駆け下りて誰か見つけそうな気がするよ。
「バスが来るからここで待ってればいい」
「バス楽しみだあ」
バスが来るやその笑顔は更に輝きを増し、運転手に両手を振って騒ぎはじめて通行人の視線を浴びてちょっと恥ずかしかった。
バスに乗り込むや奏は窓側の席に座り、バスが走るや窓に頬を引っ付けて「速いですなあ」なんて小さく感想を漏らしていた。
そうだね――なんて一言彼女に返してそっとしておいてやる。
彼女の隣に座ろうか、座っていいのかなと一瞬悩んだが俺の手を引いて隣に座ってと言わんばかりに見てきたので着席。
窓の外に広がる住宅街、田んぼ、しばらくすれば観光通りに入って辺りは飲食店やらばかりの光景。
俺はもう見飽きた光景だが、彼女にとっては新鮮なようで笑顔が絶えない。
いつも退屈な移動中のバスも、彼女と隣同士で座っていられるだけで何だか幸せだ。
幸せな十五分間を終えてバスから降りると目の前には平輪中央病院。
この街の大病院としても知られているがここへ来たのは初めてだ。
二階建てばかりの街中に五階建ての病院があるもんだから遠くから見てもこの病院が目立つ。
「敵陣だ」
たいそうな敵陣だことで。
「ん? あの人……」
彼女の言う敵陣へと乗り込もうとしたところ、玄関を出て行く一人の少女の後姿に目が止まった。
どこかで見た事のある容姿、お互い距離はさほど無かったが視線が交差しなかったために、俺の頭の中には栄子さんかな? という疑問があるも確認までは至らず。
制服姿も栄子さんが着ていたものと同一、しかしながら普通なら今は授業を受けている時間。
彼女だとしたらこんな時間に病院へ行くのはどこか怪我でもしたのか、それとも病気かなんか? にしては快活な足取り。
「どうしたの?」
「いや……別に」
鼻腔を突付くのは薔薇の香りと混ざった煙草に酷似した臭い。
誰かと会っていた、とか?
いいや、先ずあの少女が栄子さんであると決まったわけではない。
声をかければ早いが今はこいつを病院に連れて行くのが先決なので俺は踵を返して奏をつれて中へ入った。
老若男女、それも数え切れないほどの人々で溢れており、彼女を連れて行くのも一苦労だ。
そのまま受付へ行き、どう説明しようかと考えたものの説明せずとも奏を見せてやれば解決するな、と彼女を差し出すように受付の人に見せてやった。
「あの、こいつ」
「あ、奏さん! 皆探してたんですよ!」
予想通り、説明の必要もなかった。
しばらくして看護士がやってきて、頭を下げられて彼女は連れられていく。
奏は寂しそうに俺のほうを見るも、俺にはどうする事も出来ない。
「助けてぇ」
「心配すんな」
それほど病院が嫌なのか、それとも外が好きなのかは定かではないが少なくとも外に奏が出ると看護士が探しにいかなくてはならないので迷惑が掛かるのだけは確かなので彼女の要望には応えられない。
「あの、彼女との面会は出来ますか?」
「よろしいですよ、こちらで手続きしてください」
よかった、これで奏とここで会える。
手続きを済ませて案内されたのは病院の最上階個室。
そこはかとなく普通の入院患者とは違う扱いに感じられた。
中に入ると一人が入院するには広すぎる部屋に思わず口を開けて辺りを見回した。
エアコン、冷蔵庫、テレビ、もはや入院というよりもここに住める環境、入院用は一体いくらするのだろう。
もしかして奏の家族って大金持ち?
中央には大きなベッドの上に正座して明らかにへそを曲げている様子の奏。
頬を膨らませ、怒っているとアピールしたいのか腕を組んでいるが俺にはただ可愛らしく見えるね。
看護士がなんとか宥めているも一向に奏の機嫌はよろしくない。
しかし俺を見るや、
「助けに来てくれたか、友よ」
満面の笑みで俺を見てくる。
「いや、面会に来た」
当然助けたところで彼女は外に出たがり、外に出たら看護士達は大慌てになる未来しか無いので救いの手は絶対に差し伸べない。
「君も敵だったのねえ」
敵はいないんだがな。
看護士さんはそっと部屋を出て俺達に気を遣ってくれたようだが、扉の隙間からじっとこっちを見てきてすごく気になる。
奏が逃げ出さないように監視しているんだろうけど俺が監視されてる気分だ。
「――すみません、またあいつ抜け出したんですね?」
すると扉の奥から男性の声。
「親切な人が来たのだー」
奏は扉のほうを見て小さく拍手。
――じゃあ宗助は?
親切な人なのだ。
親切な人――ねえ。
そんなやり取りと以前にした記憶がある、つまり扉の奥にいるのは――
「奏、駄目だろう。看護士さんに迷惑かけちゃさあ。それと今日は母さん来れな……」
扉を開けて中に入ってくる青年。
青年の顔を見ようとするも俺より身長が高いために、視線の先には首。
照準をやや上に上げると青年の顔があり、お互い目が合うや口を開けた。
「あっ」
「おっ」
「んー?」
俺達の声に続くかのように奏が首を傾げながらそう言い、沈黙。
俺の知っている宗助って奴はあまりにも昔の記憶であるために彼を記憶と一致させようにも体型からして一致できるものは無い。
しかしその顔は幼き頃の名残が確かにあり、磨きが掛かったかのように一つ一つ顔の部品はお見事――なんて言いたくなるくらいに整っていた。
「宗……助?」
間違いはない、ああ――間違いはないはずだが確認したくなる。
「し……」
――し?
「師匠!」
「師匠言うなや」
そういえば宗助は俺の事、師匠って呼んでたな。
懐かしいけど恥ずかしい。
「お師匠様なの!? こ、これは失礼しました……」
「かしこまるな!」
奏はベッドの上で土下座までしてくるが師匠と呼ばれるほど俺は特にすごい奴じゃない。
今はただの学生で、昔は馬鹿な小学生。
「でもどうしてここに? 学校は?」
宗助とは小学校を卒業して以来は会っていないから、三年振りってところ。
その再会を病室でとなると大きなクエスチョンマークが彼の頭の上に浮かんで見える。
どこから説明すればいいのやら、こちらとしても難しい質問だ。
「奏が脱走したから看護士に引き渡しての繰り返しをしてたらここにたどり着いたんだ。学校は……まあ創立記念日」
俺の通っている学校の創立記念日がいつなのかは知らない。
長々と説明せず短く簡単な言葉で説明しておいた。
今はこれで十分だろう、ここにいる理由だけを述べるのなら――な。
「そっかあ。でもその顔……どうしたの?」
「時に男は闘わねばならない時があるのだ」
「な、なるほど……さすが師匠!」
だから師匠言うなや。
それにこの怪我、南奥高にやられたなんて言ったら荒波を呼んでしまいそうなので真相は語るまい。
「いやあしかし師匠に会えるなんて嬉しいなあ」
「しばらく見ないうちに背が高くなったな」
俺とて身長は高いほうではないが低いほうでもない、それでも頭一つ分ほど俺より視線が上でこうして話している最中も俺は見上げ、彼は見下ろしという視線の交差。
「師匠は……こ、これから伸びるよ!」
ほっとけ。
お前は俺の背が低いと思っているだろうが、一般的には俺の身長はごく普通だ。
お前の背が高いからこそ俺の背が低いと感じるだけで、決して俺の身長は低いと分類されない。
そうだよな? そうだとも、そうに違いない。
「頑張れ師匠!」
奏、お前も師匠言うなや。
それに励まされると俺は高くもなく低くもなく普通と自負している自分の身長に自信が持てなくなるんだけど。
さて――再会に喜びを分かち合って昔話をするのもいいが、聞きたい事がある。
「――でさあ、奏はもう何回も脱走するし看護士さんの見張りが最近増えてきたんだよ」
「囚人みたいな扱いだな」
とはいえどこで話を切り出せばいいのか、宗助は俺へ濁流の如く言葉を放ってきてかれこれ三十分。
奏は構ってくれないから退屈したのか寝始めてしまうし。
「そういえば最近も人助けしてる? 師匠はほんとすごい人だからしてるよね!」
「まあ……ほんの少し」
人助け、といえば姫子が思い浮かぶ。
「流石だなあ、ひょっとしてその怪我も人助けで?」
「まぁ……うん、そう」
ただの喧嘩とも言えるけど、一応人助けとも言える。
「俺も師匠みたく強くなりたいなあ」
別に強くないんだけどな。
しかしそろそろ話を切り替えよう、このままだと分針が一周してしまう。
「そうそう、一つ聞きたいんだけど宗助さ、大鰐姫子って知ってる?」
宗助の眉間が一瞬だけ動いた。
動揺――唐突に彼女の名前が出たものだから、反応してしまったようだがそれを悟られまいと笑顔を作る様子から知られて欲しくない領域に踏み込んだのかもしれない。
「ああ……知ってるよ、同じ学校に通ってるからね。最近は休学してるらしくて見てないけど」
「お前さ、あいつと何かあった?」
「何か……って?」
あまり離したくはないようで、誤魔化したいのか視線を逸らして林檎を手にとって果物ナイフで皮むきを始める宗助。
「実は色々あってあいつさ、今俺の家にいるんだ。両親と喧嘩してよ」
どういう経緯で姫子が俺の家にいるのか、話せば少し長くなるから割愛。
「へ、へえ……そうなんだ」
「バイトも紹介してやってさ。でも紙切れっていうかメモを見つけたんだよな、そこにお前の名前とか書いてた」
皮むきをしていた手が止まった。
「気になってお前の家にも行ったんだぜ、お前は留守だったけどお前の家の前で姫子と会ったんだ」
「そっか……」
誤魔化す気も無くなったようで、宗助は言下に溜め息を吐いて林檎を台に置いて再び口を開いた。
「お前とあいつの関係が噂にもなってるし、姫子のバイト先には冷やかしにきた奴らもいるんだぜ」
「ああ――あの子か、な……」
多分お前が今頭の中で浮かべているあの子とやらは喫茶店に来た四人の中で最も煽っていた子だろう。
「喧嘩や家出も、学校を辞めるとか言い出したのもなんでかなって気になってさ。俺は出来ればその原因を知ってあいつの中の蟠りを解消してやりたいんだ」
「……わかった、場所を変えよう」
あのメモには奏の名前もあった、少なからずとも彼女にも関係しているからこそ、彼女には聞かれたくないからこそ場所を変える――という事かな。
部屋を出て近くにいた看護士が入れ替わりで病室に。
眠っているとはいえ警戒は必要ってか。
一階へ降りて中庭に行くと噴水の近くにあったベンチへ俺達は腰を下ろした。
今日は天気も良くここは草木が茂っているからいるだけで心地良い。
「大鰐はさ、昔から奏と一緒に遊んでたんだ。それで俺もあいつとは長い付き合いなんだよね」
奏に姫子を知っているか質問した時は聞いたことある、かもとか言ってたのにあいつ……姫子との関係を俺に隠していたのか?
それほど親しい関係にも感じられなかったし、嘘を付いている様子なんて解らなかった。
俺に隠す理由も見当たらないから、信じて深くは追求しなかったのもあるけど。
「一ヶ月くらい前に奏は、思い出の場所に行きたいって言ってね。あそこは今でも俺達の作ったベンチや、頑張って咲かせた花があるかなってさ」
「ああ……あの丘か……」
皆でよく遊んでいた丘。
街からは少し離れている場所に木々が目立つ地区がある。
そこらは階段のような地形であるために住宅があまり建てられておらず、俺達は自転車ですぐ行ける距離だったのでよく遊びに行った場所だ。
最近は住宅も増えて木々も減って丘はどうなったのか解らない。
「そしたら大鰐は奏をつれて病院を抜け出してね。夜中なのもあって看護士も大慌てで俺にも連絡が来て探しに行ったよ」
「もしかして姫子の奴……」
奏の願いを聞き届けたいからこそ奏の脱走を手助けした、としたら……。
「そう――思い出の場所に向かったんだ」
あいつの思考回路ってのはどうなっているのやら解剖実験が出来たら是非やってみたいものだ、そしたらあいつの脳みそでドリブルでもしてやる。
「あそこには行けたのか解らないけど、二人は傷だらけで警察に保護されて帰ってきて俺は……」
「――俺は?」
「大鰐を引っぱたいた……」
解らなくもないその気持ち。
宗助の奏に対する想いを俺は理解している、彼の立場になれば俺でも引っぱたくだろう。
「学校で会った時にまた口論になって、一週間くらい学校休んだ大鰐は来たと思えば学校を辞めるって言い出してさ」
こうして話を聞くと宗助と姫子は恋愛関係で揉めていたのではないようだ、なぜだろう――ちょっとほっとした……?
あくまでも家出の原因は宗助ではなく、姫子の父親との喧嘩が原因かも。
一週間学校を休んだのも気になるし、宗助が原因だとしたら口論になって勢いに乗ったまま家出をするだろうが、そうせずにいたのはまだ家出のきっかけがなかったから……かな。
とはいえ彼女の母とも電話をしたが怒りはまったく引いていない様子だし仲直りするには溝はかなり深そうで埋めるには難しいかも。
姫子の奴は絶対に自分から謝りに行くつもりはない様子だ。
強引に連れて行くのも俺が直接姫子の父親に仲直りしてください! なんて言いに行っても意味は無い。
とりあえずあとは宗助と話したと姫子に言えば不透明になっている部分――学校を辞めると言い出した理由に関しては、彼女の口から自然と出てくるかもしれない。
かなり遠回りした気がするけど、おかげで宗助や奏と再会できてよかったかな。
「病院にも来なくて大鰐のその後はどうしてるか全然解らないんだけど、その頃の大鰐は……?」
「家出して公園で寝泊りして風邪引いて俺が保護して部屋を貸したら引きこもってちょっとした外出恐怖症になってた」
「俺のせいかな……」
「お前のせいじゃないさ、姫子個人の問題だ」
「師匠……」
だから師匠と言うんじゃない。
これで少しは宗助も感じていた責任を緩和させれただろう。
「そういえば、さ。奏……どうして入院してるんだ?」
この話は終わり――とはいえ気になる事をもう一つ聞いてみる。
勇気のいる質問だった、一瞬躊躇したけど見るからに元気ではあるが彼女は現在入院中なのでもしかしたら大病かもという不安が言葉を喉から押し出した。
「その……なんて説明すればいい、かな……ああ、死にはしないよ!」
周りの入院患者が一斉にこっちを見た、病院で死とかそういう単語を出すのは控えような。
「そうか、奏に聞いてもよく解らないって言っててよ。元気に歩き回るのに入院も引っ掛かってさ」
「身体はどこも悪くないんだよ、ただ……」
宗助は言葉が喉で支えて中々その先を言えず、視線を地面へ落としていた。
小さく溜め息をついた後に、宗助はゆっくりと口を開いた。
「心が、ね」
「……心?」
――と言われてもしっくりこない。
「壊れた……んだ」
涙目になる宗助。
このまま話を続けるべきか、戸惑うも聞くべきだと本能が訴える。
「こ、壊れたって……?」
「……奏と会った時、どうだった?」
どうって言われてもな……。
「昔と全然変わってなかったぜ?」
「師匠の事、憶えてた?」
「憶えてはいなかったけど……」
彼女にとって俺という存在はその程度だったのかも――なんて考えるだけで落ち込むのであまり考えないようにはしていたが。
「奏は定期的に会わないとすぐに忘れるし、時々記憶も混乱するんだよね」
「忘れる? そんな簡単にか? それに混乱って……」
でもいつだかそれと似たような病気を題材としたドラマやら映画やら小説やら、兎に角なにやら目にしたような気がする。
「……人に限らず、出来事もね。少しは憶えてる事もあるけど、多分そのうち忘れると思う。俺も詳しくは聞いてないから良く解らないんだけどさ」
「アルツ……ハイマー? だっけ? それ……なのか?」
記憶にすり切られてこの名称が合っているかは解らないが、合っていなかったとしても言いたい事はわかるはず。
「それとは違うらしい。ただ……奏は昔に階段から落ちて頭を強く打って、それ以来……」
なら俺の事はそのせいでまったく憶えてなかったと思っていいのだろうか。
そうだとしたら……そうであっても憶えていないのだから悲しいのは変わらない。
「医者が言うには辛い事もあったのが原因だろうって」
「辛い事――って、あいつ……何かあったのか?」
沈黙。
宗助はゆっくりと上を向いて、溜め息を吐きながら再び視線を地面へ落とす。
「奏の母親さ、自殺したんだ」
「なんだって!? いつ……?」
それで奏も自殺しようとしたのか……。
「奏が転校してから半年後あたりにね。奏は泣きながらお風呂場で手首を切った母親の手首を押さえてたらしい」
知らなかった……。
奏が引っ越してからは、あいつも遠くで元気に過ごしてるだろうなんて思い込んで、陽気に晴天の下を走り回ってた自分が憎らしく思う。
「俺の父さんは俺が生まれてすぐに交通事故で亡くなってね、母さんは寂しかったのか奏の父親と不倫関係になっててさ。奏の母親の自殺の原因はそれだと俺は思ってる」
何て声を掛けてやればいいのか、言葉が見つからない。
「しかも去年に二人は結婚、笑っちゃうよね。四月には同居してうちに来てさ。奏のためだなんて嘘に決まってる」
「結婚ってことは……」
「ああ、奏と俺は家族になった。誕生日は俺のほうが早いから奏は俺の妹になったんだ」
複雑な気持ちだろう、ここで懸命に何か掛ける言葉を考えて言ったとしてもそんなの気休めにもならない。
「でも俺は奏が好きなのは変わらない。奏が壊れたって……妹になってもそれだけはずっと、ずっと変わらないよ。それに、この気持ちは師匠にだって――負けない……!」
「……ああ、そうだな」
奏がどうなっても変わらぬ好意、愛。
彼の抱くその想いを前にして俺は……ここは奏を好きである俺としては宗助に負けないくらいに奏が好き……いいや愛していると宣言したくもなったが、そうだなと言うしかなく抱いていたこの思考を雲散したいかのように目を閉じた。
多分俺は……。
いや、やめておこう。
考えるのも、今は。
しばらくお互い、言葉を交わさずとも分かり合う時間を欲しているかのようにあえて口を開かなかった。
中庭の中央に設置されている時計の針が数回動いた後に、俺はこの重苦しくなっていく空気を抜け出したいが故にようやく口を開いた。
「奏は……いつまで入院なんだ?」
「多分来月には退院、かな。また入院するかもしれないけど」
宗助は腰を上げ、俺も釣られて腰を上げた。
大体話は終わったのでそろそろ病室にということだろう。
「大鰐が奏を病院から抜け出させて以来奏は何度か一人で抜け出しちゃうようになって大変でね」
「思い出の場所に行きたいんじゃないのか?」
「そうかも」
思い出の場所かあ。
奏が行きたいのなら連れて行ってやりたいが、といっても思い出の場所とやらがどこなのかが解らない。
もしかしたら、昔皆で行ったあの丘……? 確信は無いがしかし、姫子は知っているようだし今度聞いてみるか。
「あの……さ」
「何だ?」
「大鰐は病院に……来ないのかな? あの時はさ、その……」
口篭る宗助。
なるほどな、頬を叩いたとあってやりすぎちゃったかなあとか思ってるんだろう。
「今度連れて来ようか?」
「え? あ……まあ、あいつが来たいっていうならさ、か、構わないけど」
素直じゃないなあ。
もう少し病室でゆっくり話でもと誘われたものの俺は腕時計を確認するや時刻はすでに昼の十二時近くになっているため今は自宅へと戻る事にした。




